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序章
――古き罪人が封じられたところに〈解読不能の文字〉が眠っている。〈解読不能の文字〉は巨大な植物で、三人の緑の血の種族が祈るとき、地上にその姿を現す。〈解読不能の文字〉は、天空へ向けた砲撃を放ち、この世に雨を降らせる。その雨は、赤い血の種族を緑の血の種族に変えることができる。だが、同時に有害でもあり、肉体の変化に耐えられない多くの赤い血の種族は、その身を滅ぼすであろう。〈解読不能の文字〉が攻撃を可能にするための材料は、次に記してある――
――〈解読不能の文字〉の攻撃を可能にする材料は、以下のものである。ニンゲンの両腕、両足(なお、それぞれ一本ずつ、別の個体のものでなければならない)。トカゲのしっぽ。カニの足。イヌの精液。イソギンチャク。ネコの髭。サバのうろこ。ヤシの木二メートル。ウニの卵巣……――
第一話 天使の羽
二〇一七年四月二四日
連続殺人犯ジャック・ジャンが、ネブラスカシティ内の喫茶店に立てこもる事件が発生。シティ警察が喫茶店を包囲し、突入するも、死者一一名が出た模様。この事件に関して、一般人の死傷者はいなかった。――ユートピア新聞より一部抜粋――
「なぜなんだ! なぜ誰も出てこない! 誰一人出てこないぞ!」
喫茶店を包囲している警察官のうちひとりが、大声を発した。黒く逆立った短髪が印象的な彼の名は、マルキ・ルーカス。
今、警察の皆は、殺人犯ジャックを追い詰めた。ジャックは店内に立てこもっている。先ほどから、警察の仲間たちが店内に侵入しているが、一向に返事がない。
まるで、二度と戻ってこないのではないかと思わせるほど、しいんとしている。
「おかしいわね。事前の情報では、立てこもったジャックは武器を持っていなかったはずよ」
マルキの後ろから話しかけてくる若い金髪の女性は、彼の同僚ディアナだ。
「クソ! 俺が行く!」
マルキは、「気を付けて」というディアナの声を背中に受けながら、歩き始めた。
だいいち、俺たち警察は銃を持っているんだぞ。一対一だって、ケンカして負けるとは思えない。それが、もう一〇人は喫茶店の中へ消えていった。丸腰の相手を前に、やられたとは思えない。相手がバズーカでも持っていなけりゃ、負けるはずはないだろう。
そんなことを考えながら、マルキは喫茶店の前に立った。茶色い、木製の戸だ。いつもは家族や恋人でにぎわうはずの喫茶店を砦に立てこもるとは、許せない。ここは、悪党が使うような場所ではないぞ!
ガラッ!
マルキは銃を構えながら、勢いよく戸を開けた。左右を確認しながら、慎重に入る。だが、店の様子を見て、マルキは息をのんだ。自分の先輩や同僚たちが、倒れているのである。
ある者は机の上に倒れ込み、ある者は胸から血を出しながら壁にもたれかかり、ある者は椅子に頭を打ち付け動かなくなっている。丸テーブルが並び、花壇や絵画で彩られた華やかな店は、もはや大きな墓と化していた。
「お、おい! 大丈夫か! 生きてるか!」
マルキは、一番近くに倒れていた黒髪の男に話しかけた。うつ伏せに床に倒れていたので、肩を支えて、顔がこちらに向くように起き上がらせた。どうか、返事をしてくれ! だが、マルキは彼の顔を見た瞬間、手を離してしまった。
「うわあ!」
もはや死んでいる者の体は、床に打ち付けられた。死体の顔は、陥没して鼻や口が内側にめり込んでいたのである。ハンマーででも殴られたのか? いったい、どんな攻撃を受けたんだ!
