朔 二
救われたいとは思わなかった。苦しみたいとも、死にたいとも、生きたいとも思わなかった。
私には理由がなかった。
小さい頃から、服の下はいつも痣だらけだった。痛みも苦しみも、あって当然で、それのない日常なんて想像できなくて、不幸だと思うこともなかった。
ある日突然、すべてが変わった。
父が、妹を殴った。頬にあざができた。それを見た瞬間、感じたことのないものがわきおこってきた。
身を焦がされるような熱。目の前の男に対する激しい殺意。
そしてなにより、この子を守りたいと思った。
気づけば父の腕を掴んでいた。母はこのあとに起こる惨事を思い浮かべただけで我慢できなくなり、部屋から逃げていった。
今までにない痛みの連続。皮膚はぜんぶ腫れ上がって、血は水溜まりみたいになって、気絶した。
目が覚めたとき、指先が柔らかいものに包まれていた。凛が、私の人差し指を握っていた。痣の残る頬で、赤い水たまりに浸かることも厭わず、私に笑いかけてくれた。
その瞬間、私の世界は色づいた。この世界には苦痛だけじゃないんだって、こんなにも温かくて、愛おしくて、涙が出てしまうくらいに幸せなことがあるんだって知った。
だから私は決意した。この子をここから連れ出そうって。この子はこんな不幸の溜まり場にいちゃいけないんだって。
凛は私のすべてで、幸せそのものだから。
その日から、凛は私にとっての"理由"になった。
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泥沼に捉われていた意識が覚醒する。
体が重い、血を失ったせいか。
力を込め、目を開けた。夜だ。じりじりと鳴く虫の声、窓から差し込む月光、長く伸びた草むらの陰が床の上で揺れている。
お腹の上では凛が寝息を立てていた、頭を撫でると、「お姉ちゃん……?」と瞼をこする。
「うん、お姉ちゃんだよ」
凛は真っ赤に泣き腫らした目で見つめてくる。がばっと抱きついてきた。
「お姉ちゃん! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。生きてるし、ちょっと貧血気味だけど」
微笑むと、凛は潤んだ瞳をこちらに向け、それからまた抱きついた。
「それより、凛は大丈夫なの? 体……」
妹の口を確認する。八重歯は鋭く伸び、爪も刃物のように硬い。どうやらあれは夢ではなかったらしい。
妹の体を見ていると、凛は熱病にうかされたような顔でじっと首元を見てきた。
「どうしたの?」
「え? う、ううん。……大丈夫」
凛は力づくで視線を引き離す。
凛の視線につられて、遥は首の付け根に触れた。まだ傷が残っている。牙が突き刺さり、血を吸われた痕。
「……もしかして、飲みたいの?」
「え!? ち、ちが……! えっと、その……」
凛は慌てて視線を逸らす。それから意を決したように見上げてきた。
「お腹、減った」
「お腹?」
「うん。……あれから丸一日経ったから。……あの、怪物、食べてから」
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姉妹は両親の死を契機に九州の田舎へ引っ越した。知っている人のいない場所、喧騒と隔絶した場所で、ひっそりと暮らしたかったからだ。
都会生まれの二人にとっては、どこもかしこも新鮮だった。学校終わりにいろんな場所へ探検に行った。
朧山へ行ったのも探検の一環だった。
放課後、どこへ行くとも決めずに二人はバスに乗った。まだ降りたことのない駅に降り、散策をはじめた。近くに山があり、せっかくなので見て行こうということになった。
時刻は18時過ぎ。暗くなったらすぐ帰るつもりだった。二人で手を繋いで、木の葉に潜む影を指差し「怖い」だの「お化けいそう」だのとはしゃぎながら歩いた。
そして、迷った。山道は一本道だったはずなのに、帰り道がわからなくなった。
遥は胸中の不安を押し殺し、妹に「すぐ帰れるよ」と言って帰り道を探した。
そして、あれに襲われた。凛だけは守りたかったが、怪物が腕を振るうとなんの抵抗もできず林の中に投げ飛ばされた。
ひとりになっても逃げ続け、……そうして、凛に助けられた。
怪物はダンプカーに撥ねられたみたいに、ひしゃげて、内臓をばら撒きながら吹き飛んでいった。
凛は怪物を一撃で仕留めると、その肉を喰らい、そして遥の血を呑んだ。
今、凛の体はおかしくなっている。怪物の体を欲している。
だから、姉妹はまた朧山に向かった。もう一匹あれがいるとも思えないが、他にあてもない。
バス停を降りる。まだ15時にもなっていない。夜のほうが怪物との遭遇率は上がりそうだが、さすがに怖かった。
凛は姉の手を握りながら、ぴょんとバスのステップから飛び降りる。バスの運転手は扉を閉め、エンジンを蒸して走り去って行った。
朧山は標高三百メートル足らず。麓には古びたお寺があり、裏から伸びる山道が頂上まで続いている。
「行こっか」
「うん」
言うと、凛はいっそう強く姉の手を握った。
寺の入口には縁起を記す看板があり、遥は足をとめた。平安時代から続く由緒あるお寺だそうで、妖怪退治の伝説まで載っている。
妖怪、今の遥には聞き流せない言葉だ。
看板を読んでいると、くいと袖を引かれた。凛が所在なさげにしている。
「ごめんごめん」
謝ると、凛は姉の手を引きながら小走りになって山道へ向かう。遥は妖怪を退治した住職の名前をもう一度見た。
堂守明仁
あきひと、だろうか。
名前を知ったところで意味なんてないだろうけれど、一応記憶に留めておく。
1分ほど走ると、境内を抜け、山道に到着。左右を木々に囲まれた未舗装路。山鳥の声があちこちから響いてくる。
凛は歩調を緩めた。汗ばむ手を繋ぎ直し、並んで歩き出す。
この前来た時は不気味だったが、昼来たらなんてことない、ただのハイキングコースだ。
「凛、私とはぐれたあと、何があったの?」
「……わかんない。あれがお姉ちゃんの方に行って、追いかけてたら、苦しくなったの。それで、倒れて、……目が覚めたら、あ姉ちゃんが……」
凛はその時のことを思い出したのか、口もとを抑え、うずくまる。
「ごめんごめん! 大丈夫だからね。私は平気だから」
背中をさすっていると、やがて落ちついた。
凛は姉の首元に視線を送る。
今の凛にとって吸血衝動は本能的な欲求だ。食べたい、眠たい、それと同じくらいに、当たり前で強烈な欲求。
遥はそれを察し、胸が痛くなる。
凛が望むのなら、いくらでも飲ませてあげる。凛が求めてくれるなら、命だって差し出す。
けれど、違う。それは凛を苦しめることになる。
遥は妹の頭をなでる。
「戻る方法、探すからね」
「…………うん」
そうしてまた、歩き出した。