「ざまぁ」を選ばなかった悪役令嬢が、静かな幸せを見つけるまで
婚約破棄を言い渡された日の空は、ひどく晴れ晴れしておりました。
毒殺未遂という汚名を着せられ、私は王都の中央広場にて公開処刑を命じられたのです。
証拠も証人も、すべて綺麗に整っていましたわ。まるで一流の劇作家が脚本を用意したかのように。
処刑台の階段を昇るとき、誰一人として私の目を見ようとしませんでした。
父はただ黙って遠くに立ち、王子殿下――元婚約者は、冷徹に私を見もせず、視線を逸らしました。
彼の隣には、麗しい笑みを浮かべた侯爵令嬢レティシアが並び立っています。
彼女こそ、この芝居の仕掛け人。私の失脚と婚約破棄をもって、自らが“正ヒロイン”に繰り上がろうとした女です。
……滑稽ですこと。誰かを貶めてまで手にする幸せに価値はあるのかしら。
それにしてもあっけない人生でした。父にも、婚約者にも見捨てられて、最期を迎えるなんて。
けれど、処刑台に立ったその瞬間、世界は静止しました。
『貴女には“復讐”の権利があります』
現れたのは、銀の仮面をつけた異様な存在。声は響きのない深さを持ち、こちらの心に直接届くようでした。
『この世界のバランスは、理不尽によって崩されつつある。加護を与えましょう。復讐と裁きによって、この世界を是正なさい』
――甘い誘い。
まるで飴細工のように艶やかで、壊れやすく、美しい響き。
けれど私は、首を横に振りました。
「お断りいたしますわ」
私が欲しいのは、過去を塗り替える力ではなく、未来を選ぶ自由です。
「醜く憎しみに染まるより、美しく散るほうが、私らしいと存じます」
異様な存在はしばし沈黙したのち、仮面の奥で目を細めました。
『……貴方は他の方と違うのですね。だが、興味深い。貴女がこれからどう歩むのか気になりました。復讐をしない世界でどう生きるのか楽しみに見させてもらうよ』
彼が指を鳴らすと、処刑台の足場が霧のように消え、私は光に包まれて跡形もなく消えました。
――次の瞬間、広場には悲鳴と怒号が渦巻きました。
「アリシアが……いない!?」
「どこへ消えた!? 魔術か!?」
場内が混乱に包まれる中、誰よりも動揺していたのは王子殿下でした。動かぬ視線で処刑台を見つめ、震える手をぎゅっと握りしめております。
「馬鹿な……そんなはずが……!」
そして、その隣で凍りついたように立ち尽くすレティシアの顔には、初めて“計算外”の色が浮かんでおりました。あの麗しの笑みは消え失せ、唇を引き結びながら、虚空を睨んでいたのです。
父は、前屈みになりながら驚きとともに、唇を噛みしめているのが見えました。
娘を見捨てた親の気持ちなんて一ミリもわかりませんが。
こうして、アリシアは誰の手にも届かぬまま、“悪役令嬢の処刑”という物語から切り離され、別の物語を歩み始めたのでした。
―・―・―
目を覚ましたとき、私は辺境の小さな村の教会裏に倒れておりました。
名もない地、名もない人々の中に、私という存在が落ちたのです。
最初に助けてくれたのは、無口な狩人の男性でした。
「……見慣れない服だな。都の人間か?」
「旅の途中に倒れたのです。名はラティアと申します」
彼は、カイルと名乗ってくれました。
カイル殿は何も尋ねてきませんでした。ただ黙って、焚き火のそばに座らせてくれたのです。
村での暮らしは驚くほど質素で、けれど心が満たされていくものでした。
朝、井戸で水を汲むと、ひんやりとした空気が肌に心地よく、畑ではご婦人方と共に土を耕し、夕方には子どもたちが野原で駆け回り、澄んだ空気に笑い声を響かせていました。
ある日、古い納屋の屋根が崩れかけていたとき、村の男たちが何も言わず集まって、一斉に修理を始めました。指揮を執っていたのは、無口なカイル殿。
「道具は貸す。手伝える奴は集まれ」
命令ではなく、ただの一言。それだけで人々は自然と動くのです。
王都では命令や肩書がなければ誰も動かず、感謝さえ表に出さぬ日々でした。けれどこの村では、誰かが苦しんでいれば手を差し伸べるのが当たり前。
「お裾分けよ。昨日たくさん魚が釣れたの」
「ミレナが熱を出してな。薬草を分けてもらえないか?」
頼られるということ、必要とされるということが、こんなにも温かいものだったとは――あの王都では、一度も感じたことがありませんでした。
日々の中で、私は少しずつ、自分の価値が“階級や名声”ではなく、“今の行い”によって生まれていくのだと学んでいきました。
ある朝のことでした。
私は井戸で水を汲んでいると、元気な声が飛んできました。
「ラティアさん、こっち手伝って!」
小さな男の子が、持ちきれないほどの薪を抱えてよろよろとしております。笑いながら駆け寄って彼を助け、肩に手を置いて言いました。
「今度は、欲張らずに少しずつ運びましょうね」
そんな些細なやりとりにも、どこか胸があたたかくなるのを感じるのです。
畑では、ご婦人方が笑いながら会話を交わしていました。土に触れ、風に吹かれながらの作物の手入れは、王都では想像もできなかった“平穏”の象徴でした。
「ラティアさん、薬草のこと、また教えてくれる?」
