夫婦(3)
それからの日々は、穏やかに過ぎていった。
クローディアはリアンを支えられるようにと自らも勉学に励み、公務だけでなく慈善事業も始め、お飾りの王妃でないことを国中に知らせしめた。
また、リアンは王族としての教育を受けずに育った王子だったが、これまでの遅れを取り戻すかのように精力的に励み、学び、全てに耳を傾け、決して努力を惜しまなかった。
ひとつを叶えるためには何が必要なのか、そのためにはどうすればいいのか。常にその志でいた新しい国王は、誰もに好かれた。
そして、のちの史書ではこう記された。
陽色の賢王・ヴァレリアン一世、と。
──ふたりのもとに新しい命が宿ったのは、即位してから半年後のことだ。
中々子を授かることができなかった王妃を余所に、政務官たちは他にも妃を迎えてはどうかと進言したが、リアンは決して首を縦に振らなかった。
それだけでなく、妻は生涯クローディア唯一人と公言したのである。
この先、子を授かれないまま国王の身に何かあったらどうするのかと懸念されていたが、それは杞憂に終わった。
かつては病弱な皇女だった王妃だが、順調に腹の中で命を育んでいったのである。
◇
クローディアが産気づいたのは、産み月を迎えてすぐのことだった。
懐妊してからも変わらず、共に同じベッドで眠りについていた二人は、その日も今日の出来事や明日のことなどを話していた。
そんな最中に、クローディアの下半身に生温い感覚が走ったのである。
「───い、痛い…かも…」
「………え?」
「痛いかもしれないわ…いや、い、痛いわっ…」
話している途中で、突然クローディアがそんなことを言うものだから、リアンはベッドから跳ね起きた。
クローディアは痛みに顔を顰めながら、背中を丸めてお腹を抱きしめている。
リアンは急いで明かりを灯すと、侍従を呼ぶベルを掴んで物凄い勢いで鳴らした。
もういつ産まれてもおかしくないとは聞いていたが、まさかいつも通りに話している時に訪れるとは。
リアンは大慌てで駆け込んでくる使用人たちとクローディアを交互に見ながら、どうしたらいいのかと慌てた。それはもう、痛みで呻いているクローディアに怒鳴られ、追い出されるほどに。
「───男って、こういう時は何もできませんね」
産気づいたクローディアに部屋から追い出されたリアンは、部屋の前を行ったり来たりとしていた。そこにはリアンの他に、たまたま王国を訪れていたローレンスがいる。
「我々男には唯一できないことだからね。命を育み産むことは」
「ああ、どうしよう…ディアに何かあったら…」
「落ち着きたまえよ、ヴァレリアン陛下」
「落ち着いてなんかいられませんよ。ディアは苦しんでいるのに、俺は祈ることしかできないんですから」
「……祈るというか、徘徊しているというか」
苦笑をしているローレンスも、落ち着きのないリアンも、ふたりとも時刻が夜中だったのもあり寝間着姿だ。
破水して陣痛が来た時に現場にいたリアンはともかく、客間にいたローレンスには最低限の身支度をする余裕はあったはずだが、やはり妹が心配だったのか、お洒落な寝間着姿のまま駆けつけている。
「……ディア…」
不安で心配で仕方がないという顔をしているリアンの肩を、ローレンスはそっと抱き寄せた。
「そんな顔をしないでくれたまえ。ディアはこの僕の妹だ。無事に元気な子を産んでくれると信じよう」
「……そうですね」
リアンはゆっくりと深呼吸をすると、子と対面するのに寝間着のままではいけないと思い、侍従に命じて近くの部屋でローレンスと共に着替えるのだった。
◆
「──王妃様、息を止めてはなりません!」
「クローディア様っ…!」
夜中に産気づいたクローディアは、咄嗟にリアンを部屋の外に追い出してから、凄まじい痛みと闘っていた。
みっともない程に呻いていたが、傍にいるアンナがクローディアの手を握り、背を摩り、励ますように声を掛け続けてくれていた。
お腹の子を授かるまで、自分は子を産めない身体かもしれないとリアンを不安にさせたこともあっただろう。
王妃の役目は、世継ぎを産むこと。そのために他に妃を迎えてはどうか、王に勧めてはどうかと政務官に話をされたこともあった。
だけど、それだけは嫌だった。
王妃の務めは分かっていたけれど、リアンが見つめるのも触れるのも自分だけがいい。リアンの子を産むのも自分だけがいいのだ。
口には出せなかった我が儘を、リアンは知るはずもないのに。
即位してから三ヶ月が経った頃、優しく微笑いながら、妻はクローディアだけだと約束してくれたのだ。
「頭が出ましたよ!王妃様ッ!!!」
「っあああああ───っ!」
「クローディア様ッ!白銀色の髪ですッ…!!」
──白銀色の髪。自分と同じ、髪の色。もうどこにもいない、あの子と同じ色。
アンナの涙声で意識が鮮明になったクローディアは、力を振り絞り、本能のままにありったけの力をこめた。
