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第四話 アジトの扉
夜、既に閉店したレストランにて。スパイクは出入り口付近のソファー席に座り、ハッシュを待っていた。警察の会議の様子を聞くために。ターメリックもいる。スパイクが、「警察の会議の様子を教えてもらうんだ」と言うと、「それ……私も気になるわ」と、ついて来たのである。いつもは店の隅に縮こまっている彼女だが、今日はスパイクの隣に座っている。
ガタン
ドアが開き、白いパーカーを着た茶髪の女が入ってきた。ハッシュである。
「よおハッシュ」とスパイク。
「こんばんは……」とターメリック。
「やあスパイク、ターメリック。今日の会議の様子を聞いてくれよ」
ハッシュはスパイクの正面に、テーブルを挟んで座った。そして、ボイスレコーダーをとり出し、テーブルの上に置いた。
「今回のはかなりヤバスだぜ」
と言いながら、ハッシュはレコーダーの再生ボタンを押した。すると、昼に行われた会議の様子、その声が流れ始めた。三人のハザードは、耳を傾けた。
――ではまず、ディアナくん。報告があるようだが、教えてくれ――
――はい。私から二件、報告があります――
「これがディアナと言う女の声か」スパイクが呟いた。レコーダーの音は続く。
――緑色の、バッタのような怪人が、三階の窓から飛び出していったようです――
「バーチカルのことだな。バッタのような怪人か、大正解だ」
スパイクの言うように、バーチカルが変身するのはグラスホッパータイプのハザードだ。
レコーダーは、ハッシュとの交戦の話へ入った。
――銃によって右目を攻撃することに成功しましたが、そのまま空を飛び逃げられました――
――みんな、今朝の新聞見ましたか?――
ハッシュがシラを切る様子を聞き、「ふふ、うまいこと誤魔化したな。自ら右目の話題を出すことによって身を隠したか」とスパイクがほほ笑んだ。
だが、ハッシュはさっぱりという風に両手を広げた。
「それがさ、このくらいで誤魔化せるような女じゃないんだよな」
――私はハザード達の動きに『組織性』のようなものを感じています――
「こっからだ。こっからがやばいぞ。注意して聞けよ」
ハッシュが脅しをかけるように言った。
――光線のハザードのように、わざわざ警察署の本部に、しかも脅しをかけてくるなんて、まるで組織で戦っているように見えます――
「なるほどな」スパイクが考え込むように腕を組んだ。光線のハザードとは、水圧光線で会議室を攻撃した、ターメリックのことだろう。「俺達がひとりじゃないことに気付いたか」
――光線のハザードと、四枚の羽根のハザードは、我々『警察』を強く意識して行動していると思います。もしかしたら、この二人は仲間なんじゃないかなって――
「ううむ」スパイクは唸った。「こいつは相当な切れ者だ」
「だろ? この女には、ターメリックと私が仲間だって言う『ライン』がもう見えてるってことなんだぜ」ハッシュは唇をかんだ。
「私、こんな会議怖くて出れないわ……」とターメリック。
レコーダーは、変わらず音声を垂らし続けている。
――ねえ、ハッシュもそう思わない?――
「キッツイ攻撃だな」スパイクは額に手の甲を当てた。
「こいつ、私の目をまじまじと見てこんなこと言ってきたんだよ? 意地悪な女だぜ!」
ハッシュはこらえきれないという風に椅子から立ち上がった。
「あーああ。イライラす」「おいハッシュ静かにしろ」
スパイクはハッシュの言葉を遮り、いきなりボイスレコーダーの電源を切った。ハッシュは直立し、ターメリックはビクッと肩を震わせた。
「ハッシュ、ここに来るまでに、誰かに後をつけられたか?」
もはやいつもの穏やかなスパイクの声ではなかった。すでに彼の精神は、戦闘態勢に入っているのだ。
「いいや。特にそんな気配は察知できなかったよ」
ハッシュは思い当たる節がないという感じで答えた。その後、少し目を泳がせ、スパイクの質問の意味を理解した。
「え? 誰かが近くにいるのか?」
スパイクは答える代わりに、新しい提案をした。
「どうやら、このアジトはもう使わない方が良い」
すぐさま目を動かし、鉄製のドアの方を向いた。その目が語っている。そこに敵がいると。
「ターメリック。撃て。ドアの方向だ。一撃で良い」
そう言っている間も、スパイクはドアから目を離さない。
「分かったわ……。ターメリック、変身……」
ターメリックの姿が変わった。全身が青い甲冑のような殻に包まれ、右腕は巨大なハサミと化した。彼女は、右腕から圧縮した水を銃のように撃てる、ロブスタータイプのハザードだ。
ドン!
