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第6話です。
思わず薬を飲んでしまい、深い眠りについた杏美。
「赤い鳥、泣いた。」と合わせて読めば、よりお楽しみいただけると思います。
森の京都。
春から初夏へと進む季節。少し刺激の強い日差しと、青く晴れた空。天気予報では「夏日」という表現も聞かれ始める。
但し、それはあくまでも市街地の話。盆地を囲む山々、そしてその周囲の町や集落では、強い日差しが降り注ぎつつも、気温はまだそう高くない。日が落ちれば防寒着までも必要になる。そんな、昼と夜の寒暖差が大きく感じられる時期でもある。
空の青に包まれ、標高1000mに迫る京都府最高峰・皆子山を、その更に高い位置から見下ろす。何と優雅なものか。
その少し北側には京都市最北端の集落が見え、人っ気のない奥地に小型の四輪駆動車が見えた。
そしてその横で、何故かこんな場所にテントを張り、森を見つめる若い男性の姿。
気が付くと、今、地上からその集落を眺めている。そしてその直後には赤いオフロードバイク、父からもらったそのバイクに乗って、男性の居る場所へ向かっている。
どんな風に時間が流れているのか。どこからこの場所に来たのか。そんな事はどうでもいい。目の前で起こる事、目の前にある物、見える物。その全てが新鮮だ。
集落を抜け、どんどん奥地へと分け入って走る。そして倒木によって通行不可となっている少し手前に、彼のテントを発見した。
その男性…見たところ、20代後半? 30歳までは行っていない様だ。イケメンとは言えないが、人の良さそうな顔をしている。彼に対する好奇心が溢れてきた。
「ぃよっこらしょっと!」
背の高いオフロードバイクを停め、小さな体で跳ねる様に飛び降りると、男性と挨拶を交わす。
カメラだ。テントの側には、見るからに高級そうなカメラが三脚に載せられている。しかも、ドデカい超望遠レンズをセットしている。
―何撮ってはんねやろ?
好奇心はどんどん膨らむ。最早男性の話よりカメラが気になって仕方がない。三脚が据えられた側に近寄り、ファインダーを覗く。
―あ!
鳥だ。可愛い野鳥が見える。レンズが向けられたその先に、夏鳥・キビタキの姿が見えた。
―シャッターチャンス!?
パシャパシャパシャパシャ――
「お、おいっ! 勝手に触んなよ。オモチャじゃねえんだぞ!!」
―怒られた。
それは当然だ。他人の大切な物を勝手に触るなど、あり得ない。そんな事が出来る自分が不思議だ。
そして、その行為に悪びれる事もなく、初見の男性に、尚も話しかける。
「お兄さん、鳥井健って言うん?」
「違うよ。これは野鳥研究会のロゴで…」
「トリケン。そうや。トリケンにしましょ!」
「君は?」
「聞いてどうすんの?」
ぶっきらぼうに言葉を返すが、実は自分の名前が分からない。まさか訊き返されるとは思わなかった。少し困った様子を装い、その間に考えてみる。
―私、誰やったっけ? あ! そや! 鳥や。今なら私は鳥になれるんや。
「飛鳥。飛ぶ鳥の飛鳥。」
―飛鳥って? それこそ、誰だ? まぁいいか。ここに居る時は、私は飛鳥でいよう。
ところで、「ここに居る時」の“ここ”って何処だ? 京都であるには間違いないはずだが、未だかつて見た事もない風景。地名は聞いた事があるものの、それが何処にあるのかも知らない。もしかしたら、今見えている風景全て架空のものかもしれない。
それでもいい。ただ当たり前のように、道を知っているかの様にバイクを走らせる。
いや待てよ、その前に―。
京都一標高の高い皆子山を、どうやって俯瞰したのだろう?
考える程に、何だか楽しくなってきた。もしかしたら、本当に鳥になっているのかもしれない。
トリケンは明日もそこにいるのだろうか? 絡んでいると面白いかもしれない。
そんな「かもしれない」が溢れている。まるで中学2年生の自分を思い出す様な…え? 中学2年生の自分は誰? 飛鳥…そんな名前だっけ?