マルキはきょろきょろと店内を見回しながら叫んだ。
「誰か! 誰か生きてるやつはいないのか!」
「はいはい、生きてるよ」
妙に落ち着いた返事とともに、声の主はキッチンあたりから出てきた。体にいくらか返り血を浴びている。金髪のぼさぼさ頭をした彼は、立てこもった殺人犯、ジャックだ。
「ジャック……! お前が仲間たちを殺したのか!」
マルキは素早く銃口を向けた。ジャックは、マルキから一〇歩ほど離れたところにいる。ディアナが言っていた通り、何か武器を持っている様子はない。ならば、どうやって警官たちを……? マルキは謎に頭を混乱させながらも、口を開いた。
「動くな! 妙なそぶりを見せたら撃つぞ!」
「……」
ジャックは無言のまま、ニヤニヤとマルキを見た。
「おい! 両手を挙げるんだ! そして、ゆっくり床に寝転がれ! うつ伏せでだ!」
「ハハハ……」
「何がおかしい! なぜ笑う!」
「そんなオモチャでどうするって言うんだ?」
「なに?」
オモチャだと? 撃たれたらお前は死ぬんだぞ? だが、マルキの疑問に答えるように、敵はその正体を現した。
「俺、もうニンゲン体のまま戦うの飽きちゃったなァー……」
「早くしろ! あと五秒待ってやるから!」
「ジャック、変身」
そう言うと、ジャックの体はみるみるたくましく変化していった。胸板は厚く、腹筋は6つに割れ、腕や足は太くなった。頭からは、クワガタを連想させるツノが二本生え、目は大きく黒い複眼に変化した。今、ジャックの全身はちょうど甲虫のように、鎧をまとったかのような姿になった。
「うわああ! な、何者なんだ! お前は人間なのか?」
「ニンゲン? そんなやわな存在じゃない」
怪人と化したジャックは、マルキに向かってゆっくりと歩き始めた。
「来るな! それ以上近付くと撃つぞ!」
「アヒャヒャ!」
ジャックは無視し、どんどんマルキへ近付いてきた。あと三歩ほどだ。
ドン!
マルキはついに発砲した。確かに、ジャックの胸へ命中した。だが、その弾ははじかれ、どこかへ飛んでいっていしまった。ジャックは一瞬立ち止まったが、「ちくっとしたぜ」と言うと、何事もなかったかのように歩みを進めた。そして、マルキの目の前まで来た。
ジャックは腕を横へ一閃し、マルキの銃をはたき落とした。
「ぐわ!」
銃は床を滑っていく。ジャックは再び腕を振り上げ、乱暴に振り下ろした。マルキはかっと見開いた目でその腕の動きを捕らえ、なんとか左に避けた。すると、空振りした腕は、マルキの後ろにあった丸テーブルを粉砕した。
マルキは砕けたテーブルを見ながら、なんとか距離を取ろうと狭い店内を走った。
「バカな……こんな……! この世に存在するはずがない……! ぐわ!」
倒れていた椅子につまずき、マルキはこけてしまった。前向きに床に倒れ、両手をつく。さっと後ろを振り向くと、既にジャックはすぐ側まで来ていた。
「アヒャヒャ! お前もお仲間のところへ行きな」
「ふざけるな、化け物! うおお!」
もはや逃げ場はない。戦うしかないぞ! マルキは立ち上がり、そのままジャックの胸を殴った。パワーには自信がある。
「いてえ!」
だが、相手の胸に当たった次の瞬間、マルキは右手をぶんぶんと振った。あまりにも胸が硬く、手の甲がひりひりと痛んだ。
「ぐわ!」
マルキは胸ぐらを掴まれた。そして、身長一八八センチ体重八〇キロもある彼のたくましい体が、軽々と宙に浮いた。そのまま、ボールでも投げるかのようにふっ飛ばされる。マルキの体は弧を描いて飛び、床を転がった。
「うう……」
ぐるぐると目がまわるのを堪えながら、マルキは顔だけなんとか起こした。
「ヒャヒャ! お前を賞賛してやろう。ニンゲンにしては頑張ったで賞だ! 楽にあの世にいかせてあげまーす! 一撃でな!」
ダメだ。もはや立ち上がることもできない。怪人が目の前にいる。テーブルを粉砕できるほどのパワーを持ち、銃が効かない怪人だ。これは夢か。怪人は、這いつくばるマルキの前で、そのたくましい右腕を振り上げている。これをくらえば、頭は砕かれるだろう。
バリン!
