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第二話 その種族はハザード
警察のマルキ達が捜査を始めていた頃。ここは、深夜の西洋風レストラン。時間帯が時間帯なので、当然閉店している。ここは、怪人達のアジトだ。レストランのソファー席に腰かけ、銀髪で細身の男が口を開いた。
「え? 警察が?」
彼の名はスパイクナード。スパイクと言う愛称で呼ばれている。四角いテーブルを挟んで向かい合っている女が答えた。
「そうだ。どうやら、ハザードの死体を確保したらしいぞ」
この、茶髪のショートヘアで金色の瞳を持った女は、ハッシュと言う。「ハザード」とは、彼ら、怪人に変身できる者たちの総称だ。銀髪の男スパイクは、もう一度質問した。
「どういうことだ? 一から説明してくれないか」
茶髪の女ハッシュは、ぽりぽりと頭をかいた。
「あーはいはい」
いかにも、説明するのが面倒くさいという風だ。だが、スパイクは特に何も言わない。ハッシュがイラつきやすい女だということを、彼はよく理解しているのだ。だから、今更咎めたりはしない。ハッシュは、重そうに口を開いた。
「えーとね、まず、このネブラスカシティに、おバカなハザードがいました。それが、えーっと、何だったったけな、ジャックとかいう名前の、クワガタのハザードだったらしい。それで、そいつは変身能力にかまけて、嫌いなやつとか気に食わないやつをどんどん殺していった。そうするとどうなる? あっという間に連続殺人犯さ。ポリスメンに目を付けられたジャックは、しつこく追いかけられた。
それで、最後の最後、ある喫茶店に閉じこもったんだ。その喫茶店は警察に包囲された。で、ジャックは死んで、その死体が警察署に運ばれたらしい」
「ん? ちょっと待て。ジャックはハザードなんだろ? 警察はもちろん、全員ニンゲンだよな? あ、君以外はな。たとえジャックがひとりだったとしても、警察に殺されるようには思えないが。なんで死体となって出てきたんだ?」
「そんなこと私が知るわけないでしょ。とにかく、ジャックは変身して戦ったけど、なぜか殺されたってことしか分かんない」
「ふうん。不可解だな」
そう言うと、スパイクは手元のコップを持ち上げた。中に入っているのは、コーヒーだ。スパイクはこれをすすった。
「お前、ほんとうまそうにコーヒー飲むよな」
「実際おいしいからな」
スパイクは、コーヒーの味を堪能しながら息を吐いた。その後、本題に戻った。
「予想外なことがあるもんだな。こういうことがあるから、ハッシュを警察に潜り込ませておいて正解だった。とにかく、ジャックとか言うハザードの死体が警察署にあるんだな?」
「そう。しかも、明日警察署内で会議があるらしいよ。怪人が現れた事件について、とか聞いたよ」
「明日か。ふむ。まずいな。俺達ハザードの存在が認知されると、動きにくくなるぞ」
「そうかな? どうするスパイク? なんなら私達で攻め込んで、警察全滅させるか?」
「いや、派手な動きはしない方が良い。君はとりあえず、明日の会議に参加していればいい」
「ちぇ、つまんねえな」
小言を言いながらも、なんだかんだ言うことは聞いてくれるのだ。とりあえず、ハッシュは警察署の会議とやらの時間を、一秒でも多く無駄にするよう、会話を誘導してくれればいい。わざわざスパイクから言わなくても、彼女の性格上、会議を荒らしてくれるだろう。
「ハッシュ。今日来ているのは、君だけか?」
「いや。ターメリックがいるよ」
「本当か? どこに」
ハッシュは、照明がついていない暗いレストランの、端っこの椅子を指さした。そこには、長い黒髪を垂らした小柄な女が座っている。
「やあターメリック」
黒髪の女ターメリックは、うつむいて本を読んでいた。
「こんばんはスパイク……」