後ろから声をかけてきたのは、薬草好きな少女・ミレナ。私の影のようにいつも後ろをついてくる子で、早くに母を亡くしているからなのか、よく私のところに来てくれます。可愛い子です。
「ええ、もちろんですわ」
私は一緒に草むらにしゃがみ込み、一本の小さな白い花を摘んで見せました。
「この花は毒にも薬にもなりますのよ。使い方ひとつで人を救うことも、傷つけることもできる。大切なのは、見た目ではなく“正しい知識”ですわ」
ミレナは真剣な表情で頷きながら、花を手に取ってそっと指でなぞりました。
「ラティアさんって、本当は偉い人だったんじゃないの?」
ある日、ぽつりとそう聞かれたとき、私は少し驚き、そして微笑みました。
「いいえ。私は今ここで、小さな命に触れて生きているだけの者ですわ。……偉さなんて、肩書きでは決まりませんもの」
その言葉が、本心から出たものだと気づいたのは、その日が暮れてからでした。
私の声に嘘はなかった。王都で失ったものではなく、ここで得たものこそが、私を“私”たらしめているのだと。
日々の中で、無口な狩人・カイル殿とも、少しずつ言葉を交わすようになりました。
ある夕暮れ、共に山道から戻る途中で、彼がぽつりと口を開きました。
「……都会で生きてた者が、こんな地味な暮らしで退屈じゃないか?」
その問いに、私は焚き火のはぜる音を聞きながら、静かに答えました。
「いいえ。毎日、誰かの役に立てておりますわ。それ以上の幸福など、私には必要ございません」
彼はしばらく無言で火を見つめ、何か言いたそうにしていましたが、やがて口元を緩めて、少し照れたように呟きました。
「変わった女だ」
不思議と、悪い気はしませんでした。
誰かを見返すためでも、過去にしがみつくためでもない。
ただ“今”を楽しむことで、私はようやく、生きていると感じていたのです。
―・―・―
ある日、村に一台の豪奢な馬車が現れました。
泥と草にまみれた小道に似つかわしくないその姿に、村人たちはひそひそとささやき合いました。扉が開き、姿を現したのは――かつて我が家に仕えていた文官の息子。今は王都で書記官となっている青年でした。
彼は私を見つけた瞬間、目を見開き、言葉を失いました。
「……まさか、本当に……アリシア様……!」
その声は、困惑と安堵、そして恐怖が入り混じったような色をしておりました。
「どれほど探したか……殿下も、王宮も、貴女が忽然と消えたあの日から混乱の渦に包まれて……。死を偽装したとの噂まで飛び交い、国王陛下もご心労が深く……!」
言葉を継ぐ彼の顔は蒼白で、まるで今も夢を見ているかのようでした。
「お願いです。殿下の裁判における証言を。貴女の口から語られなければ、真実が歪められてしまう……!」
私は静かに、けれど明確に首を横に振りました。
「申し訳ありませんが、私はもう“アリシア・グレース”ではございません。この地で“ラティア”として生きることを選びましたの」
「ですが……! それでも……!」
「過去の正しさを、他者の言葉で証明しなければならないようでは、その正義は最初から崩れているのではなくて?」
言い切った瞬間、周囲の空気が凍りついたように静まりました。
書記官の青年は、言葉を失い、拳を握りしめたままその場に立ち尽くしていました。
王都に残してきたすべてが崩れ、今なお混乱の中にあるというのに、私はもう、それを“どうにかしたい”とは思わなかったのです。
私が王都を捨てたのは、逃げるためではありません。
憎しみに囚われて生きることが、私にとっては何よりも醜かったからです。
ふと、カイル殿がぽつりとつぶやきました。
「……あんたがもし、あいつらを裁く力を選んでたら、もうここにはいなかったんだな」
私は、薪をくべながら答えました。
「ええ、そうですわ。復讐を選んでいたら、この村にも、貴方にも、出会えなかったかもしれません」
私はもう、あの舞台に立つことはない。
憐れまれ、称えられ、許される必要もありません。
私は、自分の手で“幸せ”を選び取ったのです。
ふと、夜空を仰ぎました。
星の光は、あの日の処刑台の空よりもずっと優しく、温かく――私に「おかえり」と囁いているようでした。
復讐のない物語は、誰かにとっては物足りないのかもしれません。
けれど私は、この静かな暮らしの中で確かに“幸せ”を見つけました。
幸福とは、誰かを倒すことでしか得られないものではない。
それを証明する物語も、あっていいと私は思うのです。
『ざまぁをすることもできたけど、それを選ばなかった主人公』をテーマに書いてみました。
王子殿下やレティシアについては、本当の罪は公に暴かれはしなかったけれど、時間をかけて悔いと喪失が心を蝕んで、後悔という形で突きつけられていく――そんな静かな報いをこれから受けていくと思います。
令和7年5月21日追記
この小説の『ざまぁ』とはまた違った、ざまぁをネタにしたコメディー小説「『ざまぁの仕方』について学ぶ令嬢育成学院で起こる波乱」を書いてみましたので、よろしければ作者マイページから見ていただけると嬉しいです。