残月(5)
皇女を誘拐した隣国の王太子を引き入れたのは、皇帝に次ぐ地位にあるエレノスだ。
目的も告げずに隣国へ行ったかと思えば、護衛にしては数が多い騎士を連れた王太子と共に、堂々と城に戻ってきた。そして皇女が人質に取られ、国境では隣国を筆頭に合同軍が進軍してきた。
妹を守りたい、フェルナンドの願いを叶えたい。その望みのために歩き出したエレノスが掴んだのは、予想だにしなかった未来なのだろう。
去り際のルヴェルグの問いかけに、己が起こした事の重大さに気付いたのか、エレノスはふらりと立ち上がる。
「エレノス様…!」
傾いたエレノスの身体を、リアンは咄嗟に支えた。不安げに揺れる大きな青い瞳を見て、何かを重ねたのか──エレノスは髪を掻き上げながら力なく微笑う。
「……殿下…」
吐息のような声は掠れ、枯れた花のようだ。その花に慈雨となって潤いを与えていたのは、クローディアの存在なのだろう。
「ディアが、心配しています」
「大罪を犯した私を、あの子は兄と呼ぶだろうか」
己の過ちの所為で、クローディアは今この瞬間も命を脅かされている。妹だけでなく、この国に悪いものを招き入れてしまったというのに、ルヴェルグはエレノスを捕らえなかった。
その理由を探し求めるように、エレノスはリアンを見つめた。
リアンの深い青の瞳からは、もう迷いも恐れも感じられなかった。出逢ったばかりの頃は、不安げに揺れてばかりだったというのに。
「変わらず呼び続けると思います。ディアはエレノス様を、心の底から大切に思っていますから」
リアンの力強い言葉は、迷いや不安に揺れていたエレノスの心をまっすぐに射貫いた。淀めきかけていた菫色の瞳に、一筋の光が灯る。
エレノスは静かに息を吸い込み、そして吐ききると、リアンの美しい瞳を見つめながら口を開いた。
「フェルナンド殿下に、君といるとディアは不幸になってしまうと聞いたんだ」
ふたりは時を遡ってきたこと。そしてリアンの手によってころされたこと。何の根拠もない馬鹿げた話だと思ったが、フェルナンドの涙を見て信じてしまったのだとエレノスは改めて語った。
「…だからその前に、手を打とうとされたのですか」
リアンがそう静かに尋ねると、エレノスはゆっくりと頷いた。
「……ああ。私が愚かだったばかりに、結果としてディアをあんな目に遭わせてしまった」
嗚呼、とエレノスは崩れ落ちる。その姿は宝物を取り上げられた子供のようで、幼い頃の自分を重ねて見ているようだった。
あの頃の自分は、どうして生きているのか日々自分に問い、誰もが自分を悪魔の子だと囁き、罵っていたが、今は違う。
守るために必要な力は、クローディアとの出逢いがくれた。
だから今は自分に出来ることをしようと思う。王太子であるフェルナンドではなく、自分を選んでくれたクローディアに恥じないように。家族として迎えてくれた義兄たちに、誇りに思ってもらえるように。
リアンはルヴェルグのように片膝をついてエレノスと目を合わせると、いつだって優しかった義兄の手に自分の手を重ねた。
「その黒装束を、俺に貸してくれませんか」
「……なぜ、これを…」
「必要なのです。俺が俺に出来ることをしに行くために」
頬を撫でるような優しい風が、リアンの髪を揺らした。その青い瞳に映っているのはエレノスだが、リアンはもっと遠くを見ているようだった。
エレノスは静かに息を吐くと、黒色のケープコートを脱いだ。膝下まである長さのこのコートは、フェルナンドから同志の証にと贈られたものだ。同じものを王国の王族も持っているという。──ただひとり、リアンを除いて。
王族に生まれながら、王族として扱われず、フェルナンドの気分次第でいつ殺されるか分からなかった王子が、この黒装束を求めた。その道の先には何があると言うのか。
「俺の代わりに、ディアを助けに行ってくれませんか」
リアンは受け取ったコートを羽織りながらそう言った。
予想外のことを言われたエレノスはリアンを凝視した。
「ディアよりも、優先するべきことがあるのかい…?」
リアンは背を向けたまま頷くと、腰に剣を差した。それを抜いたところをエレノスはまだ見たことがない。
「……本当は、全部投げ出して、助けに行きたいです。でも、ディアはきっとそれを望まないと思うので」
「反帝の大軍はまだ国境にいて、この首都にすら辿り着いていないというのに……君は、ディアを救いに行かないと言うのか」
リアンはエレノスを振り返ると、凛とした表情で頷いた。
「俺はディアの夫であると同時に、この国の皇族で、王国の王家の血を引く人間でもあります。只人であれたなら、この世の何よりも妻の命を選びましたが、俺はもう、何の力も持たない子供ではないのです」
「…………殿下」
天井のガラスから差し込む光が、黒装束を纏ったリアンを照らす。陽色の髪と深海の瞳が一際眩しく感じられ、エレノスは目を細めながらリアンを見上げていた。
「ずっと日陰にいた貴方に、それができるのですか」
虐げられ、罵られ、疎まれ──誰もがその存在を怖れた。ただこの世に生まれてきただけだというのに。
幾度も存在を否定され、その証の一つである傷痕が今も身体中に残っている。それでもリアンは行くのか、エレノスに向かって深々と一礼をする。
「勇気はディアがくれました。俺は俺だと言ってくれた。だから行きます」
リアンは真摯な眼差しでそう告げると、晴々とした表情で歩き出した。振り返ることなく扉の向こうへと消えたリアンを、エレノスは囚われたように見つめていた。
「──時間が惜しいので、このまま向かいます」
凛とした顔で白い馬に跨っているリアンに、その場にいた誰もが見惚れていた。
風で揺られている黄金色の髪に、青い瞳、陽を知らなさそうな白い肌。そして肌触りが良さそうな黒一色のケープコートを羽織っているリアンは、単色しか纏っていないというのに、思わず目を惹く華やかさがあった。
リアンは青く澄み渡った空を一度だけ仰ぐと、馬の腹を蹴って駆け出した。
その姿を城の最上階から見送っていたルヴェルグは腹心に何かを命じると、禁色のマントを翻した。