妙に座っている位置が離れているが、ターメリックとはいつもこのくらいの距離で話すことが多い。ぼそぼそと呟くように話すのだが、幸いハザードは耳がいいので、聞こえないということはない。
「何を読んでいるんだ?」
「ファウストよ……ごめんなさい……」
この子は、別に攻めてもいないのによく謝るクセがある。
「いや、謝ることじゃない。ファウストか。俺も若い頃に読んだよ」
「そう。やはりシェイクスピアは偉大な作家だわ……」
「おいおい、引っかからないぞ。ファウストはゲーテが生涯をかけた作品だぞ」
「ふっふっふ……。さすがねスパイク。やはりあなたは素晴らしいリーダーだわ……」
ターメリックが笑うので、スパイクも「ふふふ」と笑った。ハッシュは、微妙な距離で笑う二人を交互に見て、わけが分からないという風に両手を広げた。
「お前ら何が楽しいんだ?」
「ごめんなさい……」
謝るターメリックに、ハッシュは「いや怒ってねえよ」と捨てるように言った。
スパイクはこの、よく謝る仲間に、ひとつ任務を与えた。
「ターメリック。さっきの話を聞いていたか?」
「ええ。飛ばし飛ばしね……」
良かった。ハッシュにもう一度説明しろなんて言ったら、暴れまわっていただろう。すると横からハッシュが「良かった。これでもう一回説明しろなんて言ってきたら、イライラして地球を破壊するところだったぜ」なんて言うので、スパイクは鳥肌がった。とにかく、話を続ける。
「明日、ハザードに関する会議が、ネブラスカシティ警察署で行われるらしい。そこでだ、ハッシュにはこれまで通り、警察として潜り込んでもらう。君は、ハザード体に変身して、遠くから攻撃してほしい。あくまで一発、ビビらせるだけでいい。君の能力ならできるだろう」
「ビビらせる……。私そういうの苦手だわ。何か言った方が良いのかしら? 『これ以上関わるのは許さない』とか……」
「いや、具体的に脅す必要はない。臭わせるくらいが丁度いいのさ。そうだな、『これはメッセージだ』とでも言っておけば、十分伝わるだろう。ニンゲン達もバカじゃない」
ターメリックは、パタンと本を閉じた。
「分かったわ。その際、ニンゲンは殺してもいいの……?」
「無理に殺害する必要はないが、たまたま殺害してしまった場合はそれでもいい」
「ラジャー……」
話を聞いていたハッシュは、つまらなさそうにため息をついた。
「はあ……。まだコソコソやるのかよ」
スパイクは、あくまで丁寧に説明した。
「そうだ。まだ派手に動く必要はない。いいかハッシュ。俺達が全力を出せば、ニンゲンの組織を一つや二つ破壊することは簡単だろう。だが、ニンゲンってのはこの世にたくさんいる。それこそ腐るほどな。だから、街の警察署を破壊しても、次は州が動く。州を倒しても、次は国が襲ってくる。国を倒しても、今度は世界が襲ってくるんだ。そんな戦いをしていたら、キリがない。俺達だって寿命がある。派手に動くのは、もう少し準備が整ってからでいい。そう、この前入手したヴォイニッチ手稿を解読してからでもな」
「しゅん」
ハッシュは肩を落とした。意外と、折れるのは早い。スパイクは慰めるように囁いた。
「そうは言っても、ニンゲンを滅ぼしたい気持ちは同じさ。だから俺達は仲間なんだろ?」
「うんうん。分かってるよ」
この辺で話をやめにしようと思ったが、スパイクはもうひとつ懸念を感じた。そして、念押しした。
「ハッシュ。もし明日の会議で何かイライラすることがあっても(と言うよりは、必ずイライラするだろうとスパイクは予想している)絶対に変身はするんじゃないぞ。君はニンゲンのふりをしていることが肝心なんだからな。そうでなければ、スパイとして警察に潜り込ませた意味がない」
「はいはい分かってますよーだ」
**
マルキとディアナは昨晩、バー・ウルフに行ったが、結局例の女性、ジャンヌに会うことはできなかった。そして本日、ネブラスカシティ警察署では、怪人事件に関する会議が開かれていた。白い壁の会議室には円形に机が並び、三〇人程座ることができる。
