ー cerium side ー page01
突然の吐き気に我慢できず、床に胃の内容物を吐きだした。それは永遠に続くかと思われるほど、体の中から沸き出てくる。あらかた吐き終わったころ、視界が緑色一色だったのは、部屋と言うには小さい、円筒状の空間の天井から差し込む光のせいだと分かった。そして、また睡魔に襲われた。
次に目を覚ました時は天井が高い病室だった。部屋の隅にはカメラがあり、拘束されていない状況から容態の様子を見るためのものだろう。
病室とは思えない十分な広さがある部屋には窓があった。ベッドを降り、ふらつきながら窓へと歩み寄ってみる。
海?
シェルターで見た仮想空間の海は白い砂浜とのコンストラストが印象的な、青い空と果てしなく広がる碧い海だった。
今は灰色の空に深い緑の海。厚い雲の向こうでは雷光が走っている。下を見ると、白色の防護服を着た数人がこっちを見て手を振っていた。軽く飛び跳ねながら大きく手を振っている少年もいる。
私は窓にそっと手を触れた。
そして、熱いものに触れた時のように、さっと手を引いてしまう。理由は分からなかったが私の中にいる、もう一人の私が何かを恐れている感覚だった。
何故か頬を伝う涙を手で拭っていた時、後ろでドアが開く音が聞こえた。
「カグヤさん、あまり無理しないでね」
その浅黒い肌の女性はにこやかに微笑んだ。胸の社員証らしきプレートにはアドラと書かれている。
カグヤ。
自分の名前だろうか。そう考えて急に怖くなった。
どうやら記憶がない。自分の名前すら分からなくなっている。分かっているのは、ここは知らない場所で、目の前の女性には会ったことがないという事。
だが絶対に忘れてはならぬ事があった。
いや、あったはずだった。
パニックが訪れた。頭が割れるように痛い。肺に液体が満たされた時の感覚を思い出し、激しい嘔吐が続いた。
「落ち付いて!もう大丈夫だから!」
「いや!絶対いや!いやいやいやいや!」
誰かの名前を呼ぼうとした。
だが、それができずに動揺が大きくなっていく。
看護師はインターフォンで他の医者を呼んだ後、私を床に押し付け首に違和感を感じると痛みが走った。床に放り投げられた空になったアンプルのラベルから鎮静剤だとわかった。完全に記憶が失われたわけじゃなかった。
「大丈夫、ここは地球よ。おかえりなさい、カグヤ」
カグヤ。
それは大事な名前。
だけど私のものじゃない。
誰かが好きだった名前。
遠のく意識の中、心のなかで小さく膝を抱えて泣く少年の後ろ姿が見えた。
集中治療室と病室を幾度となく入れ替わり、二週間を過ごした。この日は主治医に誘われ、陽が差すテラスにベッドごと運んで暖かい日差しに身を委ねていた。相変わらず空は曇天だが、体調も気分も少しは晴れている。
「脳に障害が残るかもしれないという危険性がある為に、あの装置は半世紀前に使用が禁じられていたんだ」
白髪が混じり始めたばかり男の医師はペンライトの光で私の目に当て覗きこんでいる。
「だが、仕方がなかったんだと思う。アダムは、ああ、君を助けてくれと連絡があった青年で、名前を言わなかったから私達は彼をアダムと呼んでいるんだ」
彼が私の容態の様子を窺っていたが、意を決したのか、小さく頷いて「今日は少しだけ歴史を語ろう」と語りだした。
「ある日、沈黙していた無線に声が届いた。大切な女性を助けてくれと、我々に訴えかけてきた。……その時の我々と言えばね。この地球を浄化する研究に没頭していて、その馬鹿げた無線に悪戯だろう、と一時期は歯牙にもかけなかった。ところが古い資料から研究の為の移住者ドームの存在を知って慌てたさ。その中に低重力におけるメラニン細胞を持つバクテリアの研究も含まれていてね。ここの研究所、まあ、もと研究所、だけど。その研究はうちからのオーダーだったから月面研究所の存在を知れたわけさ」
ドクターは嬉しそうに、そう話した。そして私にコーヒーという飲み物を勧めてくる。カップから立ち昇る匂いを嗅いで、良い香りです、と答えると「僕も好きなんだ」と答えた。
「それから大慌てさ。どうする? 助けに行くか? いや、行けるのか? 手段は? この厚い雲と荒れ狂う電離層を突き抜けるロケットなんて存在しないぞ!? って連日、答えが出ない論争が続いたんだ」
短く整えられた顎髭が似合う医師は、大げさなジェスチャーしながら話を続けた。
