第72話「禁断の果実、あるいは予兆のアップルパイ」
「パンに祝福を! みんな、昨日の配信は楽しんでもらえたかしら?」
画面の中のあかりは、機嫌よさそうにサクサクと快い音を立てて**『アップルパイ』**を頬張っていました。贅沢にバターが香るパイ生地が弾け、中からはシナモンで煮詰められた艶やかなリンゴが顔を出しています。
「昨日のゲームも笑えたけれど、やっぱり何か物足りないのよね。……ねえ、ココ、ゆん。いっそのこと、私がプロデュースする『真のパン教ゲーム』を作ってみるというのはどうかしら?」
「あはは、あかりちゃんが作ったら、発酵に失敗した瞬間にゲームオーバーになる超絶難易度になりそうですね」 「おれは戦闘要素が欲しい。異教徒をバゲットでなぎ倒しながら、聖地を奪還するような……」
あかりは二人の意見を聞きながら、楽しそうにパイを口に運びます。
「ふふ、いいわね。でも、ただのゲームじゃダメよ。画面越しに焼きたての香りが漂い、一口噛めば脳内に賛美歌が鳴り響くような、魂を直接揺さぶる体験が必要だわ。タイトルはそうね……。
『そろそろパン食べないと死ぬぜ!!エンドレス』
なんてどうかしら?」
チャット欄は「タイトルからして狂気」「常にパンを補給し続けないと即死するのか」といった期待と困惑で埋め尽くされます。 イベントの成功を経て、あかりの想像力はますます奔放に、そして豊かに膨らんでいました。
「アップルパイのこの何層にも重なったパイ生地のように、私の計画も複雑で、そして甘美に仕上がるはずよ。みんな、その時が来たら……私の世界にどっぷりと浸かりなさい!」
いつものように、あかりの華やかな笑顔と軽快な挨拶で配信は幕を閉じました。
――しかし、配信が終了し、スタッフやあかりたちがスタジオを後にした、その後のことです。
誰もいなくなったはずのスタジオ。照明が落ち、わずかに街灯の光が差し込む静寂の中で、床に這いつくばるように動く一つの影がありました。
サリ、サリ……。
それは、あかりが食べこぼしたアップルパイの、砂粒ほどに小さなパンくずを、指先で丁寧に、けれど恐るべき手際で拾い集める人影でした。
その人影は、拾った欠片を愛おしそうに見つめると、闇の中でひっそりと、満足げに肩を揺らしました。 あかりが名付けた新作ゲームのタイトルのように、パンへの終わることのない執着を体現するかのようなその動き。
スタジオの隅に落ちた、たった一欠片の「パンくず」さえも逃さないその奇妙な影が、この場所で何を待っているのか。
それはまだ、誰も知りません。




