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第三話 手稿のエントロピー


深夜の静まり返ったレストラン。ハザード達のアジトだ。いつも通り明かりはついていない。この部屋を照らすのは、近隣の家や街灯からの明かりか、月の光だ。

 リーダーである銀髪の男スパイクナードは、出入り口の近くのソファー席に座っている。ここは彼の定位置みたいなものだ。そして、奥の角にある椅子に座っている小柄な黒髪の女、ターメリックを見た。スパイクナードの定位置がソファーなら、彼女の定位置はこの店の隅っこだ。やはり会話するには、微妙に離れているように見える。

「ターメリック。君も読めないか」

「ええ……。さっぱりだわ」

 ターメリックが読んでいるのは、解読不能の文字が書かれた「ヴォイニッチ手稿」だ。シンプルな薄橙色の表紙は、少し虫食いがある。

「おいおいおーい。せっかく俺がシティ図書館から盗んできてやったのに、誰も読めないのかい! ええ?」

 二人とはまた少し離れて、店の中央辺りの椅子に腰かけているのはバーチカル。男にしては長い、金髪の髪が特徴的だ。シティ図書館に侵入し、ヴォイニッチ手稿を盗んだのは彼だ。スピードとジャンプ力に自信がある彼を見込んで、スパイクが盗難任務を任せたのだ。彼は今、四角いテーブルに腕をのせて、携帯ゲーム機をピコピコとプレイしている。

「ごめんなさい……」

ターメリックがぼそぼそと言った。

「バーチカル、確かにこの本がここにあるのは君のおかげだ。だが、君はこの本に一回でも目を通したか?」

謝るターメリックを見かねて、スパイクが声を発した。

「いいや、一度も。俺、文字読むの苦手だから。アルファベットですら、五〇字以上読んだら頭痛がするんだぜ?」

「ハハハ、病気かよ」

会話をしている最中も、バーチカルはゲーム機から目を離さない。最近、シューティングゲームにハマっているらしい。突然、バーチカルの手が止まった。

「あちゃー、負けちゃったよ」

「話しかけちゃいけなかったな」

「そんなことはない。だいたい、話しかけられたからだとか、集中が乱れたからだとか言ってるやつは、二流三流のプレイヤーさ。俺はそんなことは気にしない」

バーチカルは言いながら、ゲーム機をポケットにしまい、ソファーに腰かけているスパイクの方を向いた。

「スパイク。二〇世紀のゲームはやったことあるか?」

「ああ。なんせ俺は三〇歳。古いゲームならだいたいやってるよ。今流行ってるゲームの初代や無印は、ほとんどプレイした。名作ぞろいだよな」

「だろ! お前もそう思うか! いやあ、二〇世紀のゲームは良い! それに比べて、最近のゲームは似たり寄ったりで面白くない。あーあ、俺ももう数年早く生まれて、良いゲームに巡り合いたかったぜ」

スパイクはよっぽど、「二流三流のプレイヤーほど時代に追いつけないものだ」と言おうと思ったが、バーチカルの逆鱗に触れそうなのでやめておいた。そして、ヴォイニッチ手稿の話に戻った。

「これで、俺達の全員がヴォイニッチ手稿を読めなかったな」

「おいおい、ほんとに大事な本なのかよ」

バーチカルはだらりと椅子の背もたれに体重をかけた。

「大事よ……。スパイクが今まで私たちに与えた任務で、無駄なことはなかったわ」

部屋の端から、ターメリックが手稿をバタンと机に倒しながら言った。バーチカルはターメリックの方へ顔を向けた。

「わ、分かってるよ。俺だって、スパイクが無意味なことを任せるなんて思ってないさ。冗談だよ冗談」

珍しくターメリックがムスッとしたので、バーチカルは内心驚いているようだ。スパイクはまた、口を開いた。

「バーチカルの目線も確かに大切だ。ヴォイニッチ手稿は、現存するどの言語とも一致しない。こういった書物を見るとき、まず、その本が単なるイタズラが、読めるようにメッセージが込められた暗号書か、どちらなのか判断しなければならない。ヴォイニッチ手稿は、希望的観測を抜きにして考えても、暗号書である可能性がかなり高い」

