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第9話です。
実際の季節も、今は春というより初夏の陽気が感じられる様になりましたね。
物語も夏鳥が活発な初夏の“森の京都”です。
前作「赤い鳥、泣いた。」と合わせて読むと、よりお楽しみいただけることと思います。
本当のところ、飛鳥自身も自らの存在を疑っている。いや、そもそも飛鳥の存在自体が間違っている。
「飛鳥はトリケンの事、お前って言うたらあかんの?」
―お前って言うたら…。
―お前、そんな偉いの?
「おう、偉いんじゃ。」
―ハッ!?
その言葉に続く、あの忌まわしい記憶。
それは飛鳥の記憶ではない。飛鳥はただ、自由奔放に生きているだけだ。そもそも飛鳥には、健太以外の誰とも接した記憶などない。
いや、と言うよりは―。
他の誰とも接している訳がないのだ。
健太との出会い、接触。それは、やがて恋心へと変わっていく。
チュッ―!
「え?」
「あ…」
「お、おい…」
「あはは…ははは…」
ちょっとした戯れ合いから、健太の手に飛鳥の唇が触れた。
2人共真っ赤になった。
夢の中の存在・飛鳥は、現実世界に居る健太の事を、次第に好きになり始めていた。
飛鳥の周りには、人など居ない。健太が居なければ、話す相手も居ないのだ。
そして、そんな飛鳥の奔放さに頭を掻きながらも、その存在を受け入れてくれる唯一の人物。
それが健太なのだから―。
「あなたは、島田さんですよね?」
芦生原生林の駐車場で、探鳥を兼ねたアプリのテストを終えた島田は、帰宅しようとしたところを見覚えのある若い男性に声をかけられた。
そこに彼が居る事には気付いていたが、何も話したくない。だから敢えて気付かないふりをして、健太を避ける様に車に乗り込もうとした。
健太はそこに、声をかけてきた。
「菊池さんの右足の事は、やっぱり訊かれるやろうと思いました。でもそれは別に構わんかった。自分の目で見た事実は答えようがあるから。」
問題は、杏美の事だ。
杏美は鳥研のメンバーだが、活動への参加はおろか事務所にも殆ど顔を出さない。
支所長としての立場なら、その理由は気になるところだろう。だが、事実がねじ曲がってしまっている状況で、何をどう伝える事が出来ると言うのか?
仮に、今ここで事実関係が把握出来たなら、その全てを話す事は出来たはずだ。しかし―。
「健太君の勢いには勝てへんかった。でも、どこかふわついてる印象はあって、結局適当に誤魔化すようにしか話せんかった。」
勢いとは言うが、そこに拍車をかけているのは健太の性格。
かなり神経質だ。島田は健太に対し、そんな印象を持った。
「健太君は、あずちゃんについてはそれ以上詮索しませんでした。」
「は、はぁ…」
「でも、事実として分かっている事。僕と重谷っていう奴が、いつもここで揉めてた。あずちゃんはそれに耐えられんくて、事務所に来んくなった。それは伝えました。」
その後、重谷を辞めさせた事も―。
敬と恵理子は、全く意味が理解出来ていない。出来る訳がない。
事実がねじ曲がっているのなら、ねじ曲げているのは誰だ? 重谷という男でもなさそうだ。そこに該当する人物が、全く見出せない。
ねじ曲げている犯人。それはもしかして、あの薬なのか? 杏美が眠剤と言って常用していると思われる、あの―。
「なぁ、島田。杏美は今…」
「たぶん…ですよ。夢の中で健太君と会ってます。あのログハウスを出る時、あずちゃんは凄くにこやかな表情で眠ってたんじゃ?」
―確かに。
穏やかで、笑顔とも見えるその表情。薬を慌てて隠した瞬間の、何かに怯えた様なそれとは真逆だった。
それはやはり、健太と会っているからなのか? その夢が、杏美にとって楽しい、或いは心が癒されているものなのだろうか?
