朔 一
生きる理由もなく、死ぬ理由もなかった。
ただ惰性だけで時間が過ぎゆく日々。
そんな私に、凛は理由をくれた。
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月のない夜、遥は逃げていてた。木々の間を縫いながら、息も絶え絶えに走る。
怖い。けれど同時に安堵もあった。あれが自分のところに来ている限り、凛は安全だから。
山道で突如として襲い掛かって来たあの怪物。名前はわからない。野生動物の見間違いだったんじゃないか。けれど、あれの姿は脳裏に焼き付いている。
振り返る。なにもいない。さっきまですぐ後ろにいた化物がいない。
まさか、と思う。凛のほうに行ったのか?
「凛! どこ!?」
叫んでも、返事はない。遥の声は深い木々に吸い込まれ、消えていく。
まずい、まずいまずいまずい。
頭の中を焦燥が満たす。
落ち着け、自信に言い聞かせる。
考えるべきは怪物の行方より、凛の居場所。
凛ならどうする、どこへ行く?
状況を整理する。現実離れした、受け入れがたい状況を、見たものすべて現実だと仮定して、受け入れる。
夜の山道、凛と二人で歩いていたところにあの怪物が現れた。逃げる途中ではぐれて、ひとりで逃げてきた。
自分とはぐれたあと、凛ならどうする?
その答えはすぐに出た。
「はぐれたとこだ」
凛は来た道を引き返す。山道に出ればあとはなんとかなるはず。
歩き出してすぐ、背後から足音が聞こえた。
「凛!?」
振り返り、絶句した。
そこにはあいつがいた。
巨大で醜い、黒い猿みたいな生き物。
口が異様に大きく、左右で目のバランスが違う。皮膚の下では筋肉が別々の生き物のように不規則にうごめいている。爪は長く鋭く、うつろな目は斜視で、片方の瞳だけが遥を見下ろしていた。
腰が抜けた。尻餅をつく。地面をはい、怪物から少しでも遠ざかる。
涙が流れた。悲鳴を叫んだ。自分の声じゃないみたいに、その悲鳴は遠くに聞こえる。
そして、視界が赤く染まった。
化物は消えていた。飛び散った血潮だけが地面に残っていた。
遥は座り込んだまま周囲を見渡した。
「……凛」
茫洋とした闇の中、妹の姿を探す。
ばりばりと、音が聞こえた。それほど離れていない。
遥は枝を杖にして立ち上がる。音のほうへ向かう。
木々の向こうに、凄惨な景色が広がっていた。
化物はバラバラに引きちぎられ、四肢が散乱している。
何者かが、死体の腹に顔を突っ込み、内臓を食らっている。バリボリ、バリボリと、骨をかみ砕いている。
その背中に見覚えがあった。
小さな体。まだ中学生くらいの女の子。
真っ赤なシャツを着ているが、それは怪物の血だ。わずかに残った元の生地は水色、凛が着ていたのと同じ色。
怪物を食らっていた怪物が、遥の足音に気づく。
ぴくりと白い耳を震わせ、振り向いた。
「凛?」
それはたしかに、妹だった。
愛らしい顔立ち、真っ白な肌、夜に溶け込むようなショートカットの黒髪。
けれどその瞳は赤く光り、桃色の唇からは長い牙がはみ出している。
遥の姿を見た瞬間、凛は飛びついた。地面に押し付け、爪を肩に食い込ませる。
「凛? 凛なの!?」
遥の声など聞かず、その首元に噛みついた。
牙が皮膚を貫き、肉をえぐり、血管に到達。
牙の中を通る管に、血液が吸われていく。
凛の瞳が赤い輝きを増した。
遥は体から血が減っていくのを感じていた。意識がぼんやりとする。
けれど、体を重ねてわかった。これはたしかに凛だ。まちがうはずもない。
遥は、妹の頭をそっと抱きしめた。
「よかった。無事だった……」
見たところ怪我はない。赤いのはすべて返り血だ。
それがわかっただけで十分。
遥は目をつぶる。もう限界だった。意識が闇へと吸い込まれていく。
「……おねえ、ちゃん?」
霞む意識の中、するりと牙が抜けた。
凛の声。名前の通り、鈴の音みたいに、涼やかで透き通った、美しい声。
けれど遥は返事をすることも、頭をなでてあげることもできない。
黙したままの姉の姿に、凛の中で不安が膨らむ。涙がにじむ。
「お姉ちゃん? ……わたし? これ、わたしのせい、……なの?」
違うよ、凛は何も悪くない。
伝えたいのに、もう言葉を発することもできない。
だからせめて、微笑んだ。妹に少しでも安心してほしくて、笑ってほしくて。
凛は何も悪くない。
凛が私に、生きる意味を与えてくれたから。
凛は、私にとっての”理由”だから。