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その時私は鳥になっていた  作者: 日多喜 瑠璃
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第4話です。

前作「赤い鳥、泣いた。」と合わせて読むと、より楽しんでいただけるのではないかなと思います。

 ―私もそう思うよ。

 京子はそう言った。絵日記にもならないものが、他人に読んでもらえる訳がない。

「だから、『手直し』っていう手があるでしょ? 納得いかへん部分は、手直ししたらいいだけ。急ぐ必要なんてないし、いくらでも出来るのよ。」

 杏美は、しばらくの間、自身が描いたものを凝視していた。

 外では、野鳥の群れが飛び交っていた。その姿をチラリと見ると、小声で「よし」と言った。

「ほな、全部直す。」

「分かった。ほな、全部ね。じっくり手直ししよう。」

 ―あなたの気が済むまで。


 杏美は、絵を、文を、どんどん描き直していった。その表情は、かつてない程の真剣な面持ちであり、かつ楽しげだ。

 自分が世に出る事など意図していない。そんな事などしたくない。しかし、出版物ともなるとそれ自体は世に出て行くもの。出なければ意味がない。

 もちろん売れるなどとは毛頭思っていない。たかが素人の落書きだ。だけど、自身の手から世に放たれるのなら―。

 そんな風には、思っていた。

 少しだけ、夢が膨らんでいた。


「そこは違うで。そんなんじゃ、伝わらへんよ!」

 京子の目は、いつになく厳しい。世に出すと決めた以上、いつもの様な“選択肢”などない。出来る限りの努力がなければ、杏美自身の能力は低く評価されてしまう。

 そうなれば、社会化への道はさらに険しくなってしまうのだ。

 もちろん杏美もそれは理解しているのだから、京子の言葉一つ一つにネガティブになってはいられない。自分と京子以外誰も居ない環境下で、その努力を邪魔する者は居ない。

 全力を注いだ。ただただ絵本を書き上げる事に、全力を。

 手直しを繰り返す中で、自身で「幼稚」だと言った文章は、絵と組み合わされると印象的に変わった。短い文章から放たれる“罪と罰”は、絵にファンタジーの世界観を持たせる事で表現を和らげた。

 毎日毎日時間の許す限り、京子は杏美の家を訪れ、指導に当たった。京子が来ない日も、杏美は自分の出来る限りの事をやった。

 京子は、「参考になれば」と言って、杏美に会う度新しい絵本を持参した。

 元々天才肌なので、読む度に何かを吸収していく。

 そして、原本が完成した。


「こんなのでいいんですか?」

「バッチリよっ! あとは、これからあずちゃんも経験積んで、いっぱい描いて行こっ!」



 杏美は京子に連れられ、久しぶりに街へ出た。本当に久しぶりだ。

 一軒一軒間隔の狭い住宅街。頻繁に走る路線バス。巨大なターミナル駅。見上げる程の高いビル。京都市内に建つビルは、そんなに高くはない。とは言うものの、杏美の住む郊外の町に高いビルなど存在しない。忘れかけていた風景。そして、足早に行き交う人の群れ。

 杏美にしてみれば、車の中からその様子を見るだけでも激しい緊張感に襲われる。

 そんな街の中心部、中京区に敬の会社が在る。2人はそのドアの前に立った。


 少しずつだが社会への復帰を目指して歩き始めた杏美の事を、敬は喜ばずに居られない。父親なのだから、それは当然だろう。自宅から離れて郊外に1人暮らす娘。その大切な娘が、街にやって来たのだ。それだけでも大きな変化だ。


「早速なんですけど。」

 杏美の胸に抱えられた封筒を、京子はそっと手に取り、敬に手渡した。

「これが…杏美の?」

 敬は少し涙を浮かべた。

 子供にも分かりやすい言葉で綴られた物語。そこに添えられているのは、上手ではないが優しく美しいタッチの、森と小鳥の絵。

「これ、杏美が自分で描いたんか? ええやんか!」

 敬はそれ以上何も言えなかった。言葉は声に出すと揺れてしまう。そして、目頭が熱くなる。

「お父さん…泣いてる?」

「な、泣いてへんて。お父さんはそんな…」

「うふっ…お父様、嬉しいんですよね!」


 さて、本題だ。 

 実際、名も知れぬ全くの素人が描いた物など売れる当てもない。そんな所にわざわざ挙手してくれる出版社など、皆無だ。

 それが現実であり、書籍とするにはこれを乗り越えねばならない。話を聞く程に、不安感は膨らんでいく。


「あのな、杏美。同人誌って聞いた事あるか?」

 ―同人誌? 何やろ?

