夫婦(2)
多忙な一日を締めくくるのは、近親者だけを招いた食事会だった。
参加者はルヴェルグ、エレノス、ローレンスとクローディアの伯父であるラインハルト。元宰相でありクローディアを実の孫のように見守ってきたロバート伯爵。そして、太皇太后──クローディアの祖母である女性・ティターニアだった。
この日のために王宮の料理人たちが腕を奮った御馳走を前に、一同は主役を囲むようにして席についた。
「──ヴァレリアン国王、クローディア王妃。無事にこの日を迎えられて嬉しく思う」
一番にグラスを掲げ、そう声を発したのはルヴェルグだった。二人と向かい合う席にいるルヴェルグは、誇らしげな笑顔で二人を見つめている。
リアンはルヴェルグに倣うようにグラスを持つと、緩々と顔を綻ばせた。
「ルヴェルグ皇帝陛下。我が国のために尽力してくださり、ありがとうございました」
「そなたは私の義弟なのだから、当然のことだ。今後も困ったことがあったら、いつでも遠慮なく声を掛けてくれ。私に叶えられることなら何でもしよう」
大陸一の国力を持つ国の君主からそのような言葉を頂けるとは、なんて贅沢で恵まれているのだろう。と、リアンは胸がいっぱいになるのを感じながら、全員の顔を見渡した。
この場にいる人たちは、リアン以外全員帝国の人だ。長い歴史の中で、王国は常に帝国の機嫌を伺い、遜ってきた。
そんな付き合いをしてきた相手である帝国の要人たちが、揃いも揃って王国で食卓を囲んでいる。先祖が知ったら、さぞや仰天することだろう。
まさか自分が縁を結ぶことになるなんて、思いもしなかった。
リアンはワインを手に持ったまま、ゆっくりと立ち上がる。
「──皆さん。この日を迎えるまで、我が国に力を貸してくださりありがとうございました。私は国王になりましたが、私にはそのために必要な経験も知識も、どの先人たちよりも持っていないでしょう。……ですが」
リアンは隣にいるクローディアへ、空いている方の手を差し出した。
クローディアは驚いたような表情をしていたが、すぐに微笑んでリアンの手を取り、優雅に立ち上がる。
リアンはクローディアの瞳を見てから、前を見据えた。
「この場を借りて、誓わせてください。我が国の民が、私を王にと望んでくれる限り、私は王で在ります。どんな努力も惜しまず、国のために、民のために尽くします。──クローディアとともに」
「………リアン…」
凛とした表情で、胸を張ってそう言い放ったリアンを見て、クローディアは誇らしく思うと同時に、目の奥が熱くなっていくのを感じた。
リアンの瞳が再びクローディアを映す。そこに映るクローディアは今にも泣きそうな顔をしていたが、リアンが優しく微笑いかけると、つられるように破顔した。
◇
夜空に聳える月が瞬いている。淡い光を放つそれは、闇に覆われた刻を照らす陽だ。
そんな美しい満月を見上げていたクローディアは、今は透けるような白い衣装を身に纏い、リアンの訪れを待っていた。
今夜、クローディアはリアンと初めての夜を過ごすことになる。
これまで夫婦として共に暮らしていたが、肌を重ねあわせたことは一度もない。
あるのは「そばにいさせて」という言葉とともに贈られた、優しい口づけだけだ。
クローディアは今自分がいる部屋を見回した。
ここは王族が初夜を迎える時にだけ使われる部屋だ。真っさらな色のベッドが一つと、大きなガラスの窓がある殺風景な空間。
リアンは即位前に前国王とローレンスらと共に、ありとあらゆる慣習を撤廃させていたが、これだけは無くすことができなかったらしい。
王国の慣わしで、死者のみが纏うとされている“雪色”のこの空間は、共に朝を迎える夫婦が、死を分かつその日まで共に生きるという誓いを立てるような意味合いがあるそうだ。
遥か遠い昔から、この国の王とその跡を継ぐ者たちが妻と初めての夜を過ごす場所である。
クローディアはここに来たことがある。時を遡る前に、フェルナンドの妻になった日にだ。
思い出したくもないことなのに、この真っさらな空間にいると、嫌なことばかり頭に浮かんできてしまう。
クローディアは苦い記憶を振り払うように目を閉じて、シーツを力いっぱい握りしめたが、それらに効果はなかった。
──『侍女に手を出されたくなければ、帝国の後ろ盾を持つ王子を産め。そうしたら貴女はもう用済みだ』
冷たい声が、頭に流れ込んできた。忘れたいと願っても、忘れようとしても、リアンの優しい笑顔を浮かべても、こびりついていたのか、黒い影が近づいてくる。