その時、店の窓が割れ、一羽の白い鳥のようなものが入って来た。マルキはハッと、窓の方を見た。死を覚悟していたマルキには、この瞬間がスローモーションに見えた。窓の破片がゆっくりと飛び散り、床に落ちるまでが数分のように感じた。
その白いものを凝視した。それは人間と同じように長い手足を持っている。人か? いや、腕や足は白く美しい羽に覆われている。しかも、背中には巨大な翼がある。ここまで、飛行してやってきたのだ。ならば鳥か? いや、金の瞳と、赤く膨らんだ唇がある。胸は女性のように膨らんでいる。
マルキはピンと来た。ああ、天使だ。天使がマルキの魂を迎えに来たのだ。
天使は、窓が割れるほどの勢いで突っ込んできたにもかかわらず、ふわりと床に着地した。そしてものすごい速度でマルキのそばまで駆けつけ、パンチを繰り出そうとしていた怪人ジャックの頭を蹴り飛ばした。
「ゲ!」
妙な声をあげてジャックはごろごろと床を転がった。白い天使はその声を発した。
「しょうもないことに変身能力使ってんじゃねえぞ!」
「なんだてめえ! 邪魔するな!」
ジャックは立ち上がり、そのままの勢いで天使に殴りかかった。テーブルを粉砕するパンチだ。だが、天使は左手を出し、簡単にそのパンチを受け止めた。マルキはハッと息をのみ、ジャックも驚いた。
「え!」
「おいおいもっと頑張れよ! 本気かあそのパンチ? ちゃんとケツの穴締めて殴ってこいや!」
とても天使が言うようなセリフとは思えない。天使は握ったジャックの手を離さず、そのまま腕をひねった。ジャックが悲痛な声をあげた。
「ぐああ!」
「いいかざこっぱボーイ。パンチって言うのなあ!」
天使はすかさず拳を振り上げた。
「こうやって打つんだ!」
その拳はジャックの胸に直撃し、彼の体を大きく後ろへふっ飛ばした。ジャックは背中を床に打ち付けた。その胸は陥没し、緑色の血を流している。やがて、ジャックは小爆発を起こし、アゴから胸の辺りまでが飛散した。ジャックの死体がばたりと倒れた。
「うわ!」
マルキは思わず声を漏らした。天使はマルキに近付いてきた。
「た、助けてくれてありがとう!」
這いつくばったまま、とりあえずお礼をした。
「紳士さん、あなたはやっぱりいい性格してるわね」
天使はそう言うと、マルキの側で膝をつき、その鼻へ軽いキスをした。
「え……! ちょっと」
どぎまぎするマルキをよそに、天使は立ち上がった。筋肉質だが、すらりとしている。考えてみると、天使ではなく白鳥のようにも見える。
「お礼なんて必要ないわ。これは、お酒のお返しなんだから」
天使は、背中から生える巨大な羽を広げた。今にも、飛び立ってしまう。マルキは、慌てて叫んだ。
「俺はマルキ! マルキ・ルーカス! 君は?」
「私はジャンヌ・ジャスティス」
そう言うと、ジャンヌは羽を羽ばたかせ、上昇した。そして、天井をぶち破り、かなたへ消えていった。羽ばたいたときの風で、ただでさえ逆立っているマルキの髪はぼさぼさになった。
**
若い警察官マルキはくたびれていた。ジャックの立てこもり事件の翌日、マルキは事情徴収に呼ばれ、上層部や同僚から質問攻めにされた。ネブラスカシティ警察署長のベージュさんを中心に目上の方々に囲まれ、喫茶店で何が起こったのか、散々聞かれた。喫茶店に入り、ジャックに銃が効かなかったこと、ジャックが怪人に変身したこと、白い天使のような女が助けに来てくれたこと、洗いざらい話した。その噂は一夜で署内に広がり、仲間とすれ違うたびにマルキは取り囲まれた。おかげで何周も同じ話をして、くたびれたというわけだ。
最初は、あの意味不明な状況をどのように説明するか困っていた。だが、何度も質問を受けるうち、マルキの頭の中は整理され、今となっては、誰にでもスラスラと、一から十まで話せるようになっていしまった。わけもなく、マルキは小学生の頃、英語の教科書を暗記したことを思い出していた。
明日には、マルキや、警察署長のベージュさんを含めて、怪人事件に関して会議が行われるらしい。だったら、みんな会議まで待ってくれたっていいのに。どうせ明日の会議でも、マルキは同じ説明をするはめになるだろう。
お昼休み、マルキは自分のデスクでドーナツを食べていた。チョコドーナツだ。すると、隣のデスクのディアナが話しかけてきた。ディアナも、昨日の事件の概要はだいたい知っている。
「マルキくん。あなたが無事でよかったわ」
ディアナがマルキの方を向くので、彼女のひとつくくりにした金髪が少し揺れた。
「ありがとう」
「ところで、あなた、白い怪人に助けてもらったんだって?」
