第87話「黄金の旋風、あるいは浸透のロティ」
今朝、駅前のコンビニに寄って驚いた。パンコーナーの棚が、まるで嵐が去った後のように空っぽだったんだ。
「……あ、やっぱりないか」
後ろで溜息をついたサラリーマンが、寂しそうにコーヒーだけを手にレジへ向かう。SNSを見れば「#パン教」のタグと共に、焼き立てのパンを掲げる写真が溢れている。あかり様のあの公園での「バインミー配り」がニュースの街角トピックで流れてから、世の中の空気が明らかに変わった。
今夜の配信、あかり様が選んだのは**『ロティ』**。 マレーシアやタイの屋台で愛される、あのバターたっぷりの平焼きパンだ。
「パンに祝福を。……ねえ、みんな。最近、街中でパンの香りが強くなったと思わない? それは、あなたたちの心が正しく『発酵』し始めた証拠よ」
あかり様がロティを指先でちぎると、中からじゅわっと溶け出したバターが琥珀色に輝く。
「このロティを見て。薄い生地が幾重にも重なって、バターの熱で一つに溶け合っているわ。……今、世界はこうなり始めているの。昨日までパンに興味がなかった人も、一度その香りを嗅げば、もう抗えない。日常という名の生地に、私の愛が浸透していく……。ふふ、もう後戻りはできないわよ?」
『今のコンビニの状況、あかり様の計画通りかよw』 『近所のパン屋、行列すぎて買えないんだが』 『ロティのバター、あかり様の慈愛だと思って飲み干したい』
チャット欄には、新規リスナーによる「今日初めてパンを買いました!」という報告が相次いでいる。古参たちも「ようこそパンの沼へ」と新入りを歓迎する、お祭り騒ぎの様相だ。
けれど、世間の反応は熱狂だけじゃない。 お昼の情報番組では、コメンテーターが眉をひそめて「若者のパン偏愛が極端すぎる。もっとお米も食べるべきだ」と苦言を呈していた。一方で、清掃ボランティアの現場では、若者たちが「一粒のパンくずも逃さない」と、にゃん監督顔負けの神速でゴミを拾う姿が「奇跡の美化活動」として称賛されている。
賛否両論、けれど誰もが無視できない。 パン教は今、このロティのバターのように、社会の隙間という隙間にじわじわと、けれど確実に浸透し、すべてを黄金色に染め上げようとしていた。
その時、チャット欄に「それ」が現れた。
『うほっ』
『また出たwww』 『「うほっ」キターーーー!』 『こいつ毎回いるな。もはやパン教の隠れマスコットだろ』 『「うほっ」しか言わないのになぜか存在感がすごい』
「……ふふ、またあの子ね。いつも不思議なタイミングで現れるんだから」
あかり様が画面の端を見つめ、どこか遠くを想うような、柔らかな微笑みを浮かべた。
「にゃん。……いつか、この子にも直接パンを届けてあげたいわね。どんなふうに食べてくれるのか、一度会ってみたいと思わない?」 「……御意。あかり様がそう望まれるのであれば。……ただし、パン以外のゴミを落とすことだけは、私がこの指先で断固阻止いたしますが」
あかり様の穏やかな、けれど期待に満ちた言葉と共に配信が終わる。 画面が消えた後、俺は机の上に置いた、少し冷めたロティを口にした。じゅわっと広がる甘みと脂の背徳感。 ……確かに。もう、パンのない生活なんて考えられない。