「あれがあるじゃないか、と誰かが言った。建設途中の軌道エレーベーターが、とね。確かに。確かに無理じゃない話だった。けどその時点では未だに国家間の諍いが続いていたのさ。本当に人間は愚かしいよ。世界が破壊された後でも、まだ物足りなかったんだ。私達、研究者や技術者は、もちろん政治家じゃない。世界を動かす力なんてなかった」
半分起こされたベッドの上で医師の話を黙って聞く。
私も研究者だった。誰かの傍で誰かの夢を叶えたくて何かの研究をしていた。ドクターの話を聞いていると記憶の紐が解かれていくように、少しづゝ、何かを取り戻せそうだった。
「とこがだ。君が世界を動かした」
心の中で色々な情報を整理していた私は、初めて医師の目を見た。色素が欠落しているのか白に近い青。よくペンを落としたり、見にくそうに目を細めたりしているのを見ると後天的な疾患だろうかと思う。
「カグヤを皆で救おう! ってね。この話の始まりは人づての噂だった。そしてある時、インドから連絡があり、そして中国、日本、アメリカ、続々と連絡をしてくれたんだ。まず通信を復旧させ、各国を繋いで技術者が話し合えるようにネットワークを再構成した。幸いだったのは、既に打ち上げに耐えられるだけの基礎はもうあったという事。先ずは技術国に協力してもらいカーボンナノファイバーの生産を始めた。太平洋にあった建設途中のエレベーターのリグに持ちより、リニアレールで少しづつ打ち上げていって完成させた。それはコップで自由の女神を建てるようなものだったらしいよ。だけど一つの目標に大勢の知識とアイデアが集積され、次第に最適化や技術革新も得て、次第に加速していった。といっても完成までに二十年かかったけどね。そう、この計画は二世代に渡ったプロジェクトだった」
ドクターは微笑んではいるが悲しそうに、いや、隠してはいるが隠しきれない何かが漏れ出している。以前、奥さんの話を聞くと「今は独りだよ」と手元の血液サンプルを明かりに透かしながら答えていた。
「同時に月へのシャトルの建造も同時に行われたけど、これが一番厄介だったんだ。一国で建造するには不可能なプロジェクトでね。隠しておきたい技術の塊が、他の国と協力なんてできない、という意見が殆だった。……アドラには会ったよね」
頷いて、
「最初の日、私が暴れて怪我をさせたようですね。まだ謝ってないんです。あれからお会いできなくて」
そう言うと、恩知らずな自分に腹を立てる。
「彼女は才女故に、いろんな部署の掛け持ちさ。そんな忙しい彼女が、君の目覚めのシグナルを聞いて真っ先に駆けつけた。彼女こそが君を助けた第一人者なんだ。国連の会議で、あなた達はこれから誰と戦うんですか! 月に眠る技術こそが地球の救済の要、ノアの箱舟です! とみんなを説き伏せたんだ」
ドクターは冷めたコーヒーを飲み干し、空になったカップをテーブルに置いた。
「それから急展開だった。残された人類は僅か。もう僕らは戦っている場合じゃなかったんだ。各国に割り振られたブロックを宇宙でシャトルを組み立てるプランを作るのにも二年かかったらしい。そして出発の日。その日、国という概念を壊した日でもあるんだよ。プロジェクト・カグヤは世界を一つにした」
「カグヤ」
またその名。
私は知らずに呟いたらしくドクターが、腕を組み顎先の髭を触りなが思案している。
「君が起きてから二か月、あんまり容態は良いとは聞いていないよ。食事も取れてないそうだね?」
「……何か」
ドクターは私の言葉を待っている。辛抱強い人だと思う。急かすわけでもなく、ただ待っている。
「欠けているんです。何かは分からない。でも記憶の中に残っている気がするんです。それが、こう」
私は両手をあげて何かを引き寄せる仕草をした。
「もう、少し。あと少し。でもそれを知ると私は壊れるかもしれない。でもこのままだと結局、同じ事かな。壊れるか、腐っていくか。それだけの違いなんです。先生は良くしてくれて感謝しています。……けど。ごめんなさい。まだ私は、眠ったままなんです」
ドクターは私の話を黙って聞いていた。そして移動式のモニターをベッドの側に寄せると、
「荒療治は嫌いだ。君に何をもたらすか想像もできない。まあ僕は医師じゃなく博士だからね」
ストレージが組みこまれたモニターを、躊躇いながら縁をなぞる彼は優しく微笑んだ。
「アダムの交信記録とシェルター内の映像、見てみるかい?」
その言葉に酷く動揺した。




