第7話「顎(あご)への洗礼と、緋色の刺激」
「はい、お疲れ様でした。次の方どうぞ……」
役所の窓口。俺は機械的に書類を受け取り、判を押し、返却する。午前九時から午後五時まで、波風の立たない、どこまでも平凡な毎日。不満があるわけじゃない。ただ、鏡を見るたびに自分の顔から「熱」が消えていくような、そんな淡々とした日々に慣れきっていた。昼飯に食べる弁当も、流し込むように食べられる柔らかいものばかりを選んでいた。
帰宅後、静まり返った部屋でスマホを開くと、白髪のVTuber「あかり」が、画面の中で何かに激怒していた。
「ちょっと! 酷くないですか!? 宝箱だと思って開けたのに、中身が『毒消し草』一本って……! わたしの期待と、道中の苦労を返してくださいよ! もう、世界なんて滅んでしまえばいいんです!」
画面の中で、彼女はRPGの宝箱の前で地談駄を踏んでいる。そのあまりの理不尽な怒りっぷりに、俺は思わず小さく吹き出した。
「……草一本で、よくそこまで熱くなれるな」
俺は、もう何年もそんな風に感情を動かしたことがない。穏やかすぎる俺の日常に、彼女の騒がしいエネルギーが少しだけ火を灯す。
「うぅ……期待外れすぎて、お腹が空きました。もう、優しさだけの救済はいりません。今夜は、真正面からバトルです! 見てください、この誇り高き姿を!」
あかりが画面に突き出したのは、こんがりと深い狐色に焼き上げられた**『明太フランス』**だった。切れ込みからは、溢れんばかりの明太ソースが鮮やかな緋色を覗かせている。
「いいですか? 世の中には、ふわふわと甘やかすパンばかりではありません。この子は、食べる者に本気の覚悟を要求します。……聴いてください、この『対話』の音を!」
彼女が明太フランスを、思い切り顎の力を込めて噛みちぎる。 ──バリィィッ! ザクッ!! マイクが拾ったのは、極限まで水分を飛ばして焼き固められた小麦の表皮が、小気味よく砕け散る乾いた音。
「……っ! 固い! でも、これがいいんです! 噛むほどに小麦の香ばしさが爆発して、その奥から……見てください、この溢れる緋色の海を! 濃厚なバターとピリッとくる明太子の刺激が、格闘した後の口内をご褒美で満たしていく……。これこそが、生きているという実感なんです!」
あかりの瞳が、熱い活気を取り戻して輝く。
「平凡な毎日に飽きたなら、もっと力を込めて噛み締めればいい。顎が疲れるほどの充足感を、全身で受け止めるんです。ただ飲み込むだけの日々を、この硬いパンで鮮やかに塗り替えてやりましょう! ……あなたもパン! わたしもパン! よろしくぅ!」
彼女がそのまま、闘志を鼓舞するような、激しくも神聖な賛美歌を歌い始めた。その力強い歌声が、俺の平坦だった胸の奥を激しく突き動かす。
「……噛み締める、か」
翌日の昼休み。俺はいつも通りの弁当を買いに行かなかった。 向かったのは、街で一番ハードなパンを焼くと評判の店。そこで手に入れた、ずっしりと重い明太フランスを、俺は大きく、全力で齧った。
「っ……あぐっ……!」
顎に確かな抵抗を感じる。だが、その後に広がる、濃厚な明太子と小麦の旨み。
「……うまい」
噛み砕くほどに溢れる熱い刺激。昨日までの俺なら、この硬さを「食べにくい」と避けていただろう。でも今は違う。自分の力で噛み砕き、味わう。その一歩踏込んだ実感が、平凡な日常に鮮やかな熱を吹き込んでいくのが分かった。
窓口に戻った俺の目は、昨日とは少し違っていた。 スマホの奥で笑う教祖の歌声を、確かに顎の奥で感じながら、俺は次の書類に力強く判を押し込んだ。