「それでは、この前の喫茶店立てこもり事件で、突入して無事に生還したマルキ君。具体的に君が見たことを話してくれ」
そう話を振ってくるのは、警察署長のベージュさんだ。ベージュさんは、茶髪で黒い瞳をもった、笑顔が素敵な上司だ。
「はい」
マルキは返事をしたあと立ち上がり、ことの一部始終を話した。
マルキが話し終わると、「信じられん」「怪人など本当にいるのか」などという声で、会議室はがやがやと騒がしくなった。妥当な反応だろう。マルキだって、ジャックが変身するところを目撃しなければ、にわかには信じていなかっただろう。人間が、怪人に変身するなど。「静かに、静かに」とベージュさんが制して、やっと会議室は元の静けさを取り戻した。ベージュさんは聞こえやすい声で、皆に語りかけた。
「確かに、信じがたい話だ。しかし、マルキくんは実際に見たと言っているし、俺達の仲間が銃も持たない人間に何人も殺害されたことも、説明がつく。それに、クワガタの特質を持つ怪人の死骸が、実際に回収された。喫茶店の天井から飛び立つ白い鳥人間を、あの場にいた人間は見ただろう。こう証拠が揃ってしまっては、怪人の存在を認めざるを得ない。要は、怪人の生態をよく知り、何かしら対策を練る必要がある」
ベージュさんが、だいたいマルキの言いたいこともまとめてくれた。さすがは署長だ。すると、茶髪のショートヘアの女が、挙手をした。ベージュさんが、彼女を指名する。
「おお、ハッシュ君。何か言いたいことがあるかね? 名前を名乗ったのち、言いたいことを言ってくれ」
「はい。新米警察官のハッシュ・ハルドゥーンです。怪人っていうのは、ニンゲンの姿と怪人の姿、両方を持っているんですよね? それって、凄い危険だと思います。どうにかして怪人をあぶりだし、社会から抹消するべきだと思います!」
ハッシュの意見に、「賛成だ!」「賛成、賛成!」と言う声がいくらかあがった。マルキは、ジャンヌのことを思い出した。白い羽を生やした、命の恩人だ。もしもハッシュの意見が通ったら、ジャンヌも抹消されてしまうのであろうか。マルキは立ち上がって反論した。
「待って下さい。俺はマルキ・ルーカスです。確かに、俺は怪人に襲われました。しかし、助けてくれたのも怪人です。例の、白い鳥のような怪人です。おそらく、話が通じる怪人もいるのではないかと思います。協力するべきだと考えます」
ちょうどマルキの向かい側にいるハッシュは、すかさず反論した。
「その鳥女も、本当に信用できるんですか? 言葉を話したということは、私達ニンゲンと同じくらいの知能はあるんですよね。例えば、警察に『こび』を売るために、わざとマルキ先輩に恩を着せたとかは、考えられませんか?」
「そんなはずはない」
「なぜ分かるんですか?」
「それは……なんとなく。なんとなく、そんな感じがするんだ。悪いひとじゃない」
マルキ自身、自分の意見が論理的でないことは、分かっていた。案の定、ハッシュは追い打ちをかけてきた。もはやハッシュも、椅子から立ち上がっている。
「なんとなくですか? そんな理由で庇うんですか? ハハ! もしかして、マルキ先輩も悪い怪人なんじゃないですかあ?」
「なにぃ!」
マルキはカッとして、机の上の筆箱を掴んだ。今にも投げ飛ばそうとするかのように、腕を上げる。その瞬間、太ももに激痛が走った。隣に座っていたディアナが、ズボンの上からつねってきたのだ。
「いて!」
マルキはびっくりして、体を硬直させた。
「マルキくん落ち着いて。とりあえず座りなさい」
「なんだと! あいつの方から」「座りなさい」
ディアナが真顔で言うので、マルキは「はい……」と呟いて椅子に腰かけた。
「ハッシュも座りなさい」
円の向こう側にいるハッシュも、どさっと音を立てて椅子に座った。
