秘色(2)
少年──マリスは困ったように眉尻を下げると、顔を俯かせながら口を開く。
「……お恥ずかしい話なのですが、ひと月ほど前に家出をしまして」
ローレンスはハハっと笑った。貴族の子が家出をするという話はよく聞くから、別に驚きはしない。
「帝都に向かっていた時に、賊らしき者たちに襲われて……それからの記憶がないので、逃げている途中で倒れたんだと思います」
「そうだったのか。大きな怪我がなくて何よりだ」
ローレンスはマリスの頭をわしゃわしゃと撫でた。無性にそうしたくなってしまったのだ。それはマリスがクローディアとベルンハルトに似ているからだろうか。
大きな菫色の瞳がぱっと見開かれる。不思議な輝きを持っているそれは、どこかで見たことがあるような、そんな気がした。
ローレンスは立ち上がった。
「さて、君も目覚めたことだし、僕は仕事があるので失礼させてもらうよ。ここの宿主には言ってあるから、好きなだけゆっくりしていくといい」
「あの、ローレンス様っ…」
自分の名を呼ばれたことに驚いたローレンスは、マリスを振り返った。眉を跳ね上げると、探るように菫色の瞳を見つめる。
「……何故、僕の名を?」
ローレンスはマリスに名を名乗っていない。だからローレンスが誰なのかなんて、知るはずもないのだ。他国の貴族であるなら尚更。
いくら名門シーピンク侯爵家の縁者とはいえ、他国の第三皇子の顔と名を憶えているものだろうか。と、ローレンスは考え込んだが、自分は他人から印象が強いとよく言われてきたので、もしやどこかで会ったことがあるのかもしれないとも考えた。
「……その、実は交易のパーティでお見かけしたことがありまして」
やはり、とローレンスは心の中で頷いた。
「ふむ、そうだったのか」
マリスはローレンスのことを憶えていてくれた。だがしかし、ローレンスはマリスのことを憶えていない。それだけのことだろう。
しばらくの間、マリスは何かを考え込んでいる様子だったが、何かを決意したように顔を上げると、ローレンスの目を真っ直ぐに見つめてきた。
「……僕のような人間が、帝国の尊い御方にお願いするのは烏滸がましいのですが。僕を帝都まで、共に連れていって頂けないでしょうか」
ローレンスは思わず息を呑んだ。帝都はこの宿屋の窓から見える場所にあり、馬を走らせればあっという間についてしまう距離だというのに。
「どうしても、お会いしたい方がいるのです」
そう言ったマリスの瞳には、切実な光が灯っていて。
その力強い、けれどもどこか危うさを宿した眼差しに、ある人の姿を重ねたローレンスは口を開いたまま固まっていた。
その人の瞳は優しいグレイだった。いつだって笑っていて、少女のようにお転婆で、ローレンスを叱る唯一の人で。まるでお日様のようだったその女性は、ローレンスの所為で命を落としてしまった。
「……僕が一緒でなければ、会えない人だと受け取っていいのかね」
辛く悲しい記憶に今一度蓋をするために、マリスから目を逸らして声を発したが、情けないくらいに震えていた。
そんなローレンスの手に淡い熱が灯る。それを辿るようにマリスを見ると、その菫色の瞳は力強い光を放っていた。
「僕には時間がないのです」
ローレンスはふっと唇を緩めると、もう一度マリスの頭を撫でた。
「……では、着いてきたまえ」
「っ……、ありがとうございます!」
マリスを前にした時に湧き出た、愛しさにも似た温かい感情は何だろうか、と思う。
家族に似ているからか、あの女性のことを思い出したからか。それとも、また別の理由があるからか。
不思議なことに、その理由を調べる気が起きなかったローレンスは、雨が降り止んだら共に行こうと約束を交わすと、いつもの足取りで部屋を出ていった。




