第37話「地下の発酵予備室、あるいは白米との決別」
地下の「発酵予備室(牢屋)」。そこには、あかりの放つ神々しいバターの香りに敗北した元スパイたちが、10人ほど身を寄せ合っていました。
中央に座っているのは、以前の潜入で完全にあかりの虜となり、「私はパンになりたい」と涙を流したあのスパイです。彼は今、新しく捕まってきた者たちに、パンの素晴らしさを説く「導き手」となっていました。
「……いいか、新人。顔を上げろ。不合格だったのは、お前の『焼き込み』が足りなかっただけだ」 「でも……『血液はメープル』って言った瞬間、あかり様の目が急に真面目になって……俺、怖くて……」
新入りが震えていると、リーダー格の男はあかりから差し入れられた山型食パンをふんわりとちぎり、彼に差し出しました。
「食え。これを食べれば、お前の体内の不純な『研ぎ汁』が浄化される。……いいか、よく考えろ。冬の朝、冷たい水で米を研ぐあの苦行を。炊飯器のパッキンに詰まった汚れを掃除する虚しさを」
新入りはパンを口に含み、そのあまりの幸福感に目を見開きました。 「……っ! なんですかこれ。噛むたびに甘い。……そういえば、米を炊き忘れて『今から40分待ちかよ……』って絶望する夜、もう嫌だったんです」
「そうだろ? その点パンはどうだ。焼くだけだ。焦げても愛おしい。……俺たちは、あかり様に救われたんだ。あの方の放つイースト菌の導きで、俺たちは『米』という殻を脱ぎ捨て、いつか本物のパンになれる」
「「「パンになりたい……!!」」」
牢屋のあちこちから、魂の叫びが上がります。彼らはもはや、スパイとしての任務など一欠片も覚えていませんでした。
「俺、ここを出たら、あかり様に全身に卵黄を塗ってもらって、こんがり焼き上げられたい」 「俺は、あかり様の手に捏ねられるだけの生地になりたい。……ゆくゆくは、あの『エリートパン』の領域に……!」
「よし、みんな! トングを構えろ!」 全員が、没収されなかった予備のトングを取り出しました。
「あかり様の歩調に合わせて、リズムを刻むんだ。カチ、カチ、カチ……。この音が、俺たちの新しい鼓動だ!」
カチカチカチカチ!! 地下室に響き渡るトングのオーケストラ。 地上ではあかりが「本物」を探して真剣に面接を続けているというのに、地下では元スパイたちが「お米を研ぐ日々にはもう戻れない」と笑い合い、いつか自分たちがエリートなパンとして焼き上がる日を夢見て、和気あいあいと盛り上がっていました。
「パンに祝福を……!」 「俺たちの人生、今からが二次発酵だぜ!」