ターメリックが光線を発射した。瞬時に鉄製のドアに小さな穴があき、そこから湯気が出てきた。
……。
何の音も、何の声も聞こえない。
「私、見てくるよ」
出入り口のドアに向かって歩き始めたハッシュの肩を、スパイクの手が止めた。
「いや、俺が行こう」
スパイクはドアの前まで近づき
ガン!
そのドアを勢いよく蹴り飛ばした! ドアは、くの字に折れてふっ飛んでいった。スパイクはニンゲン体であっても、このくらいのパワーなら発揮することができる。スパイクはもともとドアがあった場所に立った。
「おい。誰かいるだろう。出てこい」
……。
スパイクはあたりを見回した。見えるのは、明かりの消えたビルや飲食店だけだ。彼はきびすを返し、店内へ戻った。
「む。気のせいかな。おかしい……」
**
マルキとディアナは、行きつけのバー、ウルフへ来ていた。丸いテーブルに向かい合い、酒を飲んでいる。
「全く、あんな怖い思いはこりごりだ」
マルキはビールを口につけたあとそう言った。
「まあね。でも、これでハッシュが怪しいのはほとんど確定したわ」ディアナはピーチフィズを一気に飲み干し、通りかかった男の店員を呼び止めた。「すみません、レッドアイお願いします」
「……」
ハッシュを敵だと認めたくないマルキは、黙って下を向く。
**
昨日、ハッシュを尾行したときのこと。ハッシュを追っていたマルキ達は、閉店後のレストラン、そのドアのそばへ屈んでいた。耳をそばだてたが、具体的な会話内容までは聞き取れなかった。ハッシュの声と、女がもうひとり、男がひとり居ることが分かった程度だ。
しばらく会話が止まった。かと思うと、会議室を襲ったときと同じ光線が、ドアを貫通して襲い掛かってきた。その攻撃は、屈んでいたマルキの頭上を通り抜けていった。
マルキとディアナは、音をたてないように気を付けながらも、素早くレストランと隣のビルの壁の間に隠れた。そして、来た道とは全く違う道を遠回りして歩き、帰ったのであった。
**
「マルキくんも、あの光線を見たでしょう? ハッシュと、会議室を襲ったロブスターのハザードはグルだったんだわ。ハッシュが会議の時間をあらかじめ伝えていたのよ」
「ううん、そうか……。男の声も聞こえたな。そいつもたぶんハザードだろうな。ヴォイニッチ手稿を盗んだやつかな」
「いいえ、違う気がするわ」ディアナは店員が持ってきたレッドアイをグラスの半分ほど飲んだ。「勘だけど」
そうこう話していると、マルキはディアナの後ろへ目を向け、「あ」と言った。バーの中に、黒髪で金の瞳を持った女が入ってきた。彼女は、以前マルキが酒を奢った女である。
「ジャ、ジャンヌ……!」思わず、その名を口走っていた。
ジャンヌは、マルキの方をちらりと見た。
「あら、よく分かったわね」
そう言って、光でも放っているのではないかと思えるほどの明るい笑顔で、マルキとディアナが座っているテーブルの近くへ来た。ジャンヌは今日、水色に花柄のワンピースを着ている。
「マルキ、喫茶店の時は災難だったわね」
「やっぱり、あの時助けてくれた白いハザードは君だったんだね」
二人はニコニコと顔を合わせた。そんな二人を交互に見て、ディアナは顔をしかめた。
「あら。私お邪魔かしら?」
「何てこと言うんだよディアナ。せっかく会えたんだぞ」マルキは、横に立っているジャンヌに手をかざした、顔はディアナの方を向けている。「もう分かると思うけど、この人が喫茶店事件のときに俺を助けてくれたジャンヌだ」そして今度は、手をディアナの方へかざし、顔をジャンヌの方へ向けた。「ジャンヌ。こっちは俺の友だちのディアナだ」
ジャンヌは、目をぱちくりさせてディアナの方を見た。
「よろしく」ジャンヌはディアナに顔を近づけた。「まあ! 可愛らしい青い目!」そして、その頬にキスをした。「私もご一緒していい?」
ディアナは一瞬、何をされたのか分からないという様子だった。数秒ほどぽかんとした後、顔を赤らめて話した。