「早い話、自費出版や。最初はそこから入っていくんがええと思う。」

 ―沢山お金が要る?

 書籍とするなら勢いのある内に。敬はそう言う。もちろん費用はかかるが、そこは親子での話だ。

「それは、本屋さんに?」

「コミケ言うてな、自分で手売りするんや。あっ!」

 言いかけて、敬は口を覆った。

 手売り!? 中学校へ通っていた頃の杏美なら、躊躇なく出来ただろう。しかし、今の彼女には到底無理だ。

 杏美は目を丸くして震えていた。

「い、いや、それだけやない。杏美、すまん。他の…」

「あります! 委託販売。ほらこれ、ネットで出来ます!」

「先生、ナイス!」

 『同人誌 販売方法』で検索すると、数種の販売方法がヒットした。委託販売なら最低限のコミュニケーションで可能だろう。

 ―本が、あずの描いた絵本が、世に出て行く!

 ドキドキするが、嬉しくもある。未知なる世界の扉が、目の前に現れた。



 ―森へ行ってみたい。

 野鳥に関する知識が、もっと欲しい。

 今度は絵本ではなく、小説を書いてみたい。文章を書くのが楽しい。

 誰にも邪魔されず、自分のペースで、妄想を描いていきたい。そのために、森へ…野鳥達の棲むフィールドへ行ってみたい。

 杏美の心の中に、そんな想いが芽生えてきた。

 ただしかし、どうやって?

 高校生に相当する年齢の杏美が、車など運転出来る訳がない。週に2,3度訪れる両親に連れられて? それは違う。では、京子と? それも違う。1人で行きたい。自分だけの時間に、自然溢れる鳥達の世界に入って行きたいのだ。

 今の杏美には、自転車しかない。しかも、これといった運動も出来ていない。


「お父さん、あず…」

 分かっている。外へ、自らの意思で出かける。そんな杏美の想いに、両親が喜ばない訳がない。しかし、大きな不安が並行するのも事実だ。何とかしてあげたい。

 自ら社会化を目指す我が娘に対し、父親として出した答―。


「杏美…バイク、興味あるか?」

「バイクって…原チャとか?」

「いや、大きいのや。森でもどこでも行けるで。」

 2輪の教習は、密室でのそれとは違う。教習期間も短い。前向きな意志を見せる今の杏美なら、耐えられるかもしれない。

「カッコイイやん! あずちゃん、頑張ってみよっ!」

 何しろ、時間は幾らでもある。担当してくれる教官とのコミュニケーションさえ何とかすれば、世界はどんどん広がるはずだ。

 杏美の瞳が輝いた。


 杏美、17歳。普通ニ輪免許取得。


 ―これで、あず自身の準備OKや。

 誰も杏美の事を知らない。そんな人達が集まる運転免許試験場。ここで、初めての免許証を手にする。

 小柄な杏美にとって、教習車の400ccはとても大きく重かった。つま先がやっと着く程の車体に、悪戦苦闘した。

 それでも、森へ行くという小さな目標があり、負けん気の強い本来持つ気質と相まって、瞬く間にカリキュラムを終了した。

 初めて手にする免許証に、ワクワクが止まらない。

 保護者として運転免許センターに付き添った父は、駐車場へと向かう通路で、杏美の赤いリュックのポケットに封筒を入れた。

 ―何?

「ん? 帰ったら開けてみよか。」

「お祝い?」

「はは…まぁな。」


 市内を北上し、国道162号線で谷間を進む。

 慣れない雰囲気と人の集まりに、かなり緊張していた。1時間以上もの道中、疲れの出た杏美は、助手席で深く眠っていた。

 市内再北部、すれ違う車もまばらになった夕刻に、杏美を乗せた敬の車は停まった。

 杏美が暮らすログハウス。その横には、やはり木で組まれた物置小屋。ここに住んで初めて開ける、その扉。恐る恐る触れてみると、その向こうに赤く輝くオフロードバイクを見た。


「これ…」

「うん。お父さんが時々乗ってたんやけどな。杏美にやる。好きな時に好きなだけ乗り回したらええ。」

「あの…」

「気にせんでええ。お父さんも乗る時間なくなったしな。」

「ちゃうねん。」

「え? ちゃうの? ほな、何や?」

「足…届かへん。どうやって乗んの!?」

 ―あはははははは。

「ほ、ホンマやな。」

 杏美に、少し笑顔が戻った。

読んでいただき、ありがとうございます。

心の病というのは、生活の中で何か大きな変化があった時、急速に回復していく事もあると思うのです。

主人公・杏美の心は、どう変化していくのか…

次回もよろしくお願いしますね。

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