「どうも、ディアナ・ルイジアナです。確かに、ハッシュの言うことは一理あるわ。怪人は人間の姿に変身できるし、言葉もおそらく話せるでしょう。協力や裏切りの概念があるなら、高度な作戦をとる可能性もあるわ。我々警察の信用を得るためにマルキ君を助けたということも、考えられる。
同じく変身能力があるという理由で、難なく人間社会に潜り込むこともできるはず。今隣にいる人間が怪人であるかもしれない。攻撃的すぎるのは良くないけれど、ハッシュの疑ってかかる姿勢は間違えているとは言えないわ」
マルキは納得していた。全く言う通りだ。チラッとハッシュを見ると、「ほーら」などと言ってドヤ顔をかましてきた。マルキはまた椅子から立ち上がるところだったが、ディアナの方が先に喋った。
「ただし! 怪人である可能性はマルキくんだけじゃなくて、この部屋にいる全員にもあるわ! ハッシュ、あなたが怪人かもしれないという線もあるのよ」
ハッシュは眉をよせ「しゅん」と言ってうつむいてしまった。ざまあねえぜ。
そこで、ちょうどマルキやハッシュたちの間、円の奥に座っているベージュさんが声を発した。
「ハッハッハ。だが当然、この中の全員がただの人間だということもあり得るだろう。そんなことを一人ひとり疑い始めては、キリがない。ひとまず、現状分かっている情報を整理してみよう。マイリー君、準備は良いかね?」
ベージュさんはマイリーの方を向いた。マイリーは、ハッシュの隣に座っている髪の長い女だ。いつも少し下を向いていて、顔が隠れ表情が分かりにくい。今日も、長い髪を垂らして下を向いている。だが、マルキには、彼女の口角が少し上がっているのが見えた。まるで、自分の出番を楽しみにしていたかのようだ。
「あ……。やっと私の出番ですか。科学班、マイリー・マイクロプスです。今回、怪人に変身したという殺人犯ジャック・ジャンの死体を解剖しました。いやあ、すごい楽しかった……ヒヒヒ!」
マルキは、ジャックに追い詰められたときとは別の、なんだか気持ち悪い恐怖を感じながら、耳を傾けていた。ちらりと右を見ると、隣のディアナも、変人でも見るかのような目でマイリーを見ている。実際変人だから仕方がない。
マイリーはみんなの前に立ち、プロジェクターの電源を入れた。すると、マイリーの横の大きなスクリーンに映像が映し出された。ジャックの解剖図だ。おおかた、人間のレントゲン写真のように見える。特に骨格は、頭に二本のツノがあること以外は同じに見える。頭には脳もある。だが、胸の辺りは黒く、何も映されていない。そういえば、ジャックが絶命するとき、胸の辺りが爆発した。心臓があったとしても、吹き飛んだのかもしれない。
マイリーはポインターで赤い光を当てながら、各部位を解説していく。
「まず、今回の死体は、怪人に変身した状態で発見されました。人間と同じなのは骨格ですね。それと、やはり頭には脳があります。脳の重さや大きさも人間と同じです。喉や口の、発声に必要な器官も同じなので、同じ言語を話すこともできると考えられます。ここからは、人間と違うところですよ? ヒヒヒ!」
マイリーが少し顔を上げると、サラサラした前髪の奥にある茶色い瞳が輝いた。コワイ! 背筋をピンと張ったのは、マルキだけではなかった。
「顔のつくりは、昆虫に似ていますね。目は巨大な複眼、頭にはツノが二本生えています。触角も二本あって、おそらく人間の鼻よりも細かく臭いをかぎ分けられます。胸の辺りは吹き飛んでいたのでよく分かりませんでしたが、握りこぶし大のくぼみが見つかりました。内臓は全然見当たりませんでした。腸や胃、肺などにあたる部分には、特にこれに似たようなものはありませんでした。その分、血管や筋肉が人間よりかなり多いですね。身長はツノを含めて一八三センチ、体重は一五〇キロもありました。胸の辺りが吹き飛んでいたので、実際はもう少し重かったのではないかと考えています。血液、緑色でした。ヒヒヒ……! ミュータントっぽいですよね! カッコイイ!
