残月(2)
オルヴィシアラ王国は三方が海に面している国だ。国土の西側には帝国があり、それ以外の国に行くには帝国を通らなければ行けない。
帝国に次ぐ広さと美しい海を持つが、王国の土では小麦が育たない為、帝国と平和に付き合って行かなければ、国民が飢えることになる。だから王国が帝国に牙を向くことは今までなかったのだが──。
「……あれは軍か?」
王国と帝国の地を分かつ国境が見えてきた頃、ふたりは信じられないものを見た。瞬時に馬の手綱を引いたマリスは木陰で紐を解き、ローレンスと共に目の前に広がる光景を凝視する。
「軍、ですね」
二人の視線の先には軍勢が居た。先頭で掲げられている旗はオルヴィシアラのもので、その後方には三つの国の旗が風ではためいている。
ローレンスはマリスと静かに木々の間を通り、軍勢がより見える場所へと寄り、三国の国旗を見た。隣にいるマリスの目は、軍勢の先頭にいるオルヴィシアラ軍へと向けられている。
「オルヴィシアラ軍の半数以上は国教騎士団だと思います。あの黒い旗とマントを着ている者たちがそうですね。残りは…」
「マーズとベルベット、オーガストの国旗だな。先の大戦で我が国に敗れた国たちだ」
四年前に起きた大戦で、その三国は帝国に敗れた。帝国の革新的な戦術に大敗した三国に報復する力など残されていないだろう。自国の民を守り、国を立ち直らせることで精一杯だったはずの三国が、ほんの数年で武器を手に再び立ち上がるとは予想だにしなかったことだ。
それどころか、その先頭には戦嫌いのオルヴィシアラがいる。
「三国とオルヴィシアラが手を組み、帝国へ向け進軍しているということだろうか」
「見たままを言うならば、ですね。……でも、早すぎる」
自分が今言わんとしていたことを先に言われ、驚いたローレンスは斜め後ろを振り返った。ローレンスの視線に気づいたマリスは薄い唇を横に引き、ニッと勝気な表情をしている。
「勉強をサボっていた僕でも、世界情勢くらい知っていますよ」
「さすがは名門貴族の令息だ」
ローレンスはマリスの頭をわしゃわしゃと撫で、再び前を向いた。
平和主義を掲げ、武器を捨てたはずの王国が、武装して自国の旗を掲げている。その道の先は帝国だ。
この光景を目の当たりにして、帝国が他国に侵されようとしているという以外の答えは浮かばなかった。
「困りましたね。ここから帝国に入るにはオルシェ公爵領を抜けるか、ロベト山を通るか、時間がかかる海路しかありません」
「うーむ、どうしたものか」
マリスは木の棒を手に、ざっくりとした地図らしきものを描いては難しい顔をしている。
(マリス君は我が国の貴族の少年たちよりも賢そうだな)
世界情勢だけでなく他国の地理も勉強していることにローレンスは深く感心していた。
ローレンスはもう一度軍勢を眺め、それから思案に暮れているマリスを見た。どのようにして帝国領に入るか──アウストリア皇城に還るか考えてくれているのだろう。
目の前には軍勢がいるというのに、こうして冷静でいられるのは、傍にいるのがマリスだからかもしれない。
(さて、どうするか。せめてオルシェ領に入ることさえできれば…)
ローレンスは目を閉じ、家族の顔を浮かべていった。
ルヴェルグはこの報せを受けて、宰相ら重臣たちと策を講じている頃だろう。その場に自分ともうひとりの兄のエレノスも居ないことに胸を痛めているだろうが、民を守るために皇帝として舵をとっているはずだ。
クローディアは安全な場所に避難しているだろうか。その傍らにはヴァレリアンが居て、寄り添ってくれているのだと思う。
だがヴァレリアンは冷静では居られないだろう。自分が生まれ育った国が、我が国に攻め入ろうとしているのだから。たとえ思い入れのない国だったとしても。
「ローレンス殿下」
マリスに名前を呼ばれ、ローレンスは振り返った。
「あの軍が待機している橋の下を北上し、ロバート伯爵領に行って頂けませんか」
迷いのない表情で、声でそう告げられたローレンスは、思わず目を大きく開いてしまった。
「理由を聞いても?」
「ロバート伯からジェラール侯爵家へ早馬で伝書を届けて欲しいのです。ジェラール侯爵家の軍と共にオルシェ領へ援軍を、と」
マリスは木の棒を手に、先程まで睨めっこをしていた地面に描いた地図を枝でなぞる。改めてそれを見てみると、王国の国境と帝国の東側の領土が分かりやすく描かれていた。
最近の貴族の令息は他国の領内だけでなく、貴族の要人にも明るいのだろうか。
「……ふむ、なるほど。ロバート領はオルシェ領の隣で、ジェラール家は屈強な騎馬隊を有しているからね」
「御二方の協力を得られたら、殿下はそのままヴィクトリア城へ行っていただけませんか」
「祖母の元に?」
「ええ、ティターニア太皇太后様の元へ。共に軍に加わって頂きたいのです。影武者でも構いません」
ローレンスは言葉を失った。吸い込まれるようにマリスを見つめながら、その口から出てきた策をしかと頭に入れる。
ローレンスの祖母が現在ロバート領にある城で暮らしているのは、帝国の皇族と重臣しか知らない事だ。他国の貴族であるマリスが知るはずもない。
何故ここまで帝国のことを知っているのか。僅かな時間でこれからのことを導き出したこの少年は、本当に他国の人間なのか。
「……マリス君は」
全てを訊こうにも、今は時間がないことを分かっていた。それでも少年の名を口にせずにはいられなかった。
「僕は城へ向かいます。殿下とはここでお別れですね」
マリスは微笑った。名残惜しむようにリリーを撫で、ローレンスに深々と敬礼をすると、外套を深く被り去って行った。
その去り際に、何かを囁いていたような気がした。




