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第11話「三日月の審判と、無垢なる一歩」

「……やっぱり、米だよな」


仕事帰りの夜道、俺はコンビニの鮭おにぎりを頬張りながら、独りごちた。 一日の終わり、腹の底を落ち着かせてくれるのは、いつだって冷めても力強い米の甘みだ。パンなんて、見た目は華やかだがどこか頼りない。俺にとって、パンはあくまで「よそ行きの顔」をした軽食に過ぎなかった。


帰宅し、何気なくスマホで「あかり」の配信を開く。 画面の中のあかりは、いつになく真剣な表情で、飾りのない小さなパンを掲げていた。


「皆さん。新しいパン屋さんに入った時、あなたは何を基準にその店を見極めますか? 派手な惣菜パン? 贅沢な菓子パン? ……いいえ。その店の魂に触れたいなら、迷わずこの子を選んでください」


あかりが指し示したのは、岩塩の粒が静かに光を反射する、素朴な**『塩パン』**だった。


「塩パンは、パン屋の『試金石』です。具材で誤魔化すことのできない、小麦の質、バターの鮮度、そして焼きの技術……。このパンを食べれば、そのお店が自分好みの場所かどうかが一瞬でわかる。パン屋さんと私たちの、いわば名刺交換なんです」


あかりが、慈しむように塩パンを手に取る。


「聴いてください、この『対話』の音を」


彼女がパンをそっと裂く。 ──パリッ、じゅわぁ……。 マイクが拾ったのは、薄く張った表面が弾ける軽やかな音と、その直後に中から溢れ出した、溶け出しそうなバターの濃厚な気配だった。


「……っ」 画面越しの音に、俺は思わず喉を鳴らした。おにぎりで満たしたはずの胃袋が、不意に、未知の味を求めて騒ぎ出す。


「中身は空っぽに見えるかもしれません。でも、そこには熱気と香りがぎっしりと詰まっています。そして、表面に散らされた岩塩。この絶妙な塩加減こそが、小麦の甘みを最大限に引き出す魔法なんです。この三日月を噛み締めて、あなたの『直感』を試してみてください。……このお店は、あなたにとっての居場所になるかどうか」


あかりがそのまま、静かに、しかしどこか試されるような鋭さを持った賛美歌を歌い始めた。その歌声は、米だけで満足していた俺の価値観を、静かに、だが確実に揺さぶっていく。


翌日の昼。俺は気づけば、職場の近くにある小さなベーカリーの暖簾をくぐっていた。 棚に並んだ多くのパンには目もくれず、端に置かれた塩パンを一つだけ手に取る。


一口、思い切り噛み締めた。


「……うまい」


カリッと焼き固められた底面の香ばしさ。そこから溢れるバターのコク。そして何より、ピリリときいた塩加減が全体の味を鮮やかに引き締めている。余計なものがないからこそ、小麦本来の力強さがダイレクトに胸に刺さった。


パンを食べているはずなのに、なぜか最高の米を塩だけで握った時のような、あの「本質」に触れた感覚。俺はこの店が、自分にとって大切な場所になることを確信した。


米だけが正解だと思っていた毎日に、新しい選択肢が刻まれる。


だが、その時。 背後の棚からパンを選ぶ一人の男が、俺が持つ塩パンをちらりと一瞥した。 その男は、パン屋の香ばしい空気とは全く異質な、冷たく研ぎ澄まされた気配を纏っていた。まるで、この店に漂う幸福な熱を一切拒絶しているかのような、氷のような無機質さ。


「……フン。小麦も、ここまでは辿り着くか」


小さな独り言。聞き間違いかと思うほど微かな声だったが、その言葉には、俺が今感じた感動を真っ向から否定するような、冷徹な響きがあった。


俺は無意識に、手の中の塩パンを強く握りしめた。

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