それと、体表は硬い甲殻で覆われていました。鎧を装備しているようなもんですね」
「マイリー、銃弾が効かなかったよ」
マルキは補足した。
「あー、そうですね。私も、銃弾が効かなかったという話は聞いていました。ですが、やはり自分の目で確かめたかったので、死体の足に向かって発砲してみたんです。そしたら……」マイリーはそう言うと、白衣の右腕をまくった。すると、包帯でぐるぐる巻きにした腕があらわになった。「銃弾が跳ね返って自分の腕に当たりました……」
「ぶっ」
ディアナがこらえきれず、吹き出した。すると、マイリーは鋭い眼光でディアナを睨みつけ、早口で喋った。
「ひとがケガしてるのになぜ笑うんです!」
「すみません!」
ディアナも早口で謝った。マイリーはまた少しうつむき、本題に戻った。
「ところで、ここまで聞いて、特に不思議なこと、ありますよね? 実際に戦った人なら分かるでしょう。はい! マルキくん!」
マイリーは素早くマルキの方を向いた。彼女はただ見つめているつもりなのかもしれない。だが、顔が若干下を向いているために、睨みつけられているかのような圧迫感を受けた。マルキはわけもなく、ごくりと唾を飲んだ。
「そ、そうだな。要するに、内臓が脳しか見つからなかったということなんだよね? 顔以外は骨と血管と筋肉……。ならば、空気を吸う肺や、消化をする胃、何より心臓はどうなっているんだ?」
マイリーは回答を聞くなり、手を叩いて大笑いした。
「ヒヒヒ! さすがマルキくん! ただの筋肉野郎ではない!」
マルキはどうしてだか、コケにされているような印象を受けた。そんなマルキをよそに、マイリーは話し始めたが…。
「そうなんです! 私の推測なんですが」
バゴン!
突然大きな音がし、スクリーンに映し出された映像が消えた。何が起こった! マルキは部屋を見回した。プロジェクターが、煙を吐いて壊れている。銃で撃ち抜かれたかのようだ。そして、窓の方を向いた。窓の一番近くにいる男の先輩が、座ったまま眉間から血を流している。先輩はゆっくりと頭を机に打ち付け、その机を赤く染めた。
マルキは全てを理解した。何者かが、窓の外から銃を撃ち、窓を割り、先輩の頭を後ろから貫通、最後に部屋の奥にあるプロジェクターに攻撃が当たり、スクリーンの映像は消えたのだ。
「きゃああ!」
マイリーの悲鳴に始まり、会議室は混乱した。皆椅子から立ち上がり、叫び、走っている。部屋から出ていく者もいた。マルキは危険だと思いながらも、透明な窓の近くへ走った。攻撃が放たれた方だ。そして、先輩の元へ駆けつけた。
「先輩! 先輩!」
マルキは、机に突っ伏している先輩の肩をゆすった。だが、反応はない。その後頭部には、小さな穴が見える。くそ! くそ!
「マルキ君! 彼は……もう!」
ベージュさんも駆けつけ、マルキの肩に手をのせた。
「あれを見ろ!」
突然、部屋にいた一人が窓の外を指さした。マルキもベージュさんも、窓の外を見た。すると、道路を挟んで反対側のビル、その屋上に人影が見えた。いや、それは人ではない。全身は青く、エビやカニと似た甲殻のようなものに全身を包まれている。右腕には巨大なハサミがついており、そのハサミはこちらを向いていた。マルキは直感的に、あの右手から攻撃を放ったのだと思った。敵はハサミを下に向け、女の声で囁いた。
「ニンゲン達よ、これはメッセージだ……4」
怪人は背を向け、向こう側に歩き始めた。
「おい! 待てこのエビ女!」
怪人は叫ぶマルキを無視し、ビルの向こう側へ飛び降り、見えなくなった。向かいのビルは、四階建てである。
部屋にいた全員が唖然とする中、ベージュさんが呟いた。
「メッセージ……俺達をいつでも殺せるぞと言うメッセージなのか……」
このときディアナは、ハッシュが一切動じていないことを、見逃さなかった。
**
結局会議は中止になり、オフィスへ戻ることになった。マルキはドーナツを持って、ハッシュのデスクへ向かった。先ほどの会議でのケンカは、さすがに言い過ぎたと思ったのだ。先輩として、もう少し落ち着いておくべきだっただろう。
