徒然掌編集 零 ~あつまれ短編作品のMemento mori~
しーしープシーキャット
猫のトイレトレーニングというのは、意外と大変なものだ。
なかなか覚えない。そも、猫は獣なのだ。人間の理を適用させようとするのにも、ちょっと無理がある。
下手したら大人になってもなお、トイレを覚えなかったりする。うちの猫がまさにそうなのだが。
これは、トイレが出来ない化け猫の話である。
*
ツンとした匂いが鼻をつく。
そこそこの重さが、ゆっくりと僕を押している。
「おきてー……」
控えめに告げられた催促に、僕は薄目を開けた。
そこには茶髪の猫耳美少女がいた。
「おきてー! ごはーん!」
僕を揺り動かす手は、徐々に重く激しくなっていく。
やがて、しびれを切らした彼女は。
「もうっ。おきないと――」
強硬手段に出る。
「こうだぞっ」
ずしっと、彼女は僕の上にのしかかった。
さすがに重くて苦しくて。
「もう、苦しいっ」
思わず彼女の身体の下から這い出ると。
「おはよ、けーすけっ」
彼女はニコッと笑った。
「……やったな? みけ」
睨むと、彼女――みけは、思いっきり目を泳がせて。
ボンッと煙が立った。
次の瞬間、彼女の姿は小柄な猫になっていて。
「おい待てっ、このおねしょ猫――!」
ダダダダダーッと走って逃げ出していく彼女を、僕は走って追いかける。黄色く濡れそぼった布団を置き去りにして。
それが、この家の日常だった。
*
みけ。うちの猫。というか化け猫。
雑種でメス。三毛の美猫。僕と同い年。人間に化ける能力を持つ。
ばか。あほ。かわいいことを盾にして全てを許されようとしている駄猫。かわいいから許すけど。
それが、うちの猫。
一向にトイレを覚えないまま成猫になってしまった残念キャットのことである。
「お前っておねしょすんの?」
クラスメイトから聞かれ、僕は飲んでいた給食の牛乳を吹いた。
「するわけないじゃないかっ!」
「あー、その反応は図星だな?」
「んなわけあるか!」
声を荒げると、向かいの男子は「でもさー」と揚げパンをかじる。
「お前んち、朝通るといつも布団干してんじゃん。しかも黄色い地図まで書いてあるやつ」
「うぐ、それは」
「完全に『やってる』じゃんね」
ニヤニヤ笑ってくる彼に、僕は大きなため息をついた。
「それはペットのだよ……」
「お前、犬でも飼ってんの?」
「猫。よく僕の布団に忍び込んでは漏らすんだ」
「愛されてんなー」
「嫌な愛され方もあったもんだ」
息を吐いた僕に、彼は笑った。
「愛されてるなら良いじゃないか」
「……いやあ、ねぇ」
おねしょ猫に愛されても、ねぇ。
ため息をついた僕を、彼は怪訝な目をして見ていた。
日は傾いて。
中学校の校門を抜けようとした時。
「けーすけーっ!」
僕を呼ぶ声。僕は少し驚いた。
「みけ! どうしてここに!」
目の前の茶髪の美少女。くっそかわいいが、中身はアホだ。おっぱいばるんばるんで背の高いくっそかわいいお姉さんだが、中身はアホだ。フリルのついたオレンジのワンピースを着ている。かわいい。だが中身はアホだ。
そんなアホは、にゃーっとあくびをして答えた。
「お散歩してたら近くに来たんだもーん」
相変わらず気まぐれな奴だ。
ぐるぐると咽を鳴らす彼女に、僕はこっそり尋ねる。
「……アレ、穿いてきてるだろうな」
「もっちろん!」
そう言って、ぺらっとその薄くて短いワンピースの裾をめくろうとする彼女。
「ちょ、やめろって!」
止める僕に、彼女は。
「もう、仕方ないにゃあ」
なんて言って、裾を直す。
――その短い裾に隠れきっていない白いものから、僕はそっと目をそらした。
「ねーねー、けーすけー」
みけは笑って、僕を見つめる。
二人だけの帰り道。夕陽のオレンジが照らす坂道。微笑む彼女。日差しが眩しくて。
「……なに?」
ぶっきらぼうに答えた僕に、彼女は「なんでもなーい」と調子よさげに答える。
僕はため息をついた。
「今日は耳、出してないんだ」
「もう、恥ずかしいから出さないでって言ったのだぁれ〜?」
僕だ。でも、それも小学校の低学年の頃のことだ。十年も経ったいまじゃ時効だと思う。
「けーすけのために、みけ、いっぱい練習したんだよ?」
彼女が、耳元でささやきかけてきた。
「……なんだよ」
「知ってる? ――ねこの一年って、すごーく長いんだよ?」
なぜだか、どきりとした。
「みけたちはねぇ、人と同じ時間で、四倍年老いている。人の一年は、ねこの四年なんだって」
囁く彼女に、僕は目をそらして。
「だから、なんだよ」
つい、強がりを言ってしまう。
「わかんないか。そっかー。けーすけはおこちゃまだもんねー」
煽られて、むかついて。
「おこさま言うな! お前だって同じ年しか生きてないだろ!」
なんて暴言を吐いてしまう。
みけはきょとんとして、軽く伸びをした。
急にどうしたのだろう。まあ、あまり深く考えているはずもあるまい。
けど、なんとなくひどいことを言ったような気がして。
「……ごめん」
「…………みけもちょっと煽り過ぎちゃった。ごめん」
坂を下りきって、僕らはしばらく沈黙した。
「えいっ」
沈黙に耐えかねたのか、みけは僕に抱きついてきた。
「なんだよ、もう」
