第84話「無数の瞳、あるいは戦慄のクランペット」
深夜。前回の「パン嫌いな彼氏への洗脳計画」の興奮が冷めやらぬ中、あかり様はいつになく静かな、けれど底知れない笑みを湛えていた。
「パンに祝福を。……ねえ、みんな。前回は少し取り乱してしまったけれど、せっかくの機会だから、私が本当に求めている**『純粋な世界』**、その理想の生活を少しだけ詳しく紹介してあげるわね」
あかり様が取り出したのは、表面に無数の小さな穴が開いた、独特な形の**『クランペット』**。
「今夜の救済パンはこれ、クランペットよ。イギリスで愛される、もちもちしたパン。……見て、この表面に開いた無数の穴。これ、何に見えるかしら? 私はね……これが全部、私を見つめる『パンの瞳』に見えるのよ」
『……あかり様、最初から飛ばしすぎです』 『瞳!? 怖い怖い怖い』 『「純粋な世界」の導入がこれなのが不穏すぎる』
「私の理想の家はね、壁紙がすべてクランペットでできているの。朝起きて、壁にある無数の瞳(穴)に、溶かしたバターと蜂蜜を塗り込んで回るのが私の日課。穴からじゅわぁっと溢れ出す黄金の蜜を、指先でなぞりながら『おはよう、今日も発酵してるわね』って語りかけるのよ」
あかり様がクランペットを指でなぞる所作に、カメラが寄る。その瞳は完全に「あっち側」の光を宿していた。
「寝室だけじゃないわ。お風呂だってそう。湯船にはイースト菌を混ぜた温かい麦汁を張って、自分の肌がパン生地のように白く、しなやかになるまで浸かるの。仕上げに全身に小麦粉を振りかけて、自分が大きな一斤のパンドミになった気分でベッドに入る……。ああ、これ以上の幸せがこの世にあるかしら?」
『もはやホラー映画の導入』 『人間をやめるツアーかな?』 『にゃん監督! 止めてくれ! あかり様をこっちに戻して!』
画面の端では、にゃんが「素晴らしい……壁一面のバター清掃、私にお任せください」と、より深い狂気で応えている。ココとゆんは、スタジオの隅で抱き合って震えていた。
「みんな、どうして震えているの? 怖くないわよ。あなたたちも、このクランペットの穴の一つ一つに閉じ込めてあげたいくらい……。そうすれば、一生私のパン生活を見守っていられるでしょう? ふふ、ふふふふふ……!」
あかり様の笑い声がスタジオに反響し、チャット欄は阿鼻叫喚の嵐となった。
『救済どころか収容所なんだがwww』 『あかり様の家、絶対甘ったるい匂いと狂気で充満してる』 『今日の配信、R-15(サイコホラー)指定にしませんか?』 『うほっ』 『↑また「うほっ」がいるwwwこの状況で「うほっ」は強心臓すぎるだろ』
「……あら、少し熱が入りすぎちゃった? でも、これが私の目指す、不純なものが何一つない**『純粋な世界』**なの。明日も、あなたというパンに豊かな……いえ、逃げ場のない発酵があらんことを。パンに祝福を!!」
配信が切れた後も、俺たちは画面に映る自分の顔を見るのが怖かった。クランペットの穴が、すべてあかり様の瞳に見えてくる――そんな幻覚に襲われながら、俺たちは今夜もパンへの恐怖と忠誠を誓うしかなかった。