「ハッシュ」
マルキは、ハッシュの背中へ声をかけた。ハッシュの方はと言うと、なにやらパソコンをいじっていた。
「はい」
ハッシュは椅子を回転させ、マルキの方を向いた。
「ドーナツだ」
マルキは素っ気なく、ドーナツを持った右腕を前に出す。
「あ、はい。ドーナツですね」
「これ、あげるよ。さっきは言い過ぎた。悪かったな」
ハッシュは、金色の瞳を丸くしながら、マルキの顔を見上げた。よく見ると、角のない可愛らしい顔をしている。マルキの親切に、戸惑っているようだった。
「ありがとうございます。私も言い過ぎました。マルキ先輩が怪人だなんてほんとは思ってないです」
言いながら、ハッシュはドーナツを受け取った。
「ほんとか?」
「本当です。だって、マルキさん単純だから、もし怪人だったら、あのとき変身して私に襲い掛かって来たでしょう」
「おい、やっぱりドーナツは返せ」
「冗談ですよ冗談」ハッシュは続けて、「ふふふ」と笑った。
ドーナツを一口かじった。マルキも「へへへ」と笑う。このとき仲良くしていなければ、マルキはのちのち苦悩しなくて済んだかもしれない。
**
それから一週間ほど経った。警察官マルキは、署の研究室へ呼ばれた。マイリーから呼び出しを受けたのだ。電話を受けたマルキが「研究室に? 用件はなんだ」と聞くと、「ヒヒヒ! 来てからのお楽しみよ」などと答えられたので、内心ビクビクしている。
研究室に向かう廊下で、ディアナとすれ違った。
「マルキくん、こんにちは」
「ディアナ、こんにちは」
「ねえ、いきなりなんだけど、会議室のドアがひとつ、紛失したらしいのよ。あなた、何か心当たりある?」
「え? 会議室のドアが? 破壊されたとかじゃなくて、紛失したのか? いたずらだとしたら相当変わってるな」
「でしょ? 不思議よね。今、署のみんなで犯人を捜してるのよ。じゃあ、私はオフィスに戻るから、またね」
「ああ、また」
ディアナを見送り、長い廊下を進んだ。その先にあるのは、研究室だ。マルキは、研究室の白いドアを押して開けた。思えば、警察署に勤めてから、初めて研究室に足を踏み入れる。部屋の中へ入ると、ガラスの棚や流し付きの机が見えた。棚の中には何やら薬品と思われるビンやカプセルがたくさん入っている。細長い机の上にも、手術用品と思われるピンセットやメスが、銀光りのトレーに入れて置かれてある。
マルキはそのトレーの中に注射器を見つけてビクッとした。大の大人だと言うのに、彼は注射が苦手なのだ。
「マルキくん!」
声のする方を向くとそこには茶髪で少しうつむいた女、マイリーがいた。部屋に入ってすぐの机に、腰かけている。それに、マルキを待っていた者がもうひとりいる。警察署長のベージュさんだ。ベージュさんは、机を挟んでマイリーの向かいに座っている。ベージュさんは、にこやかに挨拶をしてくれた。
「やあ、マルキ君」
「あ! ベージュさん! おつかれさまです」
なんだかマイリーの隣に座るのが怖いので、マルキはベージュさんの隣に座ろうと思った。だが、マイリーが前髪の隙間からマルキの顔を見ながら、彼女の隣にある椅子の上をぽんぽんと二回叩いた。ちょうど、ここへ座りなさい、という風にだ。マルキは無言で二回頷いたあと、おずおずと歩き、マイリーの隣に座った。
こうして今、マルキの隣にマイリー、机を挟んでベージュさんが座っている。その中心である机の上に、何やら黒い腕時計のようなものが置かれている。デザインは至ってシンプルな、デジタル時計だ。マルキはこれをチラ見した後、隣のマイリーにたずねた。
「マイリー、今日は何の用なんだ?」
「マルキくん、怪人に変身したいと思わない?」
「え? なれるものならなりたいさ。やつらと互角に戦えるようになるなら、すすんで戦うさ」
……。
しばらく、よく分からない沈黙が三人を包んだ。そしていきなり、マイリーが机を叩いた。
バン!
「なれます!」
いきなり大声を出すので、マルキは後ろに退いた。
「うわ! びっくりした。……、え? え!」
……。
再び数秒ほど沈黙した後、マイリーはまた机を叩いた。
バン!