「読めなくても分かるのか?」とバーチカル。

「そうだ。理由はいくらかある。ひとつあげるとすると、この手稿はエントロピーが低いからだ」

「そうね。私も同じ考えだわ……」とターメリック。

「え? エントロピーってなに?」とバーチカル。

「それも著しくエントロピーが低いわ……。意図的にそうしてあるとしか考えられないほど……。デタラメに書いたらこうはならない」とターメリック。

「そうだよな。やはり明らかに読者に解読してもらうことを意識している」とスパイク。

バーチカルはこらえきれなくなって、身を乗り出した。

「だから、エントロピーってなに! ねえ!」

スパイクは、今までバーチカルの存在を忘れていたかのように「あっ」と言って、説明を始めた。

「そうだな、ざっくり言うならば、混沌性や情報量を表す、熱力学や情報学において用いられる言葉だ。『乱雑さ』と言われることもある」

バーチカルはアゴに手を添えた。どうやら、『エントロピー』を『乱雑さ』に変換して考えているようだ。

「ん? ということは、乱雑さが低い……てことか? え?」

「用語の説明の際に例えを用いるのは、解釈の自由を許すのであまり好きではないんだが、君が想像しやすいように考えてみよう。そうだな、まず整理整頓されたきれいな部屋と、物が散乱した汚い部屋を思い浮かべてみろ」

スパイクがそう言うと、バーチカルは斜め上に視線を向けた。どうやら想像が済んだらしい。

「君の、どこに何があるのか分からないような部屋はエントロピーが高いと言える。逆に、きちんと整頓されたターメリックの部屋はエントロピーが低い」

バーチカルは真顔でスパイクの方を向いた。

「うん、すっごい分かりやすい。分かりやすいね。分かりやすいけどすっごい傷ついたよね俺」

 傷ついたバーチカルを慰めることもなく、スパイクは話をまとめた。

「つまり、暗号書と言うのは、簡単に読めないものという前提はあるが、だからと言ってエントロピーが高すぎては誰も解読できない。エントロピーが低い書籍なら、何か意味をもって書かれた可能性が高いということだ。ヴォイニッチ手稿は、同じような文字が頻繁に出てくるし、挿絵も多い。これらの要素から、エントロピーが低いと言えるんだ」

 部屋の端にいるターメリックは、黙ってこくこくと頷いていた。

ガタン

すると、店の戸が開き、仲間が入って来た。茶髪のショートヘア、ハッシュだ。

「よおハッシュ」

スパイクは声をかけた。

 バーチカルがハッシュを見るなり、「お前の部屋はエントロピーが高そうだな」などと言うので、ターメリックが本を盾にして顔を伏せ「ふふ」と笑った。ハッシュはバーチカルを一瞥した。

「は? ポコポコピー?」

などと言うので、ターメリックはこらえきれなくなったようだ。息を殺して「くっくっく」と顔を机につけた。

 ハッシュは足早にスパイクの近くへ駆けつけた。

「ねえスパイクナード」と言って、彼が座っている向かいの椅子に座った。そして、四角いテーブルに両手を置いた。

「ちょっと話が」

「ハッシュ、どうした?」

「警察の中に、殺したいやつがいるんだ」

「ほう。お前がハザードだということがバレたのか?」

ハッシュは、目線を斜め下に落とし、首を傾げた。

「うーん、バレてないと思う。でも、妙に勘が鋭い女がいるんだ。ディアナっていう金髪の警察官でさ。今にも気付かれそうなんだ。私、何かヘマをした覚えはないんだけど……」

「なぜそう思う?」

珍しく、ハッシュは弱気だ。

「なぜだろう? 分かんないけど、直感的なやつ?」

「なるほどな。まあ、そんなもんだ。おそらく、君はヘマなんかしてないよ。そういうところは賢いからな」

「言われなくても分かってるよ」

どうやら、少しはいつもの調子に戻ったらしい。

「いいか、ハッシュ。俺もな、そろそろバレる頃かと思ってたんだ。と言うのも、スパイっていうのは、盗んだり殺したりするのとはまた違った難しさがあるのさ。盗むなら、相手のスキを狙ってやればいい。瞬間的に成功すれば、それでいいんだ。でも、スパイっていうのは、敵の中にいながら、ずっと欺き続けなければならない。半永久的に成功し続けなければならない。だが、実際はそんなことはできない。やつらニンゲンもバカじゃないからな。遅かれ早かれ、バレるってことさ。

 どこかのタイミングで切り上げるか、スパイにとって邪魔なやつを倒す必要がある」



**



 マルキとディアナは、ネブラスカシティ図書館へ来ていた。以前に起こった「ヴォイニッチ手稿盗難事件」についての調査をするためである。四方八方を本棚に囲まれた広大な図書館の中。唯一会話が許される談話スペースにて、マルキは事情徴収をしている。四角い四人掛けのテーブルに、マルキとその隣にディアナ、向かいに事件の目撃者であるマリアさんが座っている。

