第93話「頂の連なり、あるいは再生の山形食パン」
深夜2時。オフィスに響くのは、空調の低い唸りと、乾いたタイピング音だけだ。
システムエンジニアとして働く俺は、数時間前に思考を止め、もはや自分が何を作っているのかも分からなくなっていた。
デスクの隅には、吸い殻の山と、飲み干した栄養ゼリーの空き容器。これさえ流し込めば、明日も「燃料」は持つ。そう信じて疑わなかった。
「…………」
無意識に開いたスマートフォンの画面。あかり様の配信が、静かに流れていた。彼女が掲げていたのは、型から力強く盛り上がった**『山形食パン』**。
『見て、この自由な膨らみ。型に蓋をせず、内側から溢れ出すエネルギーのままに焼き上げられた、野生の形。……パンはね、誰かに決められた形になるために発酵するんじゃないの。自分が一番心地よい場所まで、ただ高く、高く伸びていきたいだけなのよ』
その言葉が、澱んだ脳内に、不思議な熱を持って入り込んできた。
翌朝。俺はいつもの駅ビルのドラッグストアを通り過ぎ、初めて、駅前のパン屋の列に並んだ。
あかり様が言っていた「山形食パン」を一枚、自分のために買った。
会社の給湯室で、そのパンを一口齧った。
香ばしい耳の歯ごたえと、驚くほど柔らかな生地の甘み。
「……あ」
気がつけば、頬を涙が伝っていた。今まで喉を通していた冷たいゼリーとは違う、確かな「温度」と「救い」がそこにあった。
一ヶ月後、俺は辞表を出した。
引き止める上司の声も、どこか遠い国の言葉のように聞こえた。
「で、辞めてどうするんだ。宛てはあるのか?」
「……パンを焼こうかと」
自分でも驚くほど軽いノリで答えていた。けれど、心の中はかつてないほど「二次発酵」が進み、パンパンに膨らんでいた。
それから独学でパンの研究をし納得のいくパンを焼き上げた俺は今、小さなパン屋を営んでいる。
店名は**「頂」**。
『ここの食パン、トーストすると「自由の味」がするんだよな』
『店主、元IT系らしいけど、パンに対する熱量が異常w』
SNSでの評判が呼び水となり、今や開店1時間で完売する人気店になった。
俺は毎朝、窯出しの山形食パンをあかり様の写真に供える。そして、かつての俺のように疲れ果てた顔をした客が来ると、そっと一番いい焼き色のパンを差し出すんだ。
「これ、型に縛られずに焼いたパンなんです。食べると少し、楽になりますよ」
俺のあかり様への信仰度はすでに限界を超えているのだろう。
時折、店を覗くスーツ姿の男が、驚くほど神速でレジ前のわずかなパン粉を指先で回収していくが、俺は驚かない。きっと聖地からの視察なのだと、確信している。
『店主の背後にあかり様のオーラが見えるw』
『人類パン化計画の地方支部、ここにあったか』
『山形食パンの頂上が、あかり様の救済に見えるのは俺だけか?』
俺の心という名のオーブンは、今日もあかり様の教えを糧に、最高の温度で燃え続けている。