「なれます!」
「え! ええ!」
マルキが怪人になれるとは、どういうことだろう。驚きを隠せない。マイリーは珍しく顔をあげ、語り始めた。
「ジャック・ジャンの死体を回収してからというもの、私は日夜、ジャックの死体を解剖、研究していた。そしてついに生み出したのよ、あなたを怪人に変身させる機械! 『腕時計型変身器・ナビ子ちゃん』を! 頑張ったのよ! 一日八時間睡眠という過酷な環境の中頑張ったのよ!
今日は、ベージュさんにも立ち会ってもらって、私の研究の成果を見てもらうことにしたの」
そう言って、マイリーは満面の笑みで、机の上の黒い腕時計を指さした。
「と言うことだそうだ」
とベージュさん。マルキは、黒い腕時計を見た。
「これがその……えっと、ナビ……」
「ナビ子ちゃんよ! つけなさい!」
マイリーが急かすので、マルキはそそくさと左手首にナビ子を巻き付けた。それを見て、マイリーは手を叩いた。
「良いね! 似合ってるわ! さあ、使い方を教えるから、立ち上がって」
マルキは言われるがままに席を立ち、机から少し距離を取った。
「マルキくん。ナビ子ちゃんは、音声認識で動くわ。まず、『オーケーナビ子』と話しかけてごらんなさい」
マルキは、左手を口元に近付けた。
「オーケーナビ子」
――おはようございます――
女性の機械音声が時計から流れた。これが、ナビ子の声だ。マルキは驚きの声をあげる。
「おお!」
「これで、ナビ子ちゃんの準備が整った。あとは、『マルキ、変身』と唱えるだけよ! ナビ子ちゃんから注射針が出て、あなたを怪人に変身させる液体を注入するわ!」
「え、ちゅ、注射?」
マルキは戸惑ってしまった。そうか、注射針で変身するのか。単純に、マルキは針が自分に刺さるのが嫌だった。たじろぐマルキを見て、マイリーは燃えるような目つきで叫んでくる。
「ちょっと! 何を躊躇してるの!」
マルキはやむを得ず、変身することにした。このまま戸惑っていては、解剖でもされてしまいそうだ。
「マルキ、変身!」
――変身、アトラス――
再び女性の機械音声が流れると、マルキの体は左腕から、胸や腹、やがて頭から足先まで変化した。マルキは、自分の両手を見た。ごつごつとした茶色い甲殻に覆われ、もともと太い腕はもっと太くなった。そして、ガラスの棚に映っている自身の姿を確認した。胸は分厚く鎧のように、腹筋は八つに割れている。頭からはクワガタを連想させるような二本のツノが生え、目は大きな複眼だ。
「おお! これが、怪人の姿!」
「そう、あなたは怪人に変身できる戦士よ! その名はアトラス! クワガタの怪人だから、クワガタムシから名前をとったの」
「いや、アトラスは確かカブトムシではなかったかね?」
横からベージュさんが訂正すると、マイリーの白い顔が一気に赤くなった。
「ま、まあ、細かいことはいいんですよ! マルキくん、変身してみた感じはどう?」
マルキは、体から湧き上がってくる新しい感覚を、できるだけ分かりやすく伝えようとした。
「なんかこう、力がみなぎってくる感じがする! 体は軽いし、パワーが人間を超えているのが自分でもなんとなく分かる!」
「ふっふっふ。そうでしょう。マルキくん、力試しをしたくないかい?」
「え? 力試し?」
マイリーは、マルキの後ろを指さした。
「そこ、部屋の端に、取り外してきた会議室の扉があるわ」
ベージュさんがおでこに手を当ててため息をついた。
「はあ。会議室の扉を盗んだのは君か」
マイリーはベージュさんのため息など無視して、マルキに話しかけてきた。
「マルキくん。その扉を試しに折り曲げてみましょう」
「よし! これだな!」
クワガタの戦士アトラスに変身したマルキは、自分の背後においてあった白いドアを持ち上げた。
「おらあ!」
ベージュさんが「おい! やめなさい!」と言ったときには、ドアはギシギシと音を立て、くの字に曲がっていた。マイリーはパチパチと激しく拍手をしている。異常な興奮状態にあったマイリーは、マルキにあり得ない命令をした。
「マルキくん! そいつをぶん投げなさい!」
「よっしゃあ!」
ベージュさんが「こら! 投げるな!」と言ったときには、マルキはそのたくましい腕を振り回し、ドアを手から離していた。折れたドアは弧を描いて研究室を舞い、部屋の奥にある時計に直撃した。
ガシャン!
