夜明(4)
懐かしい匂いと温もりに、クローディアは声を上げて泣きたくなった。エレノスも同じ想いなのか、クローディアを抱きしめる腕は微かに震えている。
数えればそんなに経っていないことは分かっていたが、随分と会っていないような気がした。
「おにいさまっ…!!」
「ディア、無事でよかった…」
エレノスはクローディアの無事を確かめると、すぐに腕をほどき、フェルナンドを見据えた。
「──フェルナンド殿下。そこまでにして頂きます」
「私を裏切るのですね、エレノス閣下」
すっかり気力を失ったような顔をしているフェルナンドは、へらりとだらしなく笑っている。そこにクローディアを愛していると言って咽び泣いていた男の面影はもうない。ただ面倒くさそうにこちらを見ていた。
「貴方が描く明日に、幸せそうに微笑んでいるディアはいないと思うのです」
「…………」
「私は愛する人が愛するものを守りたい。──誓ったのです、この子の小さな手にはじめて指を掴まれた日、何に代えても守り抜くと」
言いたいことを全て言い終えたのか、エレノスはクローディアに向き直る。その表情は憑き物が落ちたように晴れやかで、一切の迷いも感じられなかった。
「すまない、ディア。私は間違っていた」
嘘か真か定かでない話を、同情心から鵜呑みにしてしまったこと。誰にも何も相談せずに、自分の立場を忘れて行動してしまったこと。家族を危険な目に遭わせてしまったこと。
そして、何よりも大切にしなければならないものを、忘れていたこと。
エレノスはひとつひとつ謝ると、クローディアの頬に手を添え、額に柔らかな口付けを落とした。
「…………どいつもこいつも」
その時、再会を喜ぶ兄妹の背後で、地を這うような声が落とされた。内容まで聞こえていなかったクローディアは、エレノスと共に振り返り──そして大きく目を見開いた。
「──死ねッ!クローディア!!」
隙を突いて、拾ったのか。アルメリアによって手元から離れたはずの剣が、再びフェルナンドの手に握られていた。それは真っ直ぐに、クローディアを目掛けて突き出されている。
咄嗟にエレノスがクローディアを抱きしめ、同時に騎士が駆け出すのが見えた。
だが、兄の背中越しに見えていたフェルナンドの前に立ちはだかったのは、アルメリアだった。
「あ…あ……アルメ、リア…」
ぱたぱたと地面に赤が散った。フェルナンド以外の人間は、呆然とそれを見ていた。
「……もう、おやめください…」
フェルナンドの刃を受けたアルメリアは、腹部に突き刺さる剣の柄に手を添えながら、覚束ない足取りでフェルナンドに近づいた。
そして腰に差していた短い剣を抜くと、勢いよくフェルナンドの胸に突き立て──そのままフェルナンドと共に地面に倒れ込む。
「うあああああああああ!!」
フェルナンドは荒ぶる感情を吐き出すような、恐ろしい叫び声を上げた。その両眼からは啖呵を切ったように、大粒の涙が溢れている。
アルメリアを刺し、そしてアルメリアに刺されたフェルナンドは、ごほごほと口から血を吐きながら、泣いていた。
そんなフェルナンドを、アルメリアは哀れむような目で見つめていたが、フェルナンドの呼吸が不規則になったのを機に、ふらりと立ち上がった。
かつて父だった男を見下ろす目には、涙が浮かんでいる。
「……あなたは、愛されたかったのでしょう? お父上に、お母上に……母上に、私に」
「……わた……は…」
「…ですがもう、全てが遅いです。人を人として扱わず、己の思うがままに好き勝手にした報いだと、思ってください」
最後の最後まで父と呼ばなかったアルメリアに、フェルナンドは何も言わなかった。その唇は何かを紡ごうとしていたが、それが声となり音となることはなく、フェルナンドは動かなくなった。
事切れるのを一番近くで見ていたアルメリアの身体が崩れるのと、二人が駆け出したのは同時だった。
白銀色の美しい髪が、その衝撃でまばらに散る。
血を流しすぎたのか、蒼白な顔で苦しげに呼吸をしているアルメリアは、駆け寄ってきたクローディアを見ると口元だけで笑んだ。
「………よかった。お守りできて」
ふう、とアルメリアは息を吐く。泣き出したクローディアの涙を拭いたいのか、手を伸ばしたが──寸前のところで沈んでしまった。
アルメリアは自身を抱き止めてくれたエレノスに目を移すと、眩しそうに目を細めた。
「……もう一度お会いすることができて、よかった」
自分の腕の中にいる少年は、今日初めて会う人だ。だというのにまた会えて嬉しいと笑う少年の名を、エレノスは知っていた。だが口にすることはできなかった。
本来ならばここにはいるはずのない存在だから。
「……あちらの世界の私は、過ちを犯していないだろうか」
アルメリアは頷く代わりに一度だけ瞬きをすると、この上なく幸せそうに笑った。それが答えのようだ。
「……、………」
アルメリアの唇が動く。それが母上、と奏でようとしていたのを涙ながらに見ていたクローディアは、アルメリアの頬に手を添え、目一杯笑った。
「逢いにきてくれてありがとう…。愛しているわ、アルメリア」
あいしている。その言葉を贈られたことが何よりも嬉しかったのか、アルメリアはほんのひとときだけ目を見張ると、菫色の瞳から涙を零し、そうして瞼を閉ざした。
その瞬間。その一瞬、辺り一面が光に包まれた。目を開けていられない強い光に、誰もがぎゅっと目を閉じて、瞼の向こうが鎮まるのを待った。
そして、目を開けた先。そこに白銀色の髪の少年の姿は跡形もなく、兄妹の膝元に一輪のアルメリアの花が残されているだけだった。