そもそも夢の中で実在の人物と会う事自体、理解し難いものではあるのだが、杏美の表情を見れば、何故か納得せざるを得ない。
そこへ菊池が口を開いた。
「健太はな、『八丁平に行く』言うてた。」
菊池は事務所で健太を見てきた。確証はないが、彼との話の流れからすると、八丁平に居るのは間違いないと思った。
「八丁平っていうと?」
「皆子山、峰床山やらに囲まれた、原生湿原や。」
京都府最高峰皆子山。第2位とされる峰床山。
霊峰として、護られるべき自然があり、野生動物達の姿がそこにある。
健太はそこへ、幻の鳥・アカショウビンの姿を求め、探しに通っているはずだ。
「なら、あずちゃんも夢の中でそこへ?」
「あ!」
京子は何かに気付いた。
「安曇川水系って言うたら、カッパ伝説ですよね?」
知る人ぞ知る、古くからの言い伝え。これには菊池も敏感に反応する。
「カッパ…か。こじつけかもしれんけど、ワシも谷に引き込まれた。谷に落ちて、傷を負って…罰を受けて、罪を精算したんや。」
「菊池さん…それは。」
「ワシはそう思てる。なぁ島田、お前は『自分のせいやから』言うて、ワシの世話して生涯償う言うたし、それ実践してるやないか。でもな、お前はワシに直接手ぇ下したんやない。探鳥記録に誰の名前載せるかみたいな小さい事で、ワシはお前に激怒した。それが全部ワシに返って来たんや。大事な人の小さい過ちですら許せへん方が、罪はデカいんや。」
罪を犯せば罰を受ける。安曇川水系で言うなら、カッパにとって格好の餌食。
カッパの手によって、谷に引き込まれるという事か?
敬もようやく話が見えてきた。
「つまりですよ、菊池さん。杏美がまだ中学生の頃の同級生、番長って言われてた子とか、悪さした子を許せてへんのやったら、それを罪と思て精算するために夢の世界に行ってるって?」
「正直、何が起こってるかはワシも分からん。」
「分からんのかいっ!」
―まぁまぁ、落ち着いて。
「平野君、これ、菊池さんの語り草やから。」
敬を諭す様に、耳元で声を顰めて言う。こんな状況でも、島田は極めて冷静だ。
「もしかして、杏美も谷に引き込まれるんですか!?」
「かもしれませんね。まぁでも、こっちの件はあくまでもあずちゃんの夢の中の出来事やから。」
飛鳥は単独で八丁平に向かった健太を、皆子山上空から追いかけていた。
健太は、巨大な超望遠レンズを取り付けた一眼レフカメラとそれを支える頑丈な三脚に加え、現地で食事を摂るため、インスタント食品とキャンプギアをリュックに詰めて背負っていた。
東京に居る頃、山間部とはいえ山歩きをする事もなく撮影をこなしていた。学生の頃から写真に熱中し、これといったスポーツもせず、写真機材を担ぐ事が一番の運動になっていた。
そんな健太が、この重い機材を担ぎ、山を歩いている。
鳥研が追いかける赤い鳥、希少種であるアカショウビンの生態を撮影するため、奥歯を噛み締めながら山道を登る。
八丁平までの最短ルートを選んだが、それでも体力の消耗は激しい。息が上がる中、ようやくその原生湿原を目の当たりにした。
一方の飛鳥は、健太が八丁平に辿り着くまでの一部始終を空から見ていた。
その姿、目標に向かって、リスクをものともせず歩く様に、胸が熱くなった。
今の健太をサポート出来るのは、鳥の様に空を駆ける事が出来る自分。夢の中で飛鳥と名乗っている自分にしか出来ない事だと思っていた。
飛鳥は、健太の背後にそっと降り立った。
「トリケン! 1人で行ったらあかん!!」
探鳥での山行は、野鳥を追うあまり足元を見失う危険が伴う。単独行は避けるべきだ。菊池からもそう聞かされていた。もちろんそれは健太自身も分かっている。
ただ、鳥研では他に探鳥出来るメンバーが居ない。だから自分がやる。
健太は、そんな責任感を強く感じていた。
「飛鳥がペアになったぁげる。」
飛鳥は健太にそう言った。
その後、2人は足繁く森へ、八丁平へ通った。
キャンプギア関係を飛鳥が持つ事で、健太への負担はかなり軽減された。
山歩きに慣れている訳ではない。2人とも、日が経つにつれて両足はパンパンに張ってくる。
それでも山行を続行出来るのは、若さと情熱に他ならなかった。
飛鳥は現実世界では“引きこもり”であったし、いかに異世界で何でも出来ると言ったところで、心の経験値も全くと言っていい程満ち足りない。
失敗も、決して少なくはない。
連日の山行で、体力はもちろん気力の消耗も激しい。転倒する事も多くなってきた。何か失敗すると、すぐに泣き出してしまう。
それでも、飛鳥のそれを許せる器量が、健太にはあった。
あったはずなのだ。
ある1本の電話を受けるまでは―。
読んでいただき、ありがとうございます。
第9話の終わりは、少し思わせぶりに括りました。
「赤い鳥、泣いた。」との辻褄合わせに苦労した部分でもあります。
次回もよろしくお願いします!