第35話「潜入のパン種、あるいは炊飯器の沈黙」
パン教が「エリートパン」の役職を募集し、空前の盛り上がりを見せている頃。 街外れの古びた米蔵の地下では、米を愛する者たちが、青白い顔でタブレットを囲んでいました。画面には、マフィンを掲げて「あなたもパン! 私もパン!」と天真爛漫に笑うあかりの姿が映っています。
「……おのれ、パン教め。あかりという女、ついに組織化まで進めるとは。我らが同胞、地下に囚われたあのスパイが『黄金色にリベイク』される前に救出せねばならん」
リーダー格の男が、拳を机に叩きつけました。机の上には、冷え切ってカチカチになった塩むすびが寂しく並んでいます。
「ボス、逆手に取るのです! ちょうど奴らは『エリートパン』の面接を行おうとしています。我々の精鋭を『熱狂的な信者』として潜り込ませ、内部から組織をふやかしてやるのです!」
「しかし……あかりの目は節穴ではないぞ。並の米好きでは、一瞬で『研ぎ汁の匂い』を見破られる。パンを愛し、パンになりきれる、究極のカメレオンが必要だ」
そこで選ばれたのは、一人の若手工作員でした。彼は米派でありながら、隠れて「ランチパック」を食べていた前科がある、組織随一の「パンへの浮気心」を持つ男です。
「いいか! お前に命ずる。今日から米を捨て、パンになるのだ。炊飯器のタイマーをセットする指の動きを忘れ、トングをカチカチ鳴らすリズムを体に刻め!」
「……は、はい! 頑張ります!」
そこから、世にも奇妙な特訓が始まりました。 「甘い! クロワッサンの層を数えようとして『一粒、二粒』と数えるな! お前は今、何を数えた!」 「……っ! い、いえ、生地の重なりを……!」 「嘘をつけ! 今お前の脳裏にはササニシキの輝きが見えたぞ! 焼き立ての香ばしさを求めて悶えろと言ったはずだ!」
特訓はエスカレートしていきます。 「リーダー! 逆転の発想です! 彼を『つぶあんこしあんあんぱん警察官』に志願させるのです。どちらが正義か不毛な議論を吹っ掛ければ、米派特有の粘り強い交渉術で煙に巻けるはず!」
「よし、採用だ! 面接では『私の血液はメープルシロップ、心臓はイースト菌で動いています』と言い切るんだ。いいな!」
「パンに祝福を!!(※小声)」
米蔵の中に、気合の入った(けれど腰の引けた)掛け声が虚しく響き渡ります。彼らはまだ知らない。あかりの面接が、鼻先にバターを塗る程度の偽装工作が通用するほど、甘いマフィンではないことを――。