「ちょ、ちょっと! まあ、とにかく座りなさいよ」
ディアナは少し椅子を寄せてマルキの横に来、空間を作った。ジャンヌは、言われたとおりに、あけてくれた空間へ座った。ジャンヌはニコニコしたまま、ディアナのグラスを指さした。
「ディアナ、あなた何を飲んでるの?」
「レッドアイよ」
「なら、私も同じものを頼むわ」ジャンヌは店員を呼び止めた。「すみません、レッドアイお願いします」
こうして、警察官二人と、ハザードの女ひとりの飲み会的なものが始まった。ジャンヌは、マルキ達にハザードのことを教えてくれた。
ハザードは、例外なくニンゲン体とハザード体の二つの姿を持っており、「○○(自らの名前)、変身」ということによって、ハザード体に変身することができるらしい。ニンゲン体のままでも、ある程度の力を発揮することができる。
ハザード体は動植物の特質を持っている。ジャンヌであれば白鳥なのでスワンタイプ、喫茶店でマルキを襲ったジャック・ジャンであればクワガタなのでスタッグビートルタイプ、という風である。
もうひとつ特徴的なのは、テレパシーのような能力である。ハザード体になったとき、特殊な脳波が出、近くにハザード体の者が現れたとき、その存在を感知できるらしい。ジャンヌいわく、それは音や風のように、感じることはできても見ることはできないようだ。この能力により、ジャンヌは喫茶店事件の場所を特定したのだ。
「それと、これは戦闘するときのために、マルキは知っておいた方が良い」
ジャンヌはマルキの方を向いた。
「ハザードの急所のことよ」
「急所?」
「そう、やられたらまずいってとこがハザードにもあるわ。ひとつは頭、脳みそがあるからね。もう一つは首、脳が胴体と切り離されるのはまずいわ。そして三つめが、『コア』よ」
「コア?」マルキは首を傾げた。「心臓のことか?」
「そうそう。ニンゲンの場合は心臓と言うわ。コアはちょうど胸の真ん中あたりにある、首から下の唯一の内臓よ」
首から下の唯一の内臓、という言葉を聞いて、マルキはマイリーのことを思い出した。そう言えば、マイリーは内臓が見つからないと言っていた。
「コアは体の機能のほとんどの役割を担う高エネルギーの球体で、少しでもヒビが入れば、たちまち爆散してしまうわ」
喫茶店でジャックと交戦したとき、ジャンヌのパンチがやつの胸に直撃し、やつの体は小爆発を起こした。あれは、コアが損傷し、爆散したのだ。マイリーが内臓を見つけられなかったのも当然だ。コア以外に内臓は存在しないのだから。マルキの頭の中で、点と点が繋がった。
「要するに、頭を割るか、首をすっぱねるか、胸を貫けば勝てるってことよ」
言いながら、ジャンヌは先ほど頼んでいた唐揚げを手で取り、口へ運んだ。
「よくそんな話をしながら食えるな」
マルキはしばらく間をおいてから唐揚げを食べようと思った。
「ただ、ハザードは胸が厚いことが多いから、コアに損傷を与えるのは簡単ではないけどね」
そう言うジャンヌの胸を、マルキはちらりと見た。花柄の青いワンピースが大きく膨らんでいる。確かに簡単ではなさそうだ、ななどと考えていると、後頭部に痛みが走った。
「いて!」
ディアナがひっぱたいたのである。
「ちょっと、どうしたのディアナ」驚くジャンヌ。
「彼のヨコシマな考えが、私の平手を呼び寄せたのよ」
平手を呼び寄せるという妙な表現に疑問を感じながら、マルキは頭の後ろをさすった。
「そうよ! マルキ、変身できるんでしょ? 私、あなたの波長を覚えておくわ。あとで変身してくれる?」
前後の脈絡なく、ジャンヌが人差し指を立てて提案した。
そういうわけで、会計を済ませた三人はバーの近くの細い路地に入った。マルキは早速、ジャンヌとディアナの前で変身した。
「オーケーナビ子!」
――こんばんは――
「マルキ、変身!」
――変身、アトラス――
マルキのもともと高い背はもっと高くなり、頭からは二本のツノが生え、肉体は茶色い装甲に包まれた。ジャンヌはこくこくと頷いた。