口論になったあとは、いつもこうだ。みけが言い争ったことを忘れたかのようにじゃれてきて、結局なあなあになって終わる。
……まあ、僕もなんだかんだで許してるからいいんだけど。
息を吐いて僕は、みけのふかふかした髪を触ると。
「……えへへー」
彼女はにへらっと笑って見せて――僕の腕を掴んだ。
「えへ。けーすけ、だいすき」
そう言って彼女は、僕の腕を彼女の尻に当てようとする。
「ちょ、なにして――」
「けーすけぇ。……すきだよ」
「……何を今更……って」
彼女の尻は、独特な感触がする。化け猫だからではない。人間の姿で外出する時は、特別な下着をつけることを義務づけているからだ。
「えへへ。……うれしょん。でちゃった」
地面は濡れない。尻に触れた手に濡れた感触もない。何故か――彼女の、下着のせいで。
「……帰ったら、替えなきゃな。おむつ」
濡れる代わりに膨らんでいく『彼女の下着』の感触に、僕は胸を締め付けられる。
……なんでこんなのでドキドキするんだ。普通に汚いし、生ぬるいし……でも。
身を寄せ合っているからか、彼女の弱い心音が聞こえて。
肌の温もりが、日の匂いが、直に伝わってくるようで。
「すき。だいすき。けーすけ」
そんなダイレクトな言葉に、僕はつい感化されるように、口にしてしまうのだ。
「僕も好きだよ。みけ」
その好きは、果たしてどういう意味だったか。
その答えを、結局僕が知ることはなかった。
あの後、みけの体調は急に悪くなった。
思えば彼女は、最近元気がなかった気がする。母さんに聞いた話だと、あの子はもう一歳の頃にはトイレができるようになっていたらしい。
「――ということは、あの子は俺の前ではわざと……?」
そう聞くと、母さんは「半分正解、みたいね」なんて言っていた。
その証拠に、猫のトイレはしっかり砂が敷き詰められていた。埃一つなく、しっかり必要以上に整備されていたことがよくわかる。
……僕の気を引くために、わざと布団でおしっこをして、使う必要のないおむつを使って、僕にすり寄って――匂いをつけて、マーキングしていたのか。
けれど、加齢に従って、それが徐々に『必要』になっていった――のかもしれない。
彼女がいなくなった今では、もうわかるはずはない。
僕は、あの日の彼女の言葉を反芻した。
猫の一年は長い。僕らの一年は、猫にとっての四年に値する。後に調べた話によれば、子猫の一年は十六年にさえ値するのだという。
彼女は、僕と同じ時期に生まれた。猫にとって十五歳は、人間にとって七十数歳にも値する。
それ故、仕方ないことだったのかもしれない。――そう簡単に、割り切れるものでもなかったが。
――春の到来と共に、彼女はあっさりと亡くなった。
*
あれから、五年の月日が経った。
酒が飲める年齢になった。彼女のいない日々が増えて、彼女の知らない景色が増えて、彼女の知らない友達が増えて――彼女のいない、思い出が増えた。
日々薄れていく彼女の憧憬に、僕は身を委ねていった。
今日も、町を歩く。
何もない日々に、金と精神その他諸々を消耗するだけの暮らし。
何も考えずにふらふらと歩いていたら、とある公園の前を通りかかった。
思い出がフラッシュバックした。
「……みけ」
二人きりの帰り道に、通った公園だ。
好きだ、なんて言った、生意気だったあの頃の僕。
その好きの意味は、きっと初恋なんかじゃないだろう。いや、そう思いたかっただけかもしれない。
結局わかるはずもなくて、考えるのをやめた。
そんなとき。
「みゃあ」
小さな声がした。
目を見開いた。
子猫がいた。くすんだ三毛の、しかし模様が美しい、可憐な子猫。
車道を渡ろうとして、けれど足を止めて僕を見ていて。
息を呑む。
「危ないっ!」
車が来ていた。息を呑んで、僕は彼女に駆け寄って――。
危なかった。
車は寸前で止まったらしい。子猫をかばった僕も――そして、子猫も無事だったようだ。
「……あのぉ、お二人さん? 道路上で抱き合ってたら危ないよ?」
運転手が車を降りて、注意してきた。
お二人さん、という言い回しに疑問を抱いた。……僕は恐る恐る、かばった子猫の方を見ると。
「えへへ、ありがと。……おにいさん」
少女が、はにかんでいた。頭上には、三角耳が生えていて。
僕は慌てて少女から離れた。息を呑んだ。――あまりにも、『彼女』と似ていたから。
少女は――その美しい化け猫は、ゆっくりと立ち上がって、一瞬体勢を崩し……それから、僕をうっとりと見つめた。
「足、くじいちゃったみたい」
庇護欲をそそられる姿に、僕は再度息を呑んで。
「……うち、くる?」
そんな提案をしてしまった。
「あの、こう、下心とかじゃなくって! その、足……手当てするし。あと、メシも食ってかない?」
「いいの?」
「いいって。……母さんも、きっと喜ぶよ」
笑った僕の手に、彼女は恐る恐る手を伸ばし。
触れた手を握って、僕は笑いかけた。
「さ、帰ろう」
その少女が『うちの猫』になって、拗らせた僕の初恋が成就するまで、そう時間はかからなかった。
――彼女のトイレトレーニングがうまくいかなかったのは、きっと偶然じゃないだろう。
Fin.
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