バラの花を君に(前編)
ドクン、ドクン、ドクン……心臓の音が身体中に響いていた。
「ふぅぅぅ……」
長く息を吐いて気持ちを少し落ち着けたが、手のひらにはじっとりと汗をかいていた。
―――陛下に呼ばれて大臣ら重鎮の集まりの場に出た時も、どれだけ多くの民衆の前に立った時も、こんなに緊張したことはなかったのに。
中庭の白いガゼボに座って本に視線を落としたアリアの横顔を見ただけで、僕はこれまでにない緊張に襲われていた。
もう一度小さく息を吐いて、ぐっと手を握ろうとした時、バラを手にしていたことを思い出した。折れていなくてほっとした。
庭師のノーマンが用意してくれたそのバラは、長く真っ直ぐな茎の棘はすべて丁寧に取り去られ、程よく残された葉の上に明るい赤色の張りのある花弁の花が咲いていた。リボンも何も装飾がなくても十分に華やかな一本だった。
その凜とした美しい花を見て、改めてここに来た目的を思って背筋を伸ばした。
バラは一旦背中に隠し、細やかな装飾が施されたガラス戸から中庭に出た。ガゼボに向かって歩きながら、その名を呼んだ。
「アリア」
はっと顔を上げて柔らかく微笑む顔を見て、僕の頬も緩むのを感じた。
アリアはゆっくりと立ち上がり、ガゼボの柱に手を添えて庭の芝に下りてきた。
「ライナス様、今日はお誘いいただきありがとうございます」
にこりと微笑むアリアは、もちろん何も知らないからいつも通りだ。ただ僕の時間が空いたからお茶に誘ったと思っているようだ。
僕は緊張でますます大きく感じる鼓動の音を抑えるように胸に手を当てながら、アリアの方へと歩み寄った。
「来てくれてありがとう。これを…」
僕はバラの花を手渡した。
いつもとは違う僕の行動に、アリアは少し驚いた顔をした。しかしすぐに笑顔になり、その花を受け取った。
「ありがとうございます。綺麗……」
バラを見つめているアリアの前で、僕は膝をついた。
「えっ…」
アリアは言葉を失い、目を丸くして驚いていた。もしかしたら、バラの花を渡した時点で勘付かれるかもと思ったが、全く予想外のことのようだ。
僕は彼女の右手をそっと取り、真っ直ぐに美しく深い青色の瞳を見つめた。
「アリア、僕と共にこの先の人生を歩んでくれないだろうか」
アリアの瞳はますます大きくなり、言葉が見つからないまま、何か言わないといけないと口が開いた。
「あっ…、あの、それは……」
僕はバクバクと鳴る心音を聞きながら、アリアの言葉を待った。
「それは……、絶対にありえません」
―――絶対に…ありえません……
僕は自分の爪先へと視線を落とし、心の中でアリアの言葉を繰り返した。アリアは、僕のことが嫌いではないとは思うが、婚約相手には考えられないかもしれない。もしくは王家に嫁ぎたくないかもしれない………そんな可能性も覚悟はしていたはずなのに、実際にアリアの口からそう言われると、その言葉は思った以上に胸にグサリと刺さった。
項垂れて部屋に戻り、ソファーのクッションに埋もれたい気分だが、アリアに求婚した目的を思い出してその場にとどまった。
気づかれないように小さく息を吐いて気持ちを落ち着け、穏やかな表情を作ってからゆっくりと立ち上がった。
再び見たアリアの顔は頬が紅く染まり、瞳はわずかに潤んでいた。硬い表情で断られると思ったから、目の前の彼女がどんな気持ちでいるのか僕にはわからなかった。わからないまま、断られた時のために用意していた言葉を告げた。
「そうか。それなら、アリアが何者かに狙われている今の状況が解決するまで、僕の婚約者でいてくれないだろうか」
「………」
「婚約者という立場なら、貴女の護衛を増やせるし、僕も一緒に行動して守ってあげることもできる」
「……あの、」
「貴女が望まないなら、婚約は形だけで、関係はこれまで通りで構わない。事態が落ち着けば、すぐに婚約解消しよう」
「…ライナス、それは……」
「僕が婚約者としてありえないほど嫌いなら――」
「ライナス様っ、違います!」
「えっ?…違う?何が?」
僕はアリアの強い口調にハッとした。断られると思ったショックと、それでもアリアを守るための環境を整えるために彼女を説得しなければと思う焦りから、早口で一方的に話していた。
「ありえないと言ったのは、私が王家に嫁ぐことです」
アリアは、繋いだままだった右手をきゅっと握り締め、真っ直ぐに僕を見上げてそう言った。
いつも青星の水晶をお読みくださる皆様、ありがとうございます。
少し前からこのお話の構成をどうしようかと悩んでいたのですが…
「バラの花を君に(後編)」(とエピローグ?)で一旦、完結します。襲撃についてなど残された話は、また改めてシリーズの別のお話として書きたいと思います。ひとまず残りわずかとなりますが、お付き合いくださいましたら嬉しいです。