「なるほど。あなたの波長ははっきり覚えたわ。なんというか、他のハザードとは変わっているわね」
「え? どんな風に?」マルキが聞いた。
「そうね、なんというかこう、暑苦しくて真っすぐな感じがする。ニンゲンだからかしら?」
「いや、それは彼の性格によるものよ」とディアナ。
「余計なこと言うなよ!」
**
ネブラスカシティ内の、もはや使われていないボウリング場。閉鎖されてはいるが、新しい建物を建てる予定がないため、壊されていないのだ。ここは、ハザード達の新しいアジトだ。
「エリーシャ。進行具合はどうだね? 疲れていないか?」
長身で細身の男スパイクは、ある女性に声をかけた。このエリーシャと言う女は、このアジトにいる唯一のニンゲンだ。ヴォイニッチ手稿の解読のため、誘拐されたのだ。エリーシャは今、四角い机に座り、一所懸命に手稿に目を通している。
「うーん、ちょっと疲れました」
彼女は、メガネの奥から困ったように目を細めた。
「それは、体力的に疲れたのか、脳が疲れたのか、どちらだね?」
エリーシャがいる机のそばに立ち、スパイクは聞いた。
「うーん、脳?」
「そうか。そういう時は、気分転換が大切だ。トランプでもして遊ぼう」
「うーんでも……」エリーシャは赤い髪を揺らしながら頭を傾けた。「心配です。お父さんやお母さんが私を探しているだろうし、ニュースにでもなっているかもしれません。私、誘拐されているんですよね?」
バーチカルがこの女を無傷で連れて来、スパイクも優しく対応しているので、あまり誘拐されているという感じはしていないだろう。最初はエリーシャもびくびくしていたが、今では普通に会話ができる。
スパイクはにっこりと笑った。
「大丈夫さ。解読が終われば、すぐに君を返すよ。君の両親にも、そう約束してある」
それに、ニュースになることもないだろう。面倒なことにエリーシャは両親と一緒に生活していたので、誘拐の際、バーチカルに手紙を頼んだ。その手紙の内容はこうである。「娘の誘拐、誰にも話すな。守れば必ず娘を返す」
もしもニュースになるとすれば、両親は警察かマスコミにでも話したことになり、その時はエリーシャを殺害するだけの話だ。そして、新たな解読者を連れてくる。こうしていれば、いつかは解読できるだろう。
「さあ、こっちに来なよ」
スパイクはそう言って、休憩スペースの真ん中あたりにあるテーブルに腰かけた。そのテーブルは四人掛けで、今晩アジトにいるのもちょうど四人だ。
「あ、はい」
エリーシャはついてきて、スパイクの隣に座った。
「ターメリック、シナモン、一緒にトランプしようぜ」
ターメリックは、いつも通り隅っこの椅子に座り本を読んでいた。シナモンと言うのは、あまりアジトに来ない大男で、身長は二メートルもある。
ターメリックは相変わらず無口だし、そのターメリックよりも、シナモンはもっと無口だ。金髪のチャラチャラした男バーチカルの兄なのだが、兄弟とは思えないほど口数が少ない。そういうわけで、今日のアジトはかなり静かだ。せいぜい、ハッシュかバーチカルのどちらかでもいれば、多少は賑やかになるのにな、とスパイクは思った。だが、あいつらはあいつらで、両方揃うとやかましい。
ターメリックは一応「トランプ……いいわね」と呟いて来てくれたが、シナモンに至っては返事がない。それでも歩いてきた。トランプの相手はしてくれるようである。
ターメリックとシナモンが、スパイクの向かいに座った。正面にいる二人が身長差五〇センチほどもあるので、父と娘のように見える。偶然、二人とも黒髪だ。スパイクは吹き出してしまった。
「ぶっ。君ら親子みたいだな」
「あ、それ私も思います!」
エリーシャも笑った。ターメリックは隣のシナモンの顔を見上げた。
「え、私、シナモンみたいな静かなお父さん、仲良くなれると思うわ……」
「そうか」シナモンは無表情だ。
この男は、「そうか」「そうだ」「違う」くらいの中からどれか一つを選んで会話をしているレベルで喋らないので、話しかけると必ず会話が終了してしまう。