「あの日は、図書館の閉館時間を過ぎて、最後の見回りをしていたんです。日もほとんど暮れていました」

黒髪でメガネをかけたマリアさんが、信じてくださいという風にマルキを見ている。

「そしたら、やけに隙間風が吹くので、窓でも閉め忘れたかなと思い、風上へ向かって歩いて行きました。すると、全身緑色の怪人が、ヴォイニッチ手稿を持って立っていたんです。私、ゾッとして動けなくて……。彼は、確かに私を見たんですけど、何も言わず、割れた窓の向こうへ飛び去ってきました。そこからはどこへ向かったのか、分かりません。その飛び去って行った窓、三階なんですよ」

マリアさんはそう言うと、両腕で肩を抱えて、身震いした。図書館の三階と言うと、民家の三階よりも高い。ここの三階なら、高さ一五メートルはあるだろう。

「怪人の具体的な特徴を聞かせてくれませんか?」

マルキの隣でメモを取りながら、ディアナが聞いた。

「はい。ええと、背が高くて、一九〇センチくらいはあったと思います……。体はとにかく緑で、胸板が凄い厚くて、脚も本当に太いんですよ。筋肉がすごい詰まってるって感じの……。目は黒一色で、白目が無かったと思います……怖かった……」

マリアさんは泣きそうな目で喋っている。怪人と目が合ったときのことを思い出しているのだろう。

「頭からは、触角みたいなのが二本……。ああ、そうだわ! なんていうか、バッタみたいだったの!」マリアさんは、ピンと来たという風に、語気を強めた。「そういえば、彼を見たときのゾッとする感じは、部屋で虫を見つけたときの気持ち悪さに似ていた気がします。私、虫が大の苦手で」

 ディアナはそそくさとメモを取りながら、お礼を言った。

「ありがとうございます。今後の調査の参考にさせていただきます。怖い思いをしましたね」

 マリアさんはホッとしたように、静かに涙を流した。

「もしかして、信じてくれるんですか?」

ディアナは、ゆっくりと頷いた。マルキも返事をした。

「ええ、信じますよ」

信じるも何も、マルキはもう三体も怪人を見たのである。マリアさんはスカートのポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いた。

「ありがとうございます……。良かった。この話、笑わずに聞いてくれたの、あなた達が初めてです。

 みんな、お前が寝ぼけてたとか、着ぐるみだろうとか言うので…。

本当に生々しい外見で、着ぐるみを着ているようには見えなかったんです。どこにも、つなぎ目やファスナーも見えなくて……」




**

 二人はマリアさんをなだめたあと、図書館を後にした。そして、飲食店や美容室が並んでいる大きめの歩道を、二人で歩いた。もう日は暮れかけている。

「あれは怪人の仕業だろうな。マリアさんも気の毒だ」

マルキは、初めて怪人を見たときのことを思い出した。喫茶店に入り、同僚の死体を見、クワガタの怪人に変身したジャックに襲われた。これまでの人生で最も命の危険を感じた日だった。

「きっとそうね。それにしても…手稿を盗むなんて、なんだか裏の意図を感じるわ」

ブーン……。

 マルキはディアナの言うことには返事をせず、歩道の上を突然立ち止まった。

「ちょ、ちょっと。どうしたの?」

「いや、今何か聞こえなかったか?」

「いえ、特に」

「そうか、気のせいか」

 マルキはまた歩き始めた。その隣を、ディアナも歩く。

ブーン……ブーン……!

 マルキはまた立ち止まった。そして、あたりをキョロキョロと見回した。だが、広めの歩道に、店やビルが立ち並んでいる様子しか見えない。ディアナも彼の横に立ち止まる。

「ど、どうしたの?」

「やっぱり何か聞こえるぞ」

「どんな音?」

「なんていうか、ブーンっていう、虫の羽音みたいな……この様子じゃかなりでかいやつだ」

「ふふふ。やだ、耳にトンボでも入ったんじゃないの?」

「さすがに気付くだろ!」

ブーンブーン!

