第13話「黒い宝石と、溶けゆく境界線(ディスタンス)」
「……また、送れなかった」
放課後の教室。私は、書きかけのメッセージが表示されたままのスマホを、机に伏せた。隣の席の彼に、ただ「お疲れ様」と送るだけのことが、今の私にはエベレストを登るよりも高く、険しく感じられる。 恋をすると、世界はこんなにも苦くて、もどかしいものになるなんて知らなかった。
心に溜まった「苦み」を中和したくて、私はイヤホンを差し込み、あかりの配信を再生した。
「皆さん。恋をしていますか? それとも、何かに焦がれていますか? ……今夜の救済は、誰もが一度は恋に落ちたことのある、この『黒い宝石』です」
画面の中のあかりが掲げたのは、艶やかなチョコが表面を覆い、中にもたっぷりとチョコが練り込まれた、王道の**『チョコパン』**だった。
「チョコという食べ物は不思議です。そのままでは硬く、少しだけ苦い。でも、ひとたび熱に触れれば、あらがえないほど甘く、とろりと溶け出す。……聴いてください、この『温度』が生まれる音を」
あかりが、ふんわりとした生地を指で割っていく。 ──しっとり、とろぉり……。 マイクが拾ったのは、パンの中に閉じ込められていた濃厚なチョコクリームが、空気と触れて溢れ出す、甘美な音。
「……っ、たまらない香り。パンの温もりがチョコを溶かし、チョコの重みがパンを完成させる。一人では完成しない、この重なり。恋も同じです。自分一人の苦しさに、相手の優しさが触れた瞬間、すべてが甘い記憶に変わっていく。……さあ、あなたも。その心にある苦みを、パンとともに溶かしてみませんか?」
あかりの歌声が流れる。それは、胸の奥がキュッとなるような、でも最後には優しく包み込んでくれるような、切ないラブソングの調べだった。
翌朝。私は、駅前のベーカリーで買ったチョコパンを鞄に忍ばせて登校した。 休み時間、勇気を出して、隣の席でノートを広げている彼に声をかけた。
「……これ、二つ買ったから。よかったら、食べる?」
差し出したのは、あかりが言っていたような、黒く輝くチョコパン。 彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの優しい笑顔で「ありがとう」と言って受け取ってくれた。
二人で並んで、パンを頬張る。 私の口の中に、チョコの濃厚な甘さと、パン生地の柔らかな温もりが広がっていく。
「……おいしい」
彼が小さく呟いた。その一言だけで、昨日まで私を苦しめていた不安やもどかしさが、チョコのようにとろりと溶けていくのがわかった。
「……うん、本当においしいね」
恋はまだ、完成してはいない。でも、このチョコパンを分け合った瞬間から、私たちの間にある「境界線」が、少しずつ甘く溶け始めているのを感じた。
あかりの言う通りだ。 一人じゃ届かなかったこの甘さを、私は一生、忘れないと思う。