スパイクはカードをシャッフルし配った。ゲームはババ抜きだ。順繰りにカードを引いて行き、最初にターメリックが、次にエリーシャが抜けた。最後は、男同士のバトルになった。
残った手札は、シナモンが二枚、スパイクが一枚だ。スパイクの番が回ってきた。
「シナモン、君がジョーカーを持っていたのか」
「そうだ」
シナモンが相変わらず無表情で答える。スパイクは、左手を恐る恐る前に出し、自分から見て左のカードの上に指をかざした。そして、シナモンの彫りの深い顔を見た。
「ジョーカーは、こっちかなあ?」
「……」
シナモンは黙っている。スパイクはゆっくりと手を動かし、今度は右のカードに手を添えた。
「じゃあ、こっちかなあ?」
「違う」
エリーシャが「ぶっ」と吹き出した。「分かりやす過ぎでは?」
スパイクは勢いよく右のカードを抜いた。案の定スパイクの手札が揃った。
「よっしゃあ勝ったぞ!」
シナモンは珍しく感情をあらわにした。今彼は、カッと目を見開いている。
「バカな、なぜ分かったんだ」
「それが分からないから負けたのよ……」
ターメリックはたまに辛辣なこという。スパイクの横で、「ふふふ」とエリーシャが笑っている。これで、気分転換になったかな。
ガラン
出入り口のドアが開く音がし、誰かが入ってきた。スパイクが出入り口の方を振り向くと、茶髪のショートヘアの女が歩いてくるのが見えた。ハッシュだ。
「よおハッシュ」
「よ、スパイク」
ハッシュはスパイク達が座っている机の近くまで来た。そして、エリーシャの隣で、彼女を見下げた。右の瞳は青色、左の瞳は金色だ。
「おい、ニンゲンの女。ヴォイニッチ手稿の解読は済んだのか?」
「いえ、まだです」エリーシャが下を向いた。
「ああ? のんびりしてっとぶっ飛ばすぞ」
「お、おい何てこと言うんだ!」
スパイクは慌てて止めた。せっかくエリーシャの気持ちが和んできたのに、ここでびっくりして解読に支障が出たら、元も子もない。
「エリーシャ、この子、口は悪いけど根は悪いやつじゃないんだ」
スパイクはそう言ってエリーシャをなだめた。ハッシュはきびすを返し、そそくさとドアの方へ向かった。スパイクは椅子から立ち上がり、ハッシュの背中を追った。
「おいハッシュ、もう帰るのか?」
「うん、覗きに来ただけだから」
今日のハッシュはやけに話し方が投げやりな気がする。
「おい、大丈夫か?」
スパイクは心配になり、ハッシュの肩へ手を置いた。ハッシュはすぐに振り返った。ドアの近くで、二人は向かい合った。ハッシュは左右で色が違う目を、微妙に泳がせている。
「時間がない気がするんだ……何の時間か分からないけど、時間が……」
確かに、今のハッシュは何かに向かって急いでいるような気がする。しかし、何に対して急いでいるのか、スパイクには分からない。ハッシュ自身も分かっていないのだから、当然だろう。今、不安な仲間にしてやれることは何かあるだろうか。
スパイクは黙って、ハッシュの頭に手を置いた。
「ハッシュ、いつもありがとう。仲間でいてくれてありがとう」
ハッシュはスパイクの頭が手に乗った瞬間、首をすくませた。
「ちょ、ちょっと、やめろよ気持ち悪い」しかし、すぐににっこりした。「でも、スパイクの手はなんだか安心する。やっぱりリーダーはお前しかいないよ」
ハッシュはそう言うと、また背を向けて、ドアを開けた。
「じゃあ、私もう行くよ」
「ああ」
スパイクは、ハッシュの背中を、一回も瞬きすることなく見ていた。そして、その白い手がドアの取っ手を持ち、開き、外へ足を踏み出すところを見ていた。まるで、彼女の姿を目に焼き付けるかのように。スパイクはなんとなく、ハッシュを呼び止めなければならないような感じがした。しかし、自分がここで何と言おうと、何をしようと、ハッシュは行ってしまうような気もした。
もしかしたらスパイクは心のどこかで気付いていたのかもしれない。彼女とは、もう二度と会えないということを。