「やばい! どんどん近付いてくる!」

 叫んだ直後、マルキは敵の姿を確認した。そのとき、一瞬時間が止まったかのように思えた。ディアナの背後に、四枚の羽根を生やした怪人が着地したのである! マルキは悩む間もなく、ディアナの肩を突き飛ばした。つき飛ばされたディアナの代わりに、マルキは怪人の攻撃を受けた。力強い腕が、後ろからマルキの首を絞めつけたのである。

「きゃあ! マルキくん!」

 ディアナの叫び声が聞こえる。マルキはすかさず、自分の首を抑えている腕を掴んだ。その腕は、昆虫の甲殻のようにつやつやして硬く、黒光りしている。間違いない、怪人がやって来たのだ。マルキの力をもってしても、その腕を引きはがすことはできない。

 マルキは左腕を顔に近付けた。

「オーケーナビ子!」

――おはようございます――

「マルキ! 変身!」

――変身、アトラス――

マルキは全身に力がみなぎるのを感じながら、体をぐるぐると回転させ、その腕から逃れた。そして敵の方を向き、両腕を前に構えた。そのとき、視界に映った自分の腕は太く茶色く、頑丈そうな甲殻を纏っていた。無事に変身が完了したのだ。

「ほう。これは驚いた。お前も変身できるのか」

 四枚の羽根を生やした怪人は、女の声で話しかけてきた。頭からは触角が生え、目は大きな金の複眼だ。明らかに昆虫タイプだろう。腕や足は黒い甲殻に覆われ、体には黄色い縞模様がある。胸は膨らんでいる。

 マルキは叫んだ。

「そうだ! お前らと戦うために!」

「チッ。ニンゲンのクセにハザードの真似事かよ」

「ハザード? お前たちの種族のことか!」

「そう。ニンゲンの進化形だ」

 そう言うなり、女ハザードはマルキと距離を詰めた。そして、右腕を繰り出した。アトラスに変身したマルキは左手でこれを受け止め、反撃の右ストレートを顔面にかました。

「ぐわ!」

 ハザードの体が大きく後方に逸れた。マルキは、パワーにおいて自分の有利を感じた。このまま押し勝てる! 体勢を崩した敵に向かい、もう一度右腕を繰り出した。「おらあ!」

 だが、そのパンチは空振りし、ブーンと言う羽音があたりを渦巻いた。敵は攻撃が当たる直前に空を飛び、回避したのである。今敵は、一メートルほど宙に浮いている。「うりゃあ!」マルキは浮いているハザードに向かって走り、パンチを繰り出した。

ブーン! 大きな羽音を立てて空中を動き、敵は左に避けた。

「ず、ずるいぞ! 空を飛ぶなんて!」

 マルキは意味不明な負け惜しみを吐いた。

「ハハハハハ! そうかい悔しいかい!」

 敵はそう言いながら空中を下降し、一気にマルキの眼前まで来た。

「お望み通り降りてやる」マルキは鼻先を浮遊する敵にパンチを繰り出したが、敵はするりと避け、浮遊しながらマルキの左側に回り込んだ! 「わけねえだろボケエ!」

 なんという画期的悪魔的フェイントであろうか! ガラ空きになったマルキの左脇腹を、敵のキックが直撃する! 「ぐわあ!」マルキはふっ飛び、コンクリートの道路をゴロゴロと回転した。

「ク、クソ……!」

マルキは、脇腹を抑えながら立ち上がった。

ポタポタ……

水滴の垂れる音がし、マルキはハッとして地面を見た。すると、脇腹から滴る血が目線の先を赤く染めていた。

「血……! 赤い血! ニンゲンの汚らしい赤い血だ……!」敵は憎悪をむき出しにしている。

 そして、ものすごい速度で走って来、マルキの首を両腕で掴んだ。締めあげながら、だんだんと持ち上げていく。マルキの体は宙に浮き、足がぶらぶらと垂れた。

「う……! ぐあ……」

 マルキは苦しみの声をあげた。その間も、首はギリギリと締め付けられていく。

「マルキくん!」ドン!

 ディアナが叫び、銃を撃った。その攻撃は見事敵に当たったが、銃弾は跳ね返ってしまった。

ドン!

もう一度撃つが、敵の頭に当たり跳ね返った。そう、この敵、ハザードにとっては銃などオモチャに過ぎないのだ。だが三発目、ついに弾丸はそこへ命中した。

ドン!

