鈍 一
割れた頭蓋から、老婆の黄色い瞳がのぞいている。こちらを見て、ひひひと笑う。
私は逃げるでなく、怯えるでなく、老婆を見下ろしていた。
夢だ。これは夢。こいつは凛にバラバラにされて、食べられた。肉のひとかけ、血の一滴も残さず、凛の口の中に消えていった。
凛が化け物を食べる様子が目に浮かぶ。口にいっぱい詰め込んで、咀嚼して、飲み込む。凛の体内に、この汚らわしい老婆の肉が入っていく。
ぞわりと悪寒。同時に、むずむずとした感じ。
「いいな」
それはだれの声だったろう。
考えることもできず、夢の世界は遠ざかり、チャイムの音で目が覚めた。
教室の喧噪が、私の意識を現実へと引き戻す。
もう四時間目も終わり。45分間、頭を乗せっぱなしだった腕は赤く痺れている。
まだ眠気の残る頭で教科書をまとめる。通学カバンからラップに包んだサンドイッチを取り出した。
老婆との戦いから一週間、あれから毎日怪物を探しに行っているが、一度も出会っていない。
凛の空腹は二日目以降ひどくはならず、「食べなくても死ななさそう」とのこと。
しかし、それだからといって問題が解決したわけではない。
手早く昼食を済まし、教室を出た。向かうは図書室。
リノリウムの廊下を渡り、階段を降りて、図書室の扉を開いた。
だれもいない。なんせ昼休みがはじまって5分しか経っていないのだ。
歴史、宗教、人文、怪談に都市伝説、それらのコーナーを周り、役に立ちそうな本を選ぶ。
奥まった席に座り、本を広げた。ページをめくる。
活字を前にするとつい一言一句味わってしまいがちだが、昼休みは限られている。めぼしい情報だけを駆け足で目を通していく。
妖怪、幽霊、陰陽師、呪術、神、幽霊物件。そういった単語を中心に文脈を追っていく。
集中力が増すにつれ、時間の尺度が曖昧になっていく。
まだ十分くらいしか経っていないと思っていたのだが、予鈴が鳴った。昼休み終了まであと10分。本を片付け教室に向かう。
詰め込んだ情報が頭の中をひしめいている。残りの二時間は調べたことをノートにまとめて過ごした。さすがに赤点をとるのはまずいので、大事そうなところだけは授業の内容も書いておく。忙しいな。
6時限目が終わるチャイムが鳴ると、椅子にぐったりともたれかかった。疲れた。
10秒ほど目頭を揉んでからノートを見直す。人に見られてもいいように英語で、それもけっこう汚い筆記体で書いてあるので自分で読むのも難儀する。英語教師に見つかればアウトだが、日本語で書くより読まれるリスクは少ない。
ノートに書いた内容を踏まえ、今日の探索先を考える。記事の信憑性、という点ではどれも皆無に近い。なので、距離的に近いものを優先する。
よし、決めた。
ーーーーーーーーー
一度帰って夕食の支度を終え、19時すぎに家を出る。まずは凛の迎えだ。
凛が通う中学は、私の高校と家を挟んで反対方向にある。前までは授業が終わるやすぐに帰ってきていたのだが、今は違う。
三日前から、凛は空手の道場へ通っていた。場所は中学のすぐ隣。老婆への頭突きは強烈だったが、次も勝てるとは限らないからだ。
バスで二十分。最寄り駅に降り、徒歩二分で道場に到着。
古い家並みの中にある、大きな屋敷。それが盈月流空手の道場だった。
門を通り、飛び石のある砂利道を過ぎて入り口で待つ。
19時半ちょうど、凛が飛び出してきた。稽古着のまま抱きついてくる。
「お疲れ様。今日もがんばったね」
言うと、凛はこくこく頷く。
今の凛にとって、人間レベルの運動量など大したことじゃないだろう。
だが凛は人見知りだ。知らない人たちの中で二時間も練習するとメンタルがかなり削られる。
一度、凛を着替えに戻し、先生たちに挨拶して道場を出る。
バス停と反対方向に歩き出すと、凛はきょとんと首を傾げた。
「今日はこのまま探索行こうか」
「うん。いいけど、どこに?」
「そこ」
私は目的地を指差す。それはかつて、ここら一帯を治めていたお城だ。建物は焼けて石垣しか残っていないが、存在感は十分。
日里城、道場から徒歩5分にある史跡。それが本日の探索場所だった。
城に巡らされた堀を渡り、砂利の敷き詰められた敷地に入る。
頼りない街灯だけが照らす道、右手には石垣があり、斜めに木が飛び出るように生えていた。
小さな池を横目に、石垣を登る階段に足をかける。一段一段が大きい。
「気をつけてね,つまずかないように」
「うん」
凛は私の手を握り、ぴょんと飛び跳ねて石段に飛び乗る。
城全体は四層構造。一層目の石垣を登りきり、広場に出てると次の石垣が現れ、また登る。
「お姉ちゃん、ここ、何か出るの?」
「自殺者が多いんだよ。だから心霊スポットになってるみたい」
「幽霊って、……関係あるかな?」
「凛的にはどう? あの怪物、幽霊だと思う?」
凛は「わかんない」と首を振る。
「……もし、ああいうの出たら、お姉ちゃん逃げてね? ひとりのほうが、やりやすい、し」
足をとめ、凛の顔を見る。
凛は気まずそうに足元を見つめていた。不安が手を通して伝わってくる。
きっと、それは本心なのだろう。今の凛は私より強い。私は足でまといでしかない。
けど、本当にそれでいいの? ひとりでも大丈夫? 怖くない?
愚問だ、怖いに決まってる。それでも勇気を出して、言ってくれたんだ。
凛を抱きしめた。頭をなで、額にキスする。凛はもまた身を寄せてきた。猫みたいに、顔を擦り付けてくる。
「善処する」
「……うん。そうして」
凛はめいっぱい力を込める。
「……凛」
「なに?」
「あばら、折れそう」
「ご、ごめんなさい!」
ぱっと凛は体を離す。
思わず咳き込む。危ない、怪異と会う前に内臓破裂で死ぬとこだった。
凛が申し訳なさそうな視線を向けてくる。安心させるために笑うと、凛はまた手を握ってきた。
「……潰さないように気をつけるね」
「うん。そうして」
再び頂上を目指して歩き出す。深い草むらをかき分け、崩れかけの石段を登り始めた。
二人、顔を見合わせる。
「凛」
「うん」
来た。
あいつらだ。
怪異の姿はないが、景色が変わっていた。寺に老婆が出たときと同じだ。
石垣は崩れ、草は伸び放題。街灯は消失し、自然の光だけが夜の世界を照らしている。
凛が振り向いた。視線の先、石垣の上に、黒い影があった。
シルエットは人間。ただし、怪異であることはすぐにわかった。
それは金属板の集合体だった。銀色の板が寄り集まって人の形を成している。
それは私たちを見下ろしていた。表面が星あかりを反射し、鈍く光っている。
ただの板じゃない、刃物だ。すべての板が鋭利な刃物になっている。
凛が走り出した。黒いセーラー服を翻し、石垣を駆け上って、怪物に飛びかかる。
咄嗟に周囲を見回した。
近くにいるのはまずい。といっても敵があれ一人とは限らない。戦いの邪魔にならず、凛と離れすぎない場所。
適当な岩の陰に身を隠す。そうしている間にも、上の広場では戦いが始まっていた。