秘色(3)
大粒の雨が地を叩きつけるように降っている。こんな天候だというのに、リアンは予定を変更せずに孤児院へ向かったそうだ。共に行く予定だったクローディアは、体調不良を理由に自室に引き篭もっていた。
「皇女様、何か食べたいものはありますか?」
朝食をほとんど残したのを心配したのか、アンナが心配そうに聞いてくる。
クローディアは頬杖をつきながら窓の向こうを眺めていたが、小さなため息をこぼしたのちにアンナを振り返った。
「…特にないわ。悪いのだけれど、しばらく一人にしてちょうだい」
「かしこまりました。何かありましたらお呼びくださいね」
ありがとう、とクローディアは小さく微笑みかける。アンナが部屋を出て行き、ドアが閉まったのを確認すると、クローディアはまたため息をこぼした。
(──どうしてリアンはアルメリアのことを?)
思い返すのは、数日前のリアンのことだ。
──『ディアのことが、知りたくて』
晩餐会の翌日の晩、リアンはアルメリアは人の名前かと尋ねてきた。いや、正確には分かっていた答えを確かめるような、そんな口振りだった。
クローディアはアルメリアのことをこの世の誰にも打ち明けていない。リアンにはただその花が好きだ、と言ったくらいで、他の家族もそのように思っていることだろう。
ただその花が好きというだけで、本当は人の名前ではないかと疑ったりするだろうか。もしかしたら、晩餐会でその名が出た時に動揺してしまい、フォークを落としたのを見て、何か勘付いたのかもしれないが。
(──リアンは、)
ふわり、と。窓辺に飾られている百合の花の香りが、鼻腔をくすぐった。優しい甘い香りがするこの花は、エレノスが好きな花だ。いつからそこに飾ってあったのだろうか。
その時、部屋の扉を叩く音ともに、皇帝の来訪を報せる侍従の声が響いた。
「──クローディア。入ってもいいか?」
クローディアは慌てて立ち上がると、小走りで部屋の扉を開けに行った。ドアを開けると、そこには今日も凛とした兄ルヴェルグの姿があった。
「ルヴェルグ兄様っ…! どうなさったの?」
「ヴァレリアン殿下に用があって来たのだ。…殿下はいないのか?」
「リアンは孤児院へ行ったわ」
クローディアはルヴェルグを部屋に通すと、ソファに向かい合って座った。アンナが用意したティーカップから仄かに柑橘系の香りが漂う。エレノスが持ってきた茶葉だろうか。
ルヴェルグも同じことを思ったのか、懐かしむような眼差しでカップを見つめていたが、ぐっと一口喉に流し込んだ。
「殿下も弟たちも、この雨の中出掛けるとは仕事熱心にも程があるな」
「お兄様方も?」
「ああ、そうなのだ。ローレンスは商談に、エレノスは珍しく黒い衣装を着ていてな。何日かオルヴィシアラに滞在するそうだ」
クローディアは目をまん丸にさせた。
エレノスがオルヴィシアラに──他国に滞在するなんて、今まで一度もなかったことだ。
「…それは、フェルナンド殿下からのお招きなのかしら」
「そうであろうな。エレノスはフェルナンド殿下と仲が良いようだから」
ふう、とルヴェルグは疲れたようなため息を漏らす。エレノスがフェルナンドと親交が深いことに良い気持ちを持っていないようだ。
それはクローディアも同じだが、クローディアがフェルナンドに対して抱いているものはルヴェルグとは違うだろう。クローディアにとってフェルナンドという人間は、かつて自分を騙し、閉じ込め、殺した人間なのだから。
だが、ルヴェルグから見たフェルナンドは、どのような人間なのだろうか。
カップ越しにルヴェルグを見遣ると、ルヴェルグは眉間に皺を寄せていた。考え事をしているのだろうが、顔に出すとは珍しいものだ。
「ルヴェルグ兄様、このお菓子美味しいのよ。食べてみて」
こんな時は、お菓子を薦めるのが一番だ。兄は昔から甘い物が好きで、よく食べていると他の兄たちから聞いている。
「…これは数日前に、ヴァレリアン殿下が持ってきてくれたものによく似ているな」
ルヴェルグはふっと口元を和らげると、お皿に盛り付けられている焼き菓子を一つ手に取ると美味しそうに食べた。
それからのルヴェルグの話によると、ルヴェルグが甘い物が好きだと聞いたリアンが、城下町で大人気の焼き菓子屋にお忍びで買いに行ってくれたらしい。つまり、アンナが出してくれたこれも、リアンが買い求めに行った物ということだ。
「…ならきっと、これもリアンが買ってきてくれたものね」
クローディアは花の形をしているクッキーをひとつ手に取り、花びらの部分を少し齧った。ほんのりと甘く、優しい味がした。