「ぐああ!」

 叫び声をあげたのは、女ハザードだ。敵は右目を抑え、緑色の血を流している。マルキは解放され、ドスンと地に落ちた。「ゴホッ! ゴホッ!」首に手をやり、息を整える。

 どうやらディアナの撃った弾は、敵の目に当たったのだ。

「がああ……イライラする……! イライラする!」

敵はそう言いながら四枚の羽根を動かし、宙へ浮いた。そして、フラフラと夜空へ消えていった。いつの間にか、あたりは暗くなっていたのであった。

「変身……解除」

――変身を、解除します――

 マルキの体はだんだんと縮み、元の、制服を着た警察官へ戻った。

「マルキくん! 大丈夫?」

 ディアナが息を切らして、地面に尻もちをついているマルキに駆け寄って来た。

「なんとか……。ありがとう。君は命の恩人だ。どんなことがあっても君を守るよ」

「も、もう! そんなこと言う前に手当てしないと! 立てる?」

 ディアナはマルキの大きな手を引いた。




**



閉店後の暗いレストラン。長身で黄色い瞳を光らせる男スパイクナードは、出入り口付近のソファー席に座っていた。少し離れた斜め前の席では、金髪の男バーチカルが、ピコピコと音を立てながらゲームをしている。スパイクは彼に話しかけた。

「なあバーチカル。君に頼みたい任務があるんだが」

「え! 本当か! ああ、なんてエントロピーなんだ!」

エントロピーの使い方がおかしいが、どうも彼は、新しく知った言葉を使いたがるクセがある。手を離して大喜びだ。

「おい、ゲーム」

「あ!」バーチカルは、喜んだ拍子に手を離してしまったゲームの画面を見た。「負けちゃたよー」

 だが、そんなに落ち込んではいないようで、すぐにゲーム機の電源を切った。そして、スパイクの方をじっと見た。

「それで? 俺に頼みたい任務ってのはなんだい! リーダー!」

「誘拐だ」

「ヒュー!」

「ある有名な解読家を連れてきてほしいんだ」

「あれ、スパイクもしかして……」

「俺はもう、自分でヴォイニッチ手稿を読むのは諦めた」

「ぶっ」バーチカルが吹き出した。「結局断念するのかよ。ところで、誘拐についての条件はあるか? 抵抗したらボコボコにしてもいいのか?」

「いや。できるだけ無傷で連れてきてほしい。怯えたり反抗心を持たれたりすると、解読の速度に支障が出る可能性がある。新しい仲間を加えるような気持ちで行け」

「でもそいつはニンゲンなんだろ?」

「そうだ。だから、あくまで仲間の『ような』と言ったんだ」

「了解! そのくらいはイージーモードだぜ!」

バタン!

 そのとき、店の戸が勢いよく開いた。そして、四枚の羽根をもったハザード体の女が右目を抑えて入って来た。手の隙間から、緑色の血が垂れている。

「ハッシュ! ハッシュどうした!」

 スパイクはハッシュに駆け寄った。一方、バーチカルは座ったまま顔だけハッシュの方へ向き、笑い飛ばした。

「ハハハ! お前ケガしてんのかよ! ニンゲンにやられたのか! だっせえなあ、おい!」

「うるさい! あーイライラする……! あのアマァ……この目の仕返しは必ずする!」

 ハッシュは息を切らしながら、右手の人差し指と中指を目玉に近付けた。そして、二本の指を眼球に突っ込んだ。「あ……ああ!」痛みに耐える声を出しながら、ぐりぐりと指を動かした。

コン……!