───元気な王子さまです。
アンナがそう叫んだのと、乱暴に扉が破られたのは同時だった。産婆が国王相手に怒鳴る声をぼんやりと聞きながら、クローディアは左手に灯った熱を辿るように顔を動かす。
「ディア、無事でよかったっ……」
駆け込んできたリアンは、見たこともない顔をしていた。泣いているけれど笑ってもいて、ぐちゃぐちゃだ。
「……リアン。抱いてあげて」
リアンはクローディアの額に口づけを落としてから、赤子を受け取った。慣れない手つきで抱き上げると、クローディアにも顔が見えるようにと寄せてくる。
生まれた子は、白銀色の髪の男の子だった。
そして、薄らと開かれた瞳の色は──…
「……リアンと同じ、瞳の色ね」
美しい青色の瞳を見て、クローディアは泣き笑いをした。
髪色以外はリアンにそっくりな男の子だ。きっと、リアンに似て強くて優しい子に育ってくれるだろう。
「──お疲れ様。よく頑張ったね、ディア」
定例会で王国に来てくれていたローレンスも駆けつけてくれたのか、リアンと赤子と三人だけのひと時を過ごした後、顔を出してくれた。
クローディアは微笑みながら、ローレンスの腕に赤子を抱かせた。
「おお、赤子を抱くのはディアが生まれた時以来だ…」
ローレンスは嬉しそうに抱き上げると、赤子の顔を覗き込んで、それから何度か瞬きをした。
「どうかなさったの? 兄様」
「……いや。なんだか初めて会った気がしなくてね」
「お腹に話しかけていたからかしら?」
そうかもしれないね、とローレンスは笑うと、赤子の額に口づけを落とした。
「はじめまして、僕はローレンス。君の伯父上だよ」
生まれたばかりの赤子の目に映る世界はぼんやりとしているとローレンスは分かっていたが、自分を認識してくれたような気がしていた。
「君にはどんな名が贈られるのだろうね。たくさん食べて、たくさん遊んで、幸せいっぱいになるんだよ」
「ふふ、兄様ったら。まだお乳しか飲めないわよ」
今この瞬間、幸福で満ちているこの場所は、かつてクローディアが命を落とし、駆けつけたローレンスが看取った部屋でもあった。
だが、ふたりがそれを知る日は、もう永遠にこない。
▼
目を開けるとそこは、知らない場所だった。
なんだか天井が遠くて、左右には木製の柵があった。
動かした手足はとても小さくて、何も掴めそうにないし、立つことすらできない。
仕方なく声を出してみると、それは言葉にさえなっていなかった。
一体自分の身に何が起こっているのか。状況を確かめる暇もなく、癖のある茶色の髪を束ねた女性が、玩具を持って駆け寄ってくる。
「お目覚めですか?王子さま」
女性は自分を抱き上げると、くんくんと下の方に鼻を近づけてきた。
「うーん、おしめは大丈夫そうですね。お腹が空いているようでもないですし」
──…どうやら自分は小さくなってしまったようだ。
これは夢だと思うことにしたが、女性の手が温かくて、泣きたくなるくらいに優しかったから、現実であることは分かった。
ここはどこで、自分は誰なのか。
「あーー、うー」
「ふふ、退屈ですよね。それじゃあ行きましょうか」
女性は自分を抱きながら歩き出した。部屋の外に出ると、すれ違う人たちが頭を下げてくる。
さっき、女性は自分を“王子さま”と呼んでいた。ならばきっと、自分は小さかった頃に──過去に戻っているのだろう。
記憶の中に、目の前の女性はいなかった気がするけれど。
女性は目的地にたどり着いたのか、一際大きくて立派な扉の前にいる人に声をかけた。すると、ゆっくりと扉が開いていく。
「──失礼いたします。国王陛下、王妃さま」
女性は軽く一礼してから、部屋に入った。そして、部屋の中央に佇んでいる、青いマントの人の元へと進んでいく。その隣には、同じく青いドレスを着ている女性の姿がぼんやりと映った。
身体が小さいからか、よく見えない。
「おはよう。よく寝ていたね」
優しい声が耳を打つ。近づいてきたのは青いマントの人だ。近づいてきた顔を見たら、思わず声を上げてしまった。
「うんうん、今日も元気だね。こっちにおいで」
青いマントの人は自分を抱き上げると、青いドレスの女性の元へと連れて行った。
その女性は、言葉にならないくらいにとても美しい人で。
「うー…あーー、あー」
「おはよう。珍しく今日はお寝坊さんね」
白銀色の髪が、風に揺られている。
自分を見つめる優しい瞳は、菫色で。
自分を抱いている人は、眩い光のような髪の人で。
そのふたりが誰で、自分の身に何が起こっているのか理解した途端、ただただ嬉しくてすべてが震えた。
「まあ、怖い夢でも見たのかしら」
力いっぱい泣き出した自分を、女性は優しく抱き上げ、ゆすり始めた。
「きっとそうなんだろうね。よしよし、泣かないで。──アルメリア」
言葉を話せないから、ただ泣くことしかできない。
優しく見つめるふたりの指を両手で握りしめながら、僕はひたすらに泣き続けた。




