第81話「静寂の冠、あるいは慈愛のカイザーゼンメル」
深夜。仕事終わりの重い体を引きずりながら、俺はスマートフォンの画面をタップした。 最近のパン教は、清掃選手権や新しい総監督「にゃん」の登場で、とにかくお祭り騒ぎだった。けれど、今夜の画面に映ったあかり様は、驚くほど静かな空気を纏っていた。
「パンに祝福を。……今夜は、少しだけ静かにお話ししましょうか。みんな、今日もお疲れ様」
薄暗いスタジオで、彼女がそっと掲げたのは、表面に五つの溝が刻まれた、星のような、あるいは王冠のような形のシンプルなパンだった。
「今夜の救済パンは、『カイザーゼンメル』。オーストリアで『皇帝のパン』と呼ばれた、とても歴史のある、けれど、とても素朴なパンよ。見て、この表面に刻まれた模様……まるで、私たちが日々の中で刻んできた、小さなしわや、傷跡みたいじゃない?」
あかり様の指先が、そのパンの溝を優しくなぞる。その所作があまりに丁寧で、見ているこちらの、ささくれ立った心が少しずつ解けていくのを感じた。
「皇帝の名を冠しているけれど、派手な飾りは何もないの。ただ、毎日食べても飽きない、実直な小麦の味。……ねえ、一生懸命に頑張っていると、時々、自分という生地が固くなりすぎちゃうことがあるわよね。でも、大丈夫。カイザーゼンメルが、その固い皮で中身を大切に守っているように、あなたのその頑固さも、脆さも、全部があなたを守るための大切な器なんだから」
あかり様が、そのパンをゆっくりと二つに割った。香ばしい香りが画面越しに漂ってきそうな、静かな「パキッ」という音が耳に心地いい。
「……ん。……噛みしめるほどに、優しい。このパンには、特別なスパイスなんていらないわ。ただ、こうして静かに、自分が今ここにいることを確かめるだけで十分なの。……みんな、今夜は自分を甘やかしてあげて。一粒のパン、一杯の白湯。それだけで、明日のあなたはまた新しく発酵できるんだから」
チャット欄には、いつもなら流れる「にゃん監督!」や「拾います!」といった言葉は一つもない。ただ、「泣きそう」「落ち着く」「パン買って帰る」という、静かな共感の言葉がゆっくりと流れていく。
「にゃんも、ココも、ゆんも、今夜はもう夢の中。……ふふ、たまにはこうして、二人きりも悪くないわね。最後は、あなたの眠りが深く、穏やかになるように……子守歌を贈るわ」
あかり様がマイクをそっと引き寄せ、瞳を閉じる。伴奏すらない無伴奏の、透き通った歌声が、夜の静寂に溶け出していった。
『おやすみ 愛しいパンたち 暗い夜を 毛布に変えて あなたの傷を バターで埋めて 明日には ふっくら 目覚めるように 星の冠を 枕元に置いて 私がずっと 見守っているから』
その歌声は、温かいオーブンの中で膨らむパンを見守るような、無条件の肯定に満ちていた。俺の意識は、あかり様の優しいハミングに揺られながら、深い眠りへと沈んでいく。
「明日も、あなたというパンに豊かな発酵があらんことを。……おやすみなさい。パンに祝福を」
配信が終わり、黒い画面に自分の穏やかな寝顔が映る。明日、駅前のパン屋でカイザーゼンメルを探してみよう。そんなささやかな希望を抱きながら、俺は今夜、久しぶりに深い夢を見られそうな気がしていた。




