第46話「共鳴の個室、あるいは三連星の聖歌」
「……自分だけ、浮いている気がして」
金曜日の夜。職場の懇親会から抜け出してきた新入社員の男は、夜風に吹かれながら歩道橋に立っていた。 周りに合わせて笑い、流行りの曲を口ずさむ。けれど心の中では、誰とも波長が合っていないような、ひどい不協和音だけが鳴り響いている。自分だけの「声」が、都会の騒音にかき消されていくような心細さ。
男は孤独を紛らわせるように、ポケットの中で震えたスマホの通知をタップした。
画面に映ったのは、いつものスタジオではなく、派手な照明が回るカラオケボックスの一室だった。
「皆さん、こんばんは! 掲示板であんなに『歌って!』って言われちゃったら、やるしかないじゃない! というわけで今夜は、ココとゆんを連れたカラオケパーティーよ!」
あかりが満面の笑みでマイクを構えると、コメント欄は一気に加速した。『待ってました!』『ガチ歌枠だ!』『三人の歌声聴けるの?』と期待が渦巻く。
「まずは小手調べ! ゆんと私のデュエットで、疾走感あふれるあの一曲をいくわよ。ゆん、準備はいい?」 「……はい、あかり様。完璧なリズムを刻みます」
ゆんの力強く安定した低音と、あかりの突き抜けるような高音が絡み合う。二人の声はまるで、硬いパンの皮と柔らかな中身のように、互いを引き立て合って響き渡る。
続いて、ココマルがマイクを手に取り、あかりの隣に立った。 「次は私とあかり様で……幻想的なバラードを。皆さんの魂を、優しく発酵させましょう」
ココマルの透き通るような妖精の歌声と、あかりの情感豊かなロングトーン。二人のデュエットは、静謐な朝の空気のように室内の熱を浄化していく。リスナーからは『浄化される……』『これ無料配信でいいの?』と感嘆のコメントが流れた。
「そして最後は……もちろん、この三人で! 新曲**『パン行進曲』**!」
あかりの力強い歌い出しに、ゆんのドラムのようなコーラスと、ココマルの色彩豊かなハモリが重なる。三人の声は全く異なる個性を持ちながら、最後には一つの巨大な光となって、聴く者の心を震わせた。
「……ふぅ! やっぱり全力で歌うのって最高ね! さあ、歌い疲れたら今夜の『主役』に会いましょう。見て、この黄金に輝く要塞を!」
あかりが画面に突き出したのは、一斤丸ごと使われた巨大な**『ハニートースト』**だった。
「見てください。この食パンというキャンバスに描かれた、バターの海とハチミツの滝。……聴いてください、この『歓喜の音』を」
ココマルがスプーンを差し入れる。 ──サクッ、じゅわり。 トーストの香ばしい音と、溶け出したアイスが生地に吸い込まれる音が、ダイレクトにリスナーの鼓膜を揺さぶる。
「美味しいパンを囲んで歌えば、どんな不協和音だって最高の合唱になるのよ!」
賑やかな喧騒が一段落した頃、あかりはふと柔らかな表情になり、ゆんとココマルに目配せをした。二人が静かにマイクを置き、座席に深く腰を下ろす。
「最後は……今夜、どこかで一人で耳を澄ませているあなたに。この歌を贈るわ」
あかりが一人、マイクを両手で包み込むように持ち、目を閉じる。 流れてきたのは伴奏のない、清らかなアカペラの旋律。それはパンを、生命を、そして孤独を祝福するあかり独自の「賛美歌」だった。
あかりの声が響いた瞬間、空気が変わった。 それまでの賑やかさが嘘のように、透明で、力強く、どこまでも深い慈愛に満ちた歌声。高音が天に向かって真っ直ぐに突き抜けるたび、聴く者の心の澱が剥がれ落ちていくような、圧倒的な聖性がそこにはあった。
歩道橋の男は、スマホを握る手に力を込めた。 画面越しに届くその歌声は、まるであかりが隣に立って、彼の凍えた肩にそっと手を置いているかのような温かさを持っていた。
「……ああ、聴こえる」
男は小さく呟いた。 バラバラだった自分の心が、あかりの歌う聖なる旋律に共鳴し、不思議と整っていく。自分だけの不格好な声も、この広い世界の一部として存在していいのだと、初めて許された気がした。
歌い終えたあかりは、画面の向こうのリスナー一人ひとりに語りかけるように、穏やかに微笑んだ。
「いい? あなたの声は、あなただけの音色。無理に周りに合わせなくていいの。いつか私たちが、あなたの歌にパンの香りを添えてあげるわ」
配信が終わった後、男は夜空を見上げて、小さく鼻歌を歌った。 明日、誰に聴かせるわけでもない自分だけの歌。けれどその胸には、黄金色のトーストのような、温かな「自信」が確かに宿っていた。




