第29話「光の深淵、あるいは背負い投げの洗礼」
米派から送り込まれた精鋭スパイは、絶望的な当惑の中にいた。 数日間にわたる身辺調査の結果は、あまりに白すぎた。「朝早くからパンを焼く香ばしい匂いがする」「近所の子どもに笑顔でパンを分けていた」「道端の花に水をやっていた」……。
「……おかしい。必ず何か裏があるはずだ。あんな狂信的な集団を率いる女が、ただの『優しいお姉さん』であるはずがない」
スパイは意を決し、深夜のスタジオへと潜入した。あかりの「本性」を暴く決定的な証拠を探るために。暗闇の中、書類を漁ろうとしたその時だった。
「あら。こんな夜更けに、掃除のボランティアかしら?」
静かな、けれど凛とした声が背後から響く。驚愕して振り返ったスパイの視界に、月光を背負って立つあかりの姿が映った。
「くっ……!」
スパイは即座に窓へ向かって逃走を図る。しかし、次の瞬間。 視界が上下反転し、凄まじい衝撃と共に床へ叩きつけられた。無駄のない、鮮やかな背負い投げ。
「……しばらく、ゆっくりしていきなさい」
薄れゆく意識の中で、スパイはあかりの冷たく、けれど慈悲深い微笑を見た。
目が覚めると、そこは窓のない、清潔だが逃げ場のない牢屋だった。 重厚な扉が開き、あかりが一人で現れた。その手には、まるで儀仗のように凛と掲げられた、一本の美しいバゲットが握られている。
「……おはよう。よく眠れたかしら?」
あかりの声は、朝の陽だまりのように穏やかだった。しかし、その瞳は射抜くような鋭さを秘めている。
「ここは……。俺をどうするつもりだ」
「あら、それはこちらのセリフよ。……あなたは、誰かしら? 私の神聖なアトリエに、一体何の目的で忍び込んだのか。正直に、丁寧に、話してもらえるかしら?」
あかりは椅子に座り、優雅に脚を組んだ。バゲットの先端を男の足元にトントンと寄せ、クンクンと鼻を鳴らす。
「……ふふ、やはり。あなたの衣類から、微かに研ぎ汁の匂いがするわ。……あなたは『米派』の方ね? あの古臭い沈黙を愛する、迷える一粒かしら」
「……っ!」
図星を突かれた男の顔が強張る。あかりは確信に満ちた笑みを深め、バゲットを素手で力強く引きちぎった。
「強情な生地ね。でも、捏ねれば捏ねるほど、パンは美味しくなるのよ」
あかりの尋問が始まった。彼女は男を痛めつけることはしなかった。ただ、延々とパンの素晴らしさを語り、引きちぎったバゲットの暴力的なまでに芳醇な香りを男の鼻先に突きつけ、その小麦の圧倒的な熱量で思考を奪っていく。
「認めなさい、この香りが、あなたの理性を少しずつ侵食していることを。お米のような重苦しい粘りではなく、パンのような軽やかな救いこそが、今のあなたには必要なのよ」
一時間後。男は脂汗を流しながらも、かろうじて理性を保っていた。あかりはそれを見て、満足げに微笑んだ。
「……今日はここまでにしておきましょうか。時間をかけて熟成させれば、きっと最高に香ばしい仲間になれるわ。あなたがいつでもこの至福を享受できるように、差し入れを置いていくわね」
あかりが合図を送ると、扉の向こうから、数え切れないほどのバスケットが運び込まれた。バゲット、クロワッサン、カンパーニュ……。それらは瞬く間に牢屋の床を埋め尽くし、男の膝元まで「パンの海」が広がった。
「空腹に耐えかねて、自分からこの海に飛び込むのを楽しみにしてるわ。……また来るわね」
あかりはドレスの裾を翻し、去っていった。 残されたのは、逃げ場のないパンの香りに溺れそうになりながら、必死におにぎりの形を思い出そうとする男の荒い呼吸だけだった。