やがて、緑色の血にまみれた銃弾が、店の床に落下した。眼球から銃弾をとり出したのだ。

「はあ……はあ……」ハッシュはまだ右目を抑えている。

「ハッシュ……! 変身を解け!その方が体力は早く回復する……!」とスパイク。

 ハッシュは言われるがままに変身を解いた。茶色い髪が生え、頬は薄いピンクに変わり、Tシャツにショートパンツをはいたニンゲン体に戻った。

「目……目があ! 私の目は戻るのか!」

 誰に聞くでもなく、ハッシュが叫んだ。すると、いつの間にか駆け寄って来た黒髪の小柄な女ターメリックが答えた。

「いえ……腕や足などは生えてくるけど、眼球のように複雑な器官は再生しないと言われているわ……」

「ターメリック、君いたのか」とスパイク。

「な、なんだと!」とハッシュ。

「ご、ごめんなさい……」

 誰に対して謝ったのか、それともスパイクとハッシュ二人ともに謝ったのか、ターメリックは顔を垂らした。そのまま、言葉を続けた。

「でも、治る方法もある……私、聞いたことがあるわ…」

「は? それを早く言え!」

「ご、ごめんなさい……。他人の目を移植すれば、神経が繋がって数日で視力が回復するって」

「フフフ……。良いことを聞いた……。ターメリック、それはニンゲンの目でも良いのかよ? ええ!」

「う、うん……。確証は持てないけど、おそらくいいと思うよ」

「ハハハ!」ハッシュは笑いながら店の戸を開け、出ていった。「テキトーなニンゲンの目玉くり抜いてくる!」

バタン! 店の戸が勢いよくしまった。スパイクは彼女の背中を見届けたあと、ソファーにまた座った。

 椅子から動いていなかったバーチカルが、話しかけてきた。

「スパイク……。俺、正直驚いたよ。ニンゲンがハッシュに傷を負わせるなんて……」

「そうだな。追い詰められれば、ネズミですら牙をむくと言うからな。だからこそ、ニンゲンには油断も容赦もしてはならんのだ」

 この仲間は、もしや恐怖してしまったのだろうか。過度の恐怖は悪影響だ。スパイクは慰めようとした。

「だが、俺達はひとりじゃない。仲間がいるんだ。みんなで協力すれば、必ず勝てるさ。大丈夫、恐れることはない」

 だが、バーチカルの反応は予想に反していた。彼はニヤニヤしながら答えた。

「フフフ……。恐れる……? スパイク。お前は何か勘違いをしているんじゃないのか? 俺は恐れてなんかいない。むしろゾクゾクしてるのさ……楽しくて仕方がないのさ!」バーチカルは、白い歯をむき出しにした。「アハハハハハ! 難しいゲームほど、攻略のしがいがあるってもんだろう! アハハハハ! なあ!」



**



二〇一七年五月一六日

 女性の目を抜き取る凶悪事件発生。深夜一時ごろ、かなりの乱暴を受けたと思われる若い女性の遺体が、ネブラスカシティ内一三番道路付近で発見された。女性の遺体は右目が抜き取られていた。犯人は今のところ発見されていない。――ユートピア新聞より一部抜粋――



 ハッシュが目をやられたあくる日のこと。スパイクは彼女の目を心配し、またも深夜のレストランに来ていた。だが、今はその目の話で、少し揉めている。

「なんで青色の目なんか取って来たんだ、ハッシュ」

スパイクはいつも通り、出入り口付近のソファー席に座っている。四角いテーブルを間に挟み、ハッシュと向かい合っていた。ハッシュは無事に新しい目を手に入れたものの、わざわざ自分の目の色と違う、青色を移植したのである。ちなみに、本来の彼女の目は、金色である。

「え? だって、カッコイイだろ。オッドアイだぜ?」

スパイクはため息をついた。

「それでニンゲンにお前の正体がばれたらどうするんだ?」

「大丈夫、これを使うのさ」

 ハッシュは、ポケットからカラーコンタクトをとり出した。

「私の目の色と同じ、金のカラーコンタクトさ。不自然な感じをなくすために、両目に入れておくよ。第一、パッと見つかった女が青色の目の女だったのさ。片目がなかったら確実にバレるんだから、代えの目があるだけマシだろ」

「まあ、そうか。とにかく、付けてしまった目はしょうがない。また潰すのもかわいそうだしな。カラコンで誤魔化すとするか」スパイクは、仕方なしという風に言った。「とにかく、目が治ってよかったよ」

「まだ治ってはないがな。だんだん輪郭が見えるようになってきた。そのうち視力が回復するさ」ハッシュは左目を隠しながら喋った。

「ところでだな、警察の次の会議はいつやるんだ?」

「割と頻繁にやってるよ。明日もやるんじゃないか? あれ、どっちだったかな? 明日はなしだったかな」どうやらうろ思えのようだ。

「まあいい。ハッシュ、これをやるから、持ち歩いてくれ」

 スパイクは言いながら、縦長の銀色の機会をとり出し、テーブルの上へ置いた。

「ボイスレコーダーだ。俺も会議の様子を聞いてみたい」

「なるほど。盗聴するのか。任せろ」

 ハッシュはボイスレコーダーを受け取った。



**



 お昼前。マルキは警察署内の会議に参加していた。前回と同じように、白い机が円形に並んでいる。司会を行うのは、警察署長のベージュさんだ。

「ではまず、ディアナくん。報告があるようだが、教えてくれ」

「はい。私から二件、報告があります。ひとつは、ヴォイニッチ手稿盗難事件の調査について。もうひとつは、マルキくんと私が怪人に襲撃された事件についてです。

 まず、我々はネブラスカシティ図書館に行き、盗難現場に居合わせたというマリアさんの証言をとりました。緑色の、バッタのような怪人が、三階の窓から飛び出していったようです。私もマルキくんも、きっと怪人の仕業だろうと考えています。ただ、その目的は分かりません。

