烏兎(4)
オルシェ公爵家の本邸には、紫薇の指輪というものが飾られている。厳重な警備と強固なガラスケースによって守られているそれは、アドニス皇帝が自身の半身も同然だった側近──軍師ヴィクトルに贈ったものだ。
その指輪を二つ作らせたアドニスは、一つをヴィクトルに、もう一つを先代宰相のロバートに贈った。それは帝国で生まれ育った者なら誰もが知っていることだ。
「──どう思いますか? エーデン」
応接間から私室に移動したセリエスは、先の宰相であったエーデン・フォン・ロバート伯爵と話していた。三代の皇帝の宰相を務めたエーデンは、アドニス皇帝の御世でオルシェ兄弟と呼ばれていたセリエスとヴィクトルと共に戦地を駆けてきた盟友だ。
「この場にヴィクトルが居たら、“人に聞く前に、まずはその頭を使って自分で考えたものを言え”と言うだろう」
「茶化さないでください。エーデン」
「ほっほっほっ」
エーデンは指先で髭を弄びながら、エメラルドの瞳を細める。
「本来ならば皇位を継承していた方だ。何か思うところがあって、動かれたのだろうよ」
「理由があったとしても、赦されることではない!」
ダン、と大きな音を立て、セリエスが机に手を突く。衝撃でティーカップが微かに浮いた。整った眉をはっきりと吊り上げ、灰色の瞳を爛々と怒りに染めている。
──そう、赦されることではないのだ。どんな理由があろうと、皇帝に剣を向ける者は大罪人となるのだから。
「そう慌てるな、セリエス。オルヴィシアラにいるエレノスがこの国の玉座に辿り着くには、このオルシェ公爵領を通るしかない。我々には打つ手がある」
セリエスは一瞬目を大きく見開いたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「……貴方には敵わないと、兄上が言っていたのを思い出します」
三人の皇帝に仕え、寵臣であったエーデン。彼は時には友として、時には師として、また時には父としてこの国の皇帝を支えてきた。そのような素晴らしい人物が、これから起ころうとしているものを、指を咥えて見ているはずがないのだ。
◇
──『お可哀想なアーシャ妃』
──『皇子を産んだというのに』
──『これではまるで鳥籠の中の蝶ね』
声が聞こえる。同情を滲ませながらも、どこか馬鹿にするような声音。幼い頃から聞いてきた、母への嘲笑。
母は立派に務めを果たしたというのに、何を言うのかと反論しようとしたが、声が出せなかった。
一歩先すら見渡せないほど真っ暗な闇の中、声は幾度も幾度も木霊し、ローレンスの身体に薔薇の棘のように絡みつく。逃れようとすればするほど、底なし沼に足を踏み入れたかのように身体が沈んでいく。
これは罰だろうか。周囲からの陰湿な陰口で心を病み、病を患った母を救えなかった自分への。そんな自分に手を差し伸べてくれた人を、殺してしまったことへの。
──『皇帝は、私を愛せないと言った。誰のことも愛さないと言っていたのに、その瞳はいつも──』
首を絞められるような圧迫感と共に呼吸が苦しくなり、ローレンスは必死で手を伸ばした。しかし、その手の先には何もなく、次第に視界も閉ざされてゆく。
その時だった。真っ暗闇の世界に眩い光が差し込み、白い手が差し出されたのは。
──『伯父上』
花を揺らす風のように柔らかな声が、呼んでいる。
でもそれは自分に向けられたものではない。自分には甥も姪もいないのだから。
(───君は、誰だ?)
そんなローレンスの声に応えるかのように、強い風が吹き荒れる。思わず目を瞑って、そうして吹き止んだ後に目を開くと──一面の光の中で、遥か遠くで白銀色の髪を靡かせる誰かが居た、気がした。
「――――ッ!!」
ローレンスは弾かれたように飛び起きた。
全身の肌は粟立っているというのに、額にも背にもびっしりと冷や汗を掻いている。肩の辺りの傷がジクジクと痛み、思わず顔を顰める。
激しい動悸に呼吸は自然と荒くなり、ローレンスは目を大きく見開いたまま周囲を見回した。
「──目が覚めたかい? ローレンス」
まず目についたのは、よく見知った人の顔だった。白銀色の髪を後ろで一つに束ねているその人は、黒一色の格好をしている。
「…………兄上?」
「私だよ。ローレンス」
少し離れたところに立っているエレノスは、いつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべている。だが、その距離感に違和感を覚えたローレンスは、自身の手が縛られていることに気づいて硬直した。
(……何故兄上は縛られている僕を、助けないんだ?)
どくどくと、心臓が脈を打つ音が酷く大きく聞こえる。
ローレンスは今、とても小さな部屋に居た。ベッド一つしか置けない広さの空間に、自分は縛られ転がされていて、それを見下ろすエレノスが目の前にいる。
「……兄上よ。状況が飲み込めないのだが」
「分からないのかい? 私の弟なのに」
ふふ、と笑うエレノスの目は笑っていない。黒一色しか纏っていない服装のせいか、とても冷たく見えた。




