夜明(1)
帝国一美しい城と謳われているヴィクトリア城は、ロバート領の最南端にある。ロバート領はオルシェ領の北にあり、その西隣にはジェラール公爵領があった。ロバートとジェラールは代々帝国の北側の国境を共に防衛してきた間柄である。
背には険しい山々があり、オルシェと領を分かつ堺に巨大な湖があるその城には、皇帝の祖母であるティターニア太皇太后が移り住んでいた。
「──何ですって?」
寒々しい気候でも元気に咲く花を窓越しに愛でていたティターニアは、侍従からの報告に驚き、手からカップを滑り落とした。ガラスが粉々に砕け散る音が、大理石の床で音を立て響き渡る。
溢れた中身がドレスの裾を濡らしたが、ティターニアは気にも留めずにドレスの裾を持って部屋を飛び出し、長い階段を駆け降りた。
その先では報告通りの人物が佇んでいた。
「──お久しぶりですね、お祖母様」
「ローレンスっ…!? いやだわ、貴方、どうしてそんな格好で!」
ティターニアの元を訪れてきたのはローレンスだった。前触れもなく来たどころか、髪は乱れ服は汚れ、ボロボロの姿である。人の三倍お洒落に拘っていた孫の驚くべき姿を見て、突然の訪問の理由を尋ねるどころではない。
「いやぁ、これには理由がありまして」
「理由があることくらい分かっているわよ! 頭からつま先までヘンにこだわってた貴方が、すっとこどっこいな格好で来るんだもの! すぐに準備をさせるから、お湯に入りなさい!」
「そんなことはいいのです!僕はお祖母様に力を貸して頂きたく、ここに来たので!」
慌てふためくティターニアに向かって、ローレンスは膝をついて頭を下げた。急いできたのかローレンスは肩で息をしており、よく見たら手や首には擦り傷のようなものがある。
初めて見るその姿に更に驚いたティターニアは、大きく息を吐くとローレンスの肩をそっと叩き、立つよう促した。
「お立ちなさい。話はそれからよ」
ローレンスは節々の痛みに顔を顰めながら立つと、ティターニアの翠色の双眸を見つめながら口を開いた。
「──オルシェの国境に、三国とオルヴィシアラの合同軍が現れました。ジェラール家に援軍の要請と、お祖母様には兵を率いて頂きたいのです」
ティターニアは息をするように顔色を変えた。祖母の顔から、かつて剣の后と呼ばれた女の顔へ。
「イザーク!」
ティターニアはそう声を張り上げると、不思議な音の笛を吹いた。するとどこからやって来たのか、天井窓から一羽の白い鷹が舞い降りる。この鷹がイザークのようだ。
「ジェラール家には最速で伝令を送るわ」
ティターニアは侍女に紙とペンを持って来させると、すらすらと紙にペンを滑らせ、太皇太后の紋章印を押した。それを鷹の脚に括り付けると、また笛を鳴らして鷹を飛ばした。さっきとは違う吹き方だ。
飛び立った鷹を見送ると、ティターニアは今一度ローレンスを上から下まで眺めた。
ローレンスが嘘を言っているようには見えないし、嘘を吐く人間ではない。だが信じられないのだ。平和を築くと約束した国々が攻め込んできているなど。
「見たところ、単身でここまで来たようね。一体何があったの?」
ローレンスは血が滲む勢いで唇を噛み締める。何から話すか、何から話すべきか。順を追う時間などないのに、この短期間で多くのことがありすぎた。
そんなローレンスの心情を察したのか、ティターニアは安心させるように優しく微笑みかける。
「お祖母様はいつでもいつまでも貴方の味方よ。だから話してごらんなさい、私の可愛い孫よ」
ローレンスは変わらぬ祖母の温かさに安堵したのか、自身が見てきたことを語っていった。
「僕はエレノス兄上に拉致され、王国の塔に軟禁されていました。暴力は振るわれていませんが、兄上は思い詰めた様子で……ルヴェルグ兄上に玉座を退いて頂く、と」
「そう。それで?」
「知人に救出され、城に戻る途中でオルシェと王国の国境で大軍を見たのです。それでジェラール家に援軍の要請と、お祖母様に出陣をお願いしたく思い、ここに参りました」
ティターニアはもう一度ローレンスを上から下まで見た後、紫色の瞳を見つめ返した。
ローレンスは幼少期より次期皇帝に相応しい優秀な皇子だと誰もに賞賛されていた。本人もそのつもりだったのか、文武ともに努力を怠ることなく、懸命に励んでいたのをティターニアも見ている。
だが、今はひとりの皇弟に過ぎず、その職務は外交だ。戦を経験したことも軍の指揮をしたこともないローレンスが、単身ティターニアの元に来るなり、挙兵を願い出たことに驚きを隠せないのだ。
ティターニアが実践経験のある皇后であったことは、この国の誰もが知っている。だが今は引退の身だ。最後に兵を率いたのはもう昔のこと。
そんな自分に、力を貸してくれとやって来た孫に、何と返すべきか。何を返すべきか。
「……しばらく見ない間に、立派になったこと」
ティターニアは息子に似ても似つかないローレンスを見て、唇を綻ばせた。
ローレンスは親兄弟に似ていないが、祖母のティターニアに性質が似ていた。すぐに行動に移すところや、嘘を吐けないところが。
「ローレンス、ひとつだけ聞かせてくれる? ジェラールへの援軍の要請と私に逢いに来たのは、貴方自身が考えた選択かしら」
ティターニアからの問いかけに、ローレンスは笑って首を左右に振った。
「いいえ、お祖母様。これは不思議な出逢いをした“友”が、僕に進言してくれたことです」
正直者なローレンスの答えに、ティターニアは思わず目を見張ったが、すぐに破顔した。
──貴方の願いに応えましょう。そう言って、ティターニアはローレンスを一度だけ抱きしめると、緊急時に鳴らす金の音を城中に響かせたのだった。