 次に、図書館に行った帰りのことなのですが、私達が怪人に襲撃されました。その怪人は、四枚の羽根を生やしていて、胸が膨らんでいたので女性であると思われます。マルキくんがアトラスに変身して応戦しました」

「ほう。では、マイリー君の発明が早速役に立ったということだね。彼女も喜ぶだろう」

ベージュさんは、「良かった良かった」と続けて頷いた。マイリーは、今日の会議には不在である。

「はい、そういうことです。しかし、マルキくんは最初の一撃以外、全て回避されていました」

「余計なこと言うなよ!」

顔を真っ赤にしてツッコむマルキをよそに、ディアナは話を続ける。

「その際、怪人は自らのことを、『ハザード』と呼んでいました。おそらく、彼らの種族のことだと思います。

 銃によって右目を攻撃することに成功しましたが、そのまま空を飛び逃げられました」

「なるほど、では、そのハザードは今右目を負傷しているんだね」とベージュさん。

「それって」と、マルキ達の向かいに座っているハッシュが付け足した。「みんな、今朝の新聞見ましたか?」

「見たわ。ハッシュもそう思う?」とディアナ。

「ええ」

「ハッシュも言うように、今朝、ある事件の情報がありました。それは、若い女性が殺害されたというものなんですが、その遺体は、右目が抜き取られていたということです。我々と交戦したハザードと関係あるのではないかと考えています」

「なるほど、ありがとう」とベージュさん。

 ディアナはまだ話したいことがあるようだ。

「ここまでが私達の調査の結果なのです。ところで、私個人がこれまでの事件を通して怪人、ハザードについて考えたことがあるのですが、それも相談して良いでしょうか?」

「もちろんだ。君の見解は大変参考になる」ベージュさんは笑顔で許可した。

「一言で言うならば、私はハザード達の動きに『組織性』のようなものを感じています」

「組織性、と言うと?」隣に座っているマルキは、首を傾げた。

「最初のハザードであったジャック・ジャンは、ただひとりの殺人犯で、個人的に犯罪を行っていました。しかし、本を盗んだハザードや、私達の会議を襲撃した、光線を撃つハザードや、四枚の羽根のハザードは、少し性質が違う気がするんです。何か恨みとか不満が爆発したと言うより、冷静に、何かの役割を果たしているような気がします。でなければ、ハザードと言えども、警察にたてつく必要はないと考えています。犯罪がバレて、その際に追って来た警察官を倒すのはまだ分かります。でも、光線のハザードのように、わざわざ警察署の本部に、しかも脅しをかけてくるなんて、まるで組織で戦っているように見えます」

 いつの間にか、マルキは腕を組んで居眠りをしていた。ディアナが話の途中でマルキの肩を小突いたので、「んが」と言う妙な声を出し、目をさました。ディアナは横目でそれを確認し、話を続けた。

「特に、光線のハザードと、四枚の羽根のハザードは、我々『警察』を強く意識して行動していると思います。もしかしたら、この二人は仲間なんじゃないかなって」その後、ディアナはハッシュの方をまじまじと見つめた。「ねえ、ハッシュもそう思わない?」

「えっと……急に言われても考えが追い付かないですよ」

 ベージュさんが口を開いた。

「ディアナ君、君の視点は鋭いところがある。だが、証拠がなく論拠も弱いため、君の考えを強く支持するとまでは言えんな。もちろん当たっている可能性は十分にあるだろうが、同じくらい外れている可能性もあるだろう。正直なところ、完璧に根拠を揃えた主張だとは、君自身も思っていないだろ」

「はい、勘によるところが大きいです」

「ふむ。素直でよろしい。組織を組み協力をするにしても、何のためにそうするのか、目的があるはずだ。その目的へたどり着けば、真実へぐっと近づくかもしれんな。報告ありがとう」