マルキは、「怪人」と言う表現に違和感を覚えた。なんとなく、怪人などと言われると、悪者のような聞こえがする。白い天使ジャンヌは、怪人などではない。マルキはそういった思いに駆られた。
「怪人って言うのやめろよ。俺の命の恩人なんだから」
「そう? じゃあ何に見えたの?」
「うーん……天使?」
「同じことでしょ」
「なんだと!」
マルキはカッとなった勢いで、口の中に含んでいたドーナツを少しこぼした。ディアナは涼しい顔で、どこからかドーナツをとり出した。ピンク色の、ストロベリードーナツだ。
「はい、これあげる」
「ありがとう」
マルキはまるでペットのように手なずけられた。ドーナツをあげて気分をおさめるとは、二十歳を越えた大人にそうそう通用する手段ではないだろう。ディアナは、顔を覗き込むようにして聞いた。
「それでさ、具体的にその天使との会話を思い出してもらえる? できるだけ一言一句、詳細に教えてほしいの」
「えーっと」
何回も質問されてきたマルキにとっては、それくらいのことはお安い御用だ。ジャンヌとの会話を思い出し、一言ずつ喋った。
――「助けてくれてありがとう」「紳士さん、あなたはやっぱりいい性格してるわね」(確か鼻にキスをくれた)「え……ちょっと」「お礼なんていらないわ、これはお酒のお返しなんだから」「俺はマルキ! マルキ・ルーカス! 君は?」「私はジャンヌ・ジャスティス」――
ディアナはここまで聞いて、マルキの話を復唱した。椅子の背もたれにべったり背をつけて、天井を眺めながら。
「お礼はいらない、お礼はいらない。お酒のお返し…お酒…。お酒ねえ。マルキくん、あなた、最近誰かにお酒を奢ったりした?」
「いや……」
マルキはアゴに手を据えて、思い返してみた。マルキが飲みに行く相手は、同僚のディアナか、仲が良い警察署長ベージュさんくらいしかいない。何しろディアナときたら、「酒が欲しい」「アルコールをくれ」などと言って、しょっちゅうバーに行きたがるような女なのである。だが、ベージュさんはだいたい奢ってくれるし、ディアナともたいがい割り勘だ。
「いや、特にそんな記憶はないな。最近飲みに行ったのは君くらいだ。もしかして、君があの天使なのか?」
「バカなこと言ってんじゃないわよ」
「だよな。そもそも、ジャンヌはおっぱいが大きかった」
「ちょっと、それどういう意味?」
「あ、いや」
どうしたものか、マルキは戸惑った。だが、ディアナは何か思いついたようで、話題はすぐに軌道に戻った。
「そうよ! 私と飲みに行ったとき! あのときマルキくん奢ったじゃない!」
「え? そうだったけ?」
「思い出して! 黒髪の女の人よ」
マルキは、記憶をたどっていった。そうだ、お酒を奢ったのは、あの人だ。女の人だ。
**
二〇一七年三月二四日
シティ図書館にて、本が盗まれた模様。盗まれたのは、「ヴォイニッチ手稿」と呼ばれる書籍一冊のみ。ヴォイニッチ手稿は、現在まで文字の解読がなされていない書籍で、どのような内容が記されているのか、一切解読不能。犯人が何のために盗んだのか、犯行理由も分かっていない。目撃者の証言では、犯人は全身緑色の怪人のような姿をしていたとのこと。おそらく、正体を隠すための変装か何かではないかと予想される。――ユートピア新聞より一部抜粋――
あの日、ディアナとマルキは行きつけのバー、ウルフにいた。ウルフは地下にあるバーで、部屋は電気を付けず、全てキャンドルの明かりで照らされている。この日も、ディアナは酒をくれ、酒をくれと、勤務時間中から呟いていた。なんでも、好きなバンドのボーカルが結婚したらしい。飲んでないと、精神が持たないというような勢いだ。
二人は正方形の木製テーブルに、向かい合って座っていた。マルキは黒と灰色のチェックのシャツを着ていた。ディアナは白いシャツに黒いカーデガンを羽織っていた。
マルキはビールを飲んでいた。ディアナはマッコリをメニュー表の上から順番に頼んでいき、既に三杯目を飲んでいた。そのときディアナが手に持っていたのは、マッコリカシスだ。
「マッコリとカシスって合うの?」
と言うマルキの質問を無視するほど、ディアナの心は沈んでいた。
「ああ、どうして結婚してしまったの、ブルース」
マルキはため息をついた。
「はあ。バンドのボーカルだろ? それって他人じゃん。他人の結婚で一喜一憂してたらキリがないぜ。だいたい、一日に何組のカップルが結婚してると思ってるんだ」
「……」
ディアナはマッコリの入ったグラスを置き、うつむいた。しまった、少し言い過ぎたかな。だが、ディアナはすぐにその顔をあげた。青い瞳に、光が戻っている。先ほどまでは、死んだ魚のような目をしていた。機嫌が戻ったか? 酒が効いてきたか?
