第68話「天を突く歌声、あるいは祝祭のバゲット(後編)」
「……パンに祝福を。わが教徒たちが用意した最高のオーブンに、今、福音を投げ入れましょう」
幕が完全に開ききった瞬間、会場を支配したのは静寂でした。 逆光の中に立つ三つの影。中央に立つあかりが静かに、けれど有無を言わせぬ威厳を持って一歩前に踏み出した時、その圧倒的な存在感に、数千人の視線が釘付けになりました。
ココが奏でる繊細なピアノの旋律が広場に染み渡り、あかりがマイクを手に取ります。
一瞬の溜めの後、放たれたのは、これまでの配信での奔放さを微塵も感じさせない、荘厳な歌声でした。 大地を震わせるような深みのある響きから、天を突き抜けるほどに透明な高音まで。その歌唱力は、パンへの愛を歌っているはずなのに、聴く者の魂を直接揺さぶるような神々しさに満ちていました。
パンに興味のなかったカップルも、騒いでいた子供たちも、ただ呆然とステージ上の「教祖」を見上げています。
「……素晴らしいわ」
曲間にあかりが口を開きました。その瞳には、会場を埋め尽くすバゲットの槍と、教徒たちの熱気が映っています。
「見てなさい、このバゲットたちの立ち姿。一本一本が独立した個でありながら、こうして集まれば世界を貫く巨大な『麦の壁』となる。……ふふ、あはは! いいわ、最高の発酵具合よ! 全員まとめて、私の胃袋へ叩き込んであげたいくらいだわ!!」
一瞬、いつもの「狂気」が顔を覗かせ、教徒たちが狂喜乱舞してバゲットを振りかざします。一般客が少し圧倒されたその空気を、あかりは指先一つで再び制しました。
「でも、今夜は特別よ。主催者たちの血の滲むような準備に敬意を表して……最後の祈りを捧げましょう」
ゆんの豊かなコーラスが重なり、最後の一曲が始まります。それは、小麦が大地で育ち、火を経て、人々の血肉となるまでの輪廻を綴った、あまりにも荘厳な賛美歌でした。 会場にいたすべての人々が、自分たちが今日食べたパンの温もりを思い出し、言葉にできない感動に包まれます。
歌い終えたあかりは、一礼することなく、不敵な笑みを残したまま光の中に消えていきました。
ステージには再び主催者の教徒が立ち、感極まった声でマイクを握ります。 「……以上をもちまして、『青空大収穫祭』を閉幕いたします! 皆さん、胸にパンの祝福を!!」
夕暮れ時。祭りの余韻が残る帰り道、パンの袋を抱えた人々がゲートを潜っていきます。
「すごかったね、あの人……。パンの歌なのに、なんだか感動しちゃった」 「本当だね。明日、美味しいバゲット買って帰ろうか」 「うん! 僕、大きいパンがいい!」
教徒たちの熱狂が作り上げ、あかりの歌声が完成させた一日。 一般の家族連れやカップルの楽しげな会話が、香ばしい風に乗って、オレンジ色に染まる街へと溶けていきました。




