仮初の喜怒哀楽
いつからだったろう。この世には仮初の喜怒哀楽と無限に続く苦しみしかないと感じ始めたのは。
僕は25歳のサラリーマンで教師をやっている。昔から人付き合いがかなり得意で自分で言うのもなんだが世渡りがとてもうまかった。しかし、どうしてかはわからないが苦しいと感じて死にたいと願っていた。そんな僕は今日も学校の授業をして翌日の授業の資料を作り帰宅するところだった。家が近いので僕は徒歩で出勤していた。いつも通りの道を歩きいつも通りに信号を渡ろうとした時だった。
キキーーーッ
そんな効果音が聞こえた次の瞬間に僕の目の前には血溜まりができていた。そしてそれは僕のものだと気づくのには時間がかからなかった。
「ああ、やっと死ねるのか」
そう呟いた時に脳内に溢れんばかりの記憶が流れ込んできた。
これは中学生の頃か。
「ナイシュー」
僕はサッカーをやっていた。小学生までに色々な習い事をしていたこともあってそこそこな選手になれたと思っている。
「ここの問題がわからないって太郎が言ってまーす」
僕は比較的目立つ方に位置していたと思う。1番ってほどじゃないけどはしゃいでるうちの1人、みたいな感じではあった気がする。一年生の頃は本当にそんな感じだったなあ。
2年生になってからは、1年生とさほど変わらない感じだったけど、少し周りとの違いを自覚し始めた。自分が面白いと思ったことを周りは面白いと感じていない場合が起こるようになって、この頃から生きづらさを感じるようになったんだっけ。まあけどこの頃はまだ死にたいとかは感じたことはなかったかな。
3年生の時の情景が浮かんできた。教室の窓からガムを吐いてる友達とかいて面白かったなあ。僕も窓からゴミを捨てたりしてたっけ。なかなかに荒れてたんだ。けどそんな感じの時がなんだかんだ楽しいんだ。けどこの時にははっきりと周りとの違いを自覚していた。結局どこまで行っても他人には自分の奥底にある感情は読み取ってもらえない。仲の良い友達にも気を遣わないと引かれるんじゃないかと怖がってたんだ。
そして高校一年生この時がきっと1番やばかったな。やばいというのは荒れてたわけではなくて自分の孤独感がピークに達していた。最初の方はなんとか学校に行けていたけど、夏休みが明けてからは徐々に学校に行かなくなっていった。この頃から人間に対する興味がなくなっていった。メンタルケアの専門家のような人とも何度か話す時間を設けてもらったが何も効果はなかったな。その専門家の人も困惑している感じだった。
そして高校2年生か。この年に転校をした。けど転校先の学校でも本当の自分は出せないでいたんだ。そしてこの頃に本当の自分というものがなんなのかわからなくなっていた。そして、もう生きるのが辛くなっていた。仮初の喜怒哀楽。なんのために生きる。心の底からの笑うということがなくなっていた。今自分はうまく笑えているのだろうかと心配してたこともあったなあ。
高校3年生、この年に転機が訪れた。推しができたのだ。そこからは少し生きるのが楽になった。その推しの人達が言った言葉に強く影響された。「生きる目的や希望がないなら人を救う側になる」この言葉に従って今の教師という道を選んだのだから。もう僕のような人が生まれないようにと思い。けど楽になっただけで、苦しいことには変わりなかった。どうして周りの人たちは何事もないように過ごせるのか。屈託のない笑顔を振りまけるのか。僕には何もわからなかった。そして高校を卒業した。
大学生になると、今までよりもたくさんの人と関わるようになった。同じ学部の人たちや、サークル仲間、バイト先の人たち色々な人と関わっていくとさらに僕の異質さを自覚した。そして周りに合わせるのが苦しかった。この世に1人でもいいから僕の気持ちを理解してくれる人が現れてほしいと思った。
社会人になって教師になってからは、僕のような孤独を感じらような人が現れないように生徒一人一人にできる限り歩み寄った。他人のために生きることに徹した。少しでも異変を感じたら話を聞くようにした。
走馬灯まで苦しいことばかりを映すのか。まあけど人のために生きるということはかなり実践できたのではないだろうか。結局この世には絶望しかないことに変わりはないのだ。けど、今一通り人生を眺めてみると存外楽しいこともあったのかもしれない。中学生の頃は楽しいと感じる機会がかなりあった。高校からは完全に周りと違うと自覚していたけど、今思えば誰かに頼れば良かったのかもな。苦しいと打ち上げれば良かったのかもしれないな。生徒達にもそうやって伝えておけば良かったな。絶望に満ちているこの世界で光を見つけるには他人に頼ることが大切だったのかもしれない。そうすれば無限に続く苦しみも仮初の喜怒哀楽も少しはマシになっていたのかもしれない。