「マルキくん。慰めてくれてありがとう」
「え? あ、うん」
マルキは慰めたつもりなど一ミリもない。
「あなた、見た目に反して賢いのね」
「ほんとに感謝してるのか?」
「そうだわ。一日に何組ものカップルが結婚する。けれど、その逆もしかりよ。一日に何組もカップルが破局するわ。離婚するのよ。そう、ブルースだって、離婚しないとも限らないわ」
予想の斜め上をいく希望の持ち方に、マルキはあっけにとられた。
「おい、あんまりでかい声で言うなよ」
店の中に離婚経験者がいたらどうするんだ。マルキの心配はそれだけだった。全く、酔っぱらっているのか、落胆の末に気がおかしくなったのか、果たして区別がつかない。
「マルキくん、話は変わるけれど、図書館で盗難事件があったのは知ってる?」そう言った後、ディアナは近くを通りかかった女店員を呼び止めた。「すみません、ぶどうマッコリひとつ」
「いや、知らないな」
「あなた、新聞を読みなさい。警察なんだから」
「うん。で、どういう事件なんだいそれは」
「シティ図書館で、一冊の本が盗まれたの。それは、ヴォイニッチ手稿って呼ばれるもので、なんでも、解読不能で、この世の誰も読むことができないの」
「それって紙ゴミじゃん」
「そう、私が気になるのはそこなの。誰も読めやしないのに、わざわざ盗むのかしら。盗んだ犯人だって、きっと読めないでしょう」
「コレクターじゃないのか? 未解読の本を集めるのが好きな、変わったコレクターだ」
「そうだと良いけど、なんだか私、胸騒ぎがするわ」
「へえ。やばい事件って感じがする?」
「ええ」
マルキは、額に手を当てた。
「参ったな。君の勘はよく当たるから」
そうこう話しているうちに、すっかり夜も更けてきた。二人は店を後にしようと席を立ち、カウンターへ向かった。すると、二人よりも前に、黒髪の女性が支払いをしていた。だが、カバンの中を何度も探って、立ち往生している。「あら? あら?」
マルキは、この女性は、どうやら財布を忘れたのかなと思った。そうして、なぜそんなことをする気になったのか分からないが、そっと、銀色のトレーにお札を置いたのである。
「これでお勘定してください」
黒髪の女性は、マルキの顔を見上げた。女性にしては背が高い。マルキの方がもっと高いが。
「あら、いいの?」
「ええ、タダ飲みするわけにはいかないでしょう」
「ありがとう。紳士さん。どこかで恩返しするわ」
そう言うと、女性は背伸びして、マルキの頬に唇を当てた。
「え、あの、恩返しは今ので十分です!」
マルキは顔を赤くした。その後ろで、
「まあ。紳士なんてガラじゃないわよこの男」
などとディアナが小言を言っていた。
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そうだ、あの時だ! マルキは思い出した。
「バー・ウルフで出会った人か!」
「そうよ! 思い出した? きっとあの人に違いないわ」
「確かに、キスが同じ感じだった気がする」
マルキはそう言いながら、頬に手を当てて、思い出していた。自然と顔がニヤける。
「バカなこと言ってんじゃないよ」
ディアナはその手を払いのけた。
「何も払いのけることないだろう」
「ねえ、張り込みしましょうよ。バー・ウルフに行けば、またあの人に会えるかもしれないわ。もしかしたら、明日の会議までに、新しい情報が手に入るかもしれない」