偃 三
堂本自身はただの人間だ。それでも運動経験のない女子高生相手に遅れを取るはずはない。
遥に追いつき、首根っこを掴んだ。遥は抵抗するも、力の差は明らか。大木に背を押し付けられ、動きを封じられる。
それでも遥は強気に堂本を睨みつける。
「げほっ……ずいぶん、力技ね。陰陽師っていうから、妖術でも使うのかと思ったんだけど」
「君がどんなイメージを持っているのか知らないが、妖術も万能じゃないんだ」
「だと思った」
「は?」
堂本の体に、かつて感じたことのない激痛が走った。全身が引き攣り、叫ぶこともできない。
ついで、別の激痛。こちらははじめてというわけではないが、何度くらっても決して慣れることのない痛みだ。
堂本は股間を抑え、うずくまる。「ひっひっ」とおかしな声が漏れ、涙すら浮かべている。
スタンガンを食らわせ、金的に膝蹴りを入れた遥は堂本を見下ろす。バックパックからは次の武器、重たいバールを取り出していた。
「じゃあね、優男」
堂本は思う。
最近の若者怖い。
ーーーーーーーーーー
遥が違和感を覚えたのは堂本が追ってきたことだ。
合理的に考えるなら二対一で凛を倒し、そのあと戦闘力のない遥を殺す方がいい。
しかし、堂本は追ってきた。
おそらく、堂本自身に戦闘力はないのだろう。あったとしても凛に立ち向かえるほどじゃない。だとしたら、確実に殺せる遥を先に始末したほうが有利になる。
そこまで読んだ遥はスタンガンをすぐに使える位置に仕込んだ。空手どころか運動すらろくにしていない遥では使いこなせるか不安だったが、首を締められたのが幸いした。この至近距離なら外すことはない。
堂本を始末した遥は凛のもとへ急ぐ。たどり着いたとき、戦いは続いていた。
「お姉ちゃん!!」
遥の姿が見えた瞬間、凛が振り返る。
その隙を、偃は見逃さなかった。
偃は大上段に振りかぶり、凛の背中を斬った。
「凛!」
凛の背から血が吹き出す。その瞬間、遥の視界から凛以外のすべてが消える。
妹に駆け寄った。抱きしめると、腕がべっとりと血に染まる。
偃が無感情に凛を蹴り飛ばした。後ろにいた遥も巻き込んで、姉妹は放物線を描いて飛んでいく。
地面に衝突した痛みで凛は目を開けた。
「お姉ちゃん……」
それだけ言って抱きつく。遥もまた、凛を抱きしめた。
あの場での最善種は二手に分かれることだった。その判断をまちがっているとは思わない。
けれど、罪悪感は拭えない。
「ごめんね、ひとりにして」
「……ん」
頭を撫でると、凛は気持ちよさそうに目を細める。
偃が、二人に迫っていた。
遥は視線をあげ、偃を見た。仮面は右側を覆っている。
(……やっぱり。あれ、動くんだ)
遥は偃の特性を見抜く。けれど、凛はもう戦える状態にない。
(どうしたもんかな)
考えていると、凛がわずかに顔を離した。
「お姉ちゃん」
「ん? どうした?」
偃はもう五メートル先。あと数秒で、剣が届く。
「飲んでもいい?」
凛に頼まれて、断れるわけもない。首を差し出す。
偃が剣を振り上げ、凛は姉の首に牙を突き刺した。
剣が、とまった。
凛は瞳を赤く染め、片手で剣を受け止めている。手のひらに刃が食い込み、血が流れるのも厭わず、凛は狂気に笑った。
「あはっ!」
偃を蹴り飛ばす。その威力は桁違いにあがっており、軽々と偃を吹き飛ばした。
遥は理解する。堂本の式神、朔。それはきっと、血を吸うことで力を得る妖異なのだろう。
「凛! 仮面のない方を狙って」
その声が届いたのか否か、確認する暇もない。
凛は一足で偃の懐へ入る。その喉元へと刃を突き出した。
偃はバックステップで避けつつ凛の肩口へ切り掛かる。凛は左の剣でそれを受け、さらに右の剣も使い、偃の長剣を後方へ振り払う。
刀に引っ張られ、偃が重心を崩した。
居着いて動けなくなった偃の右肩を、凛の短剣が貫いた。その一瞬前、仮面は反転し、右半分を覆っている。
それを見て、遥は確信を深めた。
偃、半月の別称。
おそらく、偃は左右のうち半分しか実体がない。もう半分は幻のようなもの。
そして仮面の入れ替わりによって、実体と非実体は入れ替わる。仮面に隠されている側への攻撃は無効化される。
だから、凛にああ言った。
その言葉が届いたのかはわからない。遥には願うしかない。
姉の願いが通じたか、それとも天性の戦闘センスから来る直感か。
凛は相手の右肩を差し止めたまま、左手の剣を逆手に持ち変える。偃の背中へと手を回し、左側の首筋を切り裂いた。
血が吹き出す。
それでも凛は攻撃をやめず、腹を、首を、瞳を、貫く。
偃が倒れた。自身の体から流れ出た血溜まりに身を沈める。
からんと、剣が転がった。
凛は脱力し、膝から崩れ落ちる。それを遥が抱き留めた。
「お疲れ」
頭を撫でると、凛は子猫のように目をつぶり、意識を失った。
ーーーーーーーーーー
暗いトンネルを歩いていた。
生まれてきたときから、ずっとずっと真っ暗だった。
初めて見た光は、眩しくて、くらくらするくらいに、暖かい。
傷ついた頬に、光源の向こうから伸びた腕が触れた。
ゴミの掃き溜めに、産み散らかされた、ゴミみたいな命。
このまま腐っていくことになんの感慨もなかった。
けど、どうしようもない世界に、たったひとり、お姉ちゃんがいた。
だから明日を見てみようと思った。
わたしの体に、お姉ちゃんの血が流れている。
だからわたしは、戦えるんだ。
ーーーーーーーーーー
温かいものに包まれて、目を覚ました。夜空を背景に遥が顔を覗き込んでいる。
すぐ隣には、仮面を被った女の死体。滔々と流れる血潮が地面に広がり、月を映している。
指先を浸した。ぬるりとした感触。妖艶な美女の、新鮮な血。
けれどそれは冷たくて、味気ない。
「お姉ちゃんがいい」
ぽつりと、呟いた。
見上げると、姉は聖母みたいに微笑んだ。
「うん、いいよ」
首を差し出される。日焼けした肌。朝早くからバイトに行って、学校から帰っても自分のことなんて放っておいて、ご飯を作ってくれる。疲れ切った肌。
噛みついた。牙の中に通った管を、大好きな人の血が流れる。
遥の血が、命が、想いが、体に入ってくる。
遥は目をつぶり、妹の頭を抱きしめた。
姉妹の間を血は巡る。月の光に照らされて、紅い愛情が発露する。
あとにはただ、紅い地面だけが残った。