時計が割れ、床に落ちた。
ドゴン!
折れたドアも床に落ちた。
「しゅ、修理費が……経費が……」
涙を流すベージュさんをよそにマルキとマイリーは盛り上がっている。
「すごいわ! マルキくん!」
「うおお! 俺は無敵だー!」
マイリーは、「マルキくん!」と言って椅子から勢いよく立ち上がった。マルキも、マイリーのそばへ駆け寄った。マイリーが両手をあげ、手のひらをマルキに向けた。マルキも両手を挙げ、その両手を勢いよく前へ出した。今にもハイタッチが成功しそうだったのに、直前でマイリーが何かを思い出したかのように手を引っ込めた。戸惑うマルキ。
「あ、あれ?」
「ダメだわ、今のあなたとハイタッチなんかしたら、手がバキバキに折れるかもしれない」
「確かにそうだ。そう言えば、どうやって変身を解くんだ?」
「変身は解けないわ。あなたは一生そのままよ」
「ええ!」
マルキは怪人のごつごつした両手で顔を抑えた。いくらなんでも、怪人の姿で一生を終えるなんて、あんまりだ。変身する前に説明しておくべきだろう。だが、死ぬほど落胆したマルキは、怒りの言葉すら出てこなかった。まさに彼は、絶句したのである。
あまりにも落ち込んでいるマルキをみかねて、マイリーは笑いかけた。
「ふふふ。そんなに落ち込まないでよ。冗談よ冗談」
マルキは大きな赤い複眼でマイリーを見た。
「え?」
「だから、冗談よ冗談」
どうやら、変身を解除する方法はあるらしい。マルキは安心よりも先に、タチの悪い冗談を言われたことへの怒りがふつふつと込み上げてきた。
「てめえ! 今度笑えない冗談言ったら、その口を縫い合わせるぞ!」
「もう、ごめんなさい。そんなに怒る事ないじゃない」
さっきまで仲良く盛り上がっていたのに、冗談ひとつでこのありさまである。
「『変身解除』とさえ言えば、いつでも変身を解除できるわ」
マルキはさっそく、言われたとおりにした。
「変身解除」
――変身を、解除します――
また女性の音声が流れ、マルキの肉体は人間に戻り、いつも通りの警察の制服を着た姿になった。
「マイリー君。ナビ子はこれからマルキ君が大切に保管すべきだとは思う。だが、もし万が一、他人にこれが奪われた場合、その対処は考えているのかね」
涙をハンカチで拭き終わったベージュさんが質問した。当然の疑問である。
「よくぞ聞いてくれましたベージュさん。ナビ子ちゃんは、マルキくんの声にしか反応しないように作成しました。マルキくんの声を識別できるようプログラミングしており、例えば他の人が話しかけても、ナビ子ちゃんは無視します。開発者の私ですら、反応してくれません。つまり、マルキくん以外の前では、ナビ子ちゃんはただの腕時計なのです。ヒヒヒ!」
マイリーは、普段のうつむき加減に戻り、説明を付け足した。
「ちなみに、マルキくんの声のデータは、過去にマルキくんが事情徴収を受けていた音声テープから、誰の許可も得ず一方的に採取しました。だから何も問題はありません」
なんだかツッコミどころがある気がしたマルキだが、とりあえずスルーした。それにしても、この変身器ナビ子ちゃんは、初めからマルキだけが変身することを想定して作られたもののようだ。
「マイリー。どうして、俺を変身者に選んだんだ?」
「ヒヒヒ……。怪人と戦うなんて、無謀な勇気と恐ろしい生命力があるマルキくん以外、考えられないわ」
マルキは、喜んでいいものかよく分からなかったので、とりあえず今日の夕方に何味のドーナツを食べようかと考えた。
まあとにかく、これでマルキは、変身能力を使って戦えるようになったのだ。出て来い怪人!俺が倒してやる!
だが、運命は彼が予想していたよりもはるか過酷な戦いを課した。彼の次の敵は、身近な人物だったのである。彼が仲間だと思っていた、あの……。