「あずちゃん、どうしてる?」
心配気にメッセージを送ってきたのは、京子だ。菊池の衝撃的な姿を見て泣き叫んだ事、そしてその後2日間音信不通になっていた事が、両親から知らされたという。
いくら回復に向かっているとはいえ、まだまだ不安定な杏美の心理状態。
「今から行っても大丈夫?」
「はい…」
「どうしてたん?」
夜も21:00を回る頃、京子は杏美の家にやって来た。
「別に…寝てたかなぁ。」
記憶はある。しかし、それを話したとて誰が信じようか。きっと精神が崩壊したかの様に思われるに違いない。
いや、そもそも精神状態はほぼ崩壊していると言えようが。
「とりあえずね、毎日ご両親とは連絡取る様にって…あ、でも…」
言いかけてやめた。強制しないのが、京子のカウンセリングのモットーだから。でも、出来れば両親との連絡の取り合いだけは続けて欲しい。何故なら、杏美は未成年なのだから。
京子は、何気ない素振りで部屋を見渡す。
菊池の件も知っているが、わざわざそれを口にはしない。杏美には刺激が強すぎる。いや、杏美に限ったことではない。あの元気なおじさんであるはずの菊池の今の姿。一体誰がそれを冷静に見れるというのか? 自分だって取り乱しそうな衝撃を受けた。ならば、杏美は―。
「綺麗にしてるやん。」
予想外に片付いている部屋に、京子は少し安堵した。
精神科医による治療は済んでいる。対人恐怖に関しては順調に回復していると認識している。何をする気力もなかった杏美だが、今では自ら部屋の掃除もきっちりしている。
しかし―。
「あずちゃん、これは?」
「眠剤。」
「飲んだの?」
「はい。だめですか?」
「ううん、そうじゃなくて。眠れんかったら、飲んだらええんよ。でも薬やから…」
―出しっ放しにしないでね。
京子は少し緊張しながら、薬を片付ける様促そうと、した。しかし、言葉は遮られた。
杏美は、ふと表情を変えて言った。
「先生、菊池さんの事知ってたんでしょ?」
―あ、ああ。
会いに行った。
杏美は、菊池に会いに行ったのだ。まさか1人で行くとは思ってもみなかった。京子にしては、思わぬ失態だ。
「あ、あのね…」
言い訳は逃げに過ぎない。それも分かっている。
「私は…先生は知ってた。うん。」
時期を見て話そうと思ったとか、ありきたりな言い訳は京子自身も嫌いだ。いや、そもそも誤魔化す必要もないはずだ。
「何も知らんと菊池さんの足見たら…そらぁびっくりするやんね。そやから、あずちゃんが会う前に言うとくべきやったね。ごめんなさい。」
「あず…あんなん見たん初めてで。菊池さんやのに、あの元気なおっちゃんなはずやのに…」
―泣かはった。
足がなくなっていた事より、あの涙が衝撃だった。もっと言うなら、足がなくなった事による菊池の心の傷の深さが、目の前の現実より深く心に刺さってきた。
そしてその刺し傷は、夜には更に更に深く杏美の心の奥を抉った。
―寝れへんから。
あの涙、あの震えた声。菊池のこれからの人生。生涯癒える事のない心の傷。
それらが頭の中で渦巻き、落ち着こうとすればする程に強く深く考えてしまう。そんな状態で眠る事など出来ようか。
苦しい。とても苦しい。
杏美は苦し紛れに眠剤を飲んだ。そして―。
「空を…空を翔んだの。」
「え!? 何!?」
「そしたら、面白そうな人見つけて。また会いに行ってきます。」
「何言うてんの、あずちゃん!!!」
「その人と居たら、あずはあずじゃない人になって、空から鳥と一緒に京都の森を見下ろして…」
危険な胸騒ぎを感じた。杏美の心は、彼女の夢の中で迷走している。
―この薬は眠剤なんかじゃない。どこか違う世界への入口やわ。あかん。連れ戻さなあかん。
「おやすみなさい。」
「え? ちょっと! まだ話が…」
ふと見ると、東の空が白んできている。
夜明け前になって、杏美はまた薬を飲んだ。その瞬間、彼女は深い眠りに落ちた。
読んでいただき、ありがとうございます。
今日は、黄砂が酷かったですね。
やっぱり澄んだ青空が好き。
鳥みたいに飛べたら楽しいでしょうね。
次回もよろしくお願いします。