消えない。
夜色の髪が、青い瞳が。
白い指先が、伸びて。
「───ディア?」
「────っ、」
クローディアは静かに息を呑んだ。反射的に開いた目の先には、自分と同じく白色の服を着ているリアンが立っている。
たった今部屋に着いたのか、リアンの後方にある扉が閉まるのが見えた。
「……リアン」
「うん。遅くなってごめん」
急ぎの書類を確認して判を押してきたから遅くなってしまったとリアンは語ると、クローディアの隣に腰を下ろした。
不思議なことに、リアンの顔を見た瞬間に黒いものは晴れたように消えていた。
顔も、声も、あの男の目の色も、肌の感触も、リアンに見つめられた瞬間に、綺麗さっぱりいなくなっていた。
不思議なものだ。握りしめていたシーツには皺が残ってしまったが、クローディアの心は朝が来たような柔い静けさを取り戻していた。
リアンはシーツが擦れる音でクローディアがそれを握りしめていたことに気付いたのか、汗ばんだクローディアの手を握る。そして、何かを確かめるような面持ちでクローディアを見つめた。
「………怖い?」
「……え…」
「触れられるのは、怖い?」
クローディアは返事の代わりに首を横に振って、反対側の手をリアンの手に重ねた。
シーツを握りしめていた手を、リアンは包み込んでくれた。その手に自分の手を重ねたのは、リアンと同じ気持ちでいるという意思表示だ。
「……怖くなんてないわ」
それは、相手がリアンだからだ。
いつだって真っ直ぐに想ってくれていた貴方だから。貴方になら、と。
リアンは気恥ずかしそうに微笑うと、もう片方の手でクローディアの肩を優しく押し、共にベッドに沈み込んだ。
その拍子にすり抜けた手は、クローディアの指先に絡んだ。約束を結ぶように、優しく。
熱い指先が、クローディアの頬をなぞる。首筋、鎖骨、二の腕へと動きながらゆっくりとクローディアの柔らかい身体を撫でていく。
クローディアが反射で唇を開きかけた時、それを封じるかのようにリアンは唇を優しく塞いだ。
三度目の口づけは、とても熱かった。
その後、リアンはじっくりと長い時間をかけて、クローディアを溶かしていった。いつどこで知り得たことなのかと思う暇もなく、繊細な指先の動きに息も絶え絶えになりながら、クローディアはリアンの腕の中で意識を手放した。
リアンは薄らと汗が滲むクローディアの肌を撫で、その額に口づけを落とす。ルヴェルグやエレノス、ローレンスが親愛の証としてしていたように。
リアンは密やかに用意していたものを取り出すと、眠りについたクローディアの手を取り、薬指にそれを嵌めた。
自分の瞳と同じ色の宝石が嵌め込まれているそれは、帝国で夫婦となった者たちが昔から交わしてきた慣例のようなものだ。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたのもの。そういう意味合いを目に見える形として現したものだそうだ。
リアンは自分の薬指に嵌めた菫色の宝石を見つめながら、瞼を下ろした。
クローディアが左手の薬指の輝きに気づいたのは、翌朝のことだった。
「───これって……!」
クローディアが驚く声で、リアンは目を醒ました。
身体は辛いはずなのに、生まれたままの姿でいることも忘れ、クローディアは目を輝かせながら左手を見つめていた。
「……驚いた?」
「ええ、とっても!」
クローディアは余程嬉しかったのか、満遍の笑みでリアンに左手を見せてきた。それからリアンの左手も覗き込むと、少女のように嬉々としている。
王国の君主であるふたりが、帝国の慣習に倣う必要はない。だが、クローディアが祖母であるティターニアと顔を合わせていた時、ティターニアの左手で輝いていた指輪を見て、羨ましそうにしているように見えたのだ。
あの指輪はどのようなものなのか。そうリアンがローレンスに尋ねると、ローレンスは笑って帝国の夫婦について教えてくれた。
それは素敵なことだと思ったリアンは、すぐに指輪を用意させ、初夜で贈ろうと考えていたのだ。
「……喜んでくれて嬉しいんだけど、その…服を着ない?」
というより着てほしい。目のやり場に困る。ぼそぼそとリアンが呟くと、クローディアは顔をぱっと赤くさせ、頭から毛布を被ってしまった。
リアンは声をあげて笑ってから、強い光が差し込む窓へと目を向けた。
朝陽はとても眩しかった。