**



 夕方のオフィス。マルキがデスクに腰かけていると、隣からディアナが話しかけてきた。なぜかひそひそ声である。

「マルキくん、私、警察の中にスパイがいると思うの」

「なんで?」

「だって、光線を撃ってきた青いハザード、明らかに会議の日を狙ったと思うわ。会議の日と時間を知ってたのよ。内通者がいるんだわ」

「内通者……」

マルキはぶるっとした。確かに、会議の時間にたまたま襲撃されたようには思えない。

「ディアナ、なんでそれ会議中に言わなかったんだ?」

「会議の参加者の中にスパイがいたらダメじゃない」

「あ、そっか」

 だからと言って、どのようにスパイを炙り出すのか、マルキには思い浮かばない。数秒黙っていると、ディアナが驚くべきことを言い始めた。

「ねえマルキくん、今日の帰り、ハッシュの後をつけましょうよ」

瞬間、ディアナの言葉が、脳内を反芻した。ハッシュの後をつけましょうよ……ハッシュの後を……ハッシュ……

「えええ!」マルキは目を大きく見開いた。

「バカ! 声がでかい……!」

「わ、悪かったよ」マルキは、ディアナに合わせて、声を潜めた。

 だが、冷静に考えてみて、ハッシュの後をつけることなど、到底できない。

「まさかお前、ハッシュを疑ってるのか? 最低だぞ」

「最低も何も、怪しいんだもん。ねえマルキ、ハッシュったら、光線のハザードが会議室を攻撃したとき、妙に落ち着いてたのよ。あらかじめ、光線がくることを知ってたかのようなそぶりに見えた。それに、この前戦った四枚羽根のハザード、ハッシュと声が似てると思わなかった?」

 どうやら、ディアナは本気で疑っているらしい。マルキは、羽根のハザードの声を頭の中で再生してみた。なんだか、言われてみれば似ているような気もする。しかし、ハッシュ本人の声だと断定するほど、思いきりは持てない。

「ええ……後輩なんだぞ」マルキは、会議中の話を思い出した。「そう言えば、そのハザードが右目をケガした話」

「それがどうかしたの?」

「いや、ハッシュの方から、新聞にあった片目抜き遺体の話をしてきただろ? 自分が羽根のハザードなら、わざわざそんなこと言うかな?」

「私には、あえて自分から言うことによって、身を守っているように見えたわ。そうすれば、まさか羽根のハザードだなんて思わないでしょ? 今のマルキくんみたいにね」

「そんなふうに言われたら言い返せないだろ。尾行だなんて、俺、気が引けるなあ」

「ほら、もう退勤時間よ。今からハッシュの後をつける準備をするわ」

言いながら、ディアナは自分のデスクの下に置いてあったカバンを、マルキの前へとり出した。そして、ガバッと中を開けると、サングラスやハット、付け髭などが見えた。

「どおりで今日のディアナのカバン、パンパンだと思ってたんだよ」

「変装アイテムには困らないわ、あなたにも貸すから」

「用意周到だなおい」



**



 結局、ディアナが頼んでもいないのに持ってきてくれた変装アイテムは、何一つ使わなかった。第一、サングラスならまだしも、付け髭などしていたら、普通より怪しいに決まっている。お互いに更衣室で私服に着替えて、改めて集合した。ディアナが鼻メガネやアフロのカツラを装着しようとするので、マルキは必死に止めた。

 今、マルキとディアナは、ハッシュの後をつけている。人通りの多い商店街を、ハッシュは一人で歩いていた。服装は、白くてだぼっとしたパーカーに、青いショートパンツで黒いタイツを履いている。

電柱の陰に隠れながら、マルキは声を発した。

「おい! デートとかだったらどうするんだ!」

「先輩の私を差し置いてボーイフレンドがいるなんて許せないわ」

「うわあ嫌な先輩だ」

 その瞬間、ハッシュが後ろを振り向いた! マルキはすぐそばの服屋の服に紛れた。ディアナは、電柱に体を張り付けた。一〇秒ほどしたのち、ディアナが恐る恐る、電柱から顔を出した。

「もう歩き始めたわ」

 その後もハッシュの後を追いかけ、いつの間にか空は漆黒に染まっていた。すると、ハッシュは細く人通りのない路地に入り、間を通り抜けていった。やがて、少し開けたところに着き、その先にある一階建てのレストランの前で足を止めた。

「止まったな、まさか入るのか」

 マルキがそう言うのとほぼ同時に、ハッシュはレストランの中へ入っていった。

「明らかに閉店時間を過ぎているよな。なんで入るんだ?」

 頭を傾けるマルキの後ろから、ディアナが声をかけた。

「それを今から解明しに行くのよ」

 二人はそそくさと歩き出し、レストランの鉄製のドアの前で息をひそめた。二人してかがみ、無言になった。

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