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「赤い鳥、泣いた。」のスピンオフ、第2話です。
併せて読めば、より楽しんでいただけるかと思います。
―鳥になりたい。
杏美の父・平野敬は、京都市内に本社を置くIT企業から独立し、電子書籍の配信会社を起業している。
登録したユーザーが、契約されている様々な書籍を閲覧出来る他、自らが作家となり、小説や漫画などを発表する事も可能なサイトだ。
初めこそ苦労を重ねたが、積極的な広報活動の末、登録者数は作家・読者共にうなぎ上りに増え、一定の成功を収めている。
すなわち、暮らし自体は裕福なのである。
ただ、よく居る金持ちと違うのは、書籍を扱うが故に、様々な人の気持ちや暮らしとそれに纏わる苦労を見ている点だ。
文章は心を表すものだ。
そしてもちろん自分自身も苦労を重ねた訳であり、だからこそ人の気持ちを思いやる温かさを持っている。
その実績から威厳も兼ね備える、杏美にとって優しくも頼もしい父親だ。
電子書籍。
単に書籍と言っても、小説や雑誌、漫画から啓発本、教科書までと、ジャンルは様々だ。
敬は会社を運営する上で、オンライン学習についても視野に入れており、不登校学生に対する支援学校との繋がりも深い。
それにしても。まさか自分の娘が―。
杏美に降りかかった現実を知り、戸惑いを隠せない。
しかし自らが重ねてきた実績のそれは、我が娘を支援するにあたって幸いだった。
杏美には、その支援学校から石原京子という名の女性を講師として迎えた。そしてパソコンの画面上での、所謂オンライン学習を行う事になった。
京子は中学校教師を経て支援学校の講師となったが、その際心理カウンセラーの資格も取得しており、杏美の得意科目はおろか性格や心理状態までも手に取るように理解出来た。
敬が自ら力を注いできた支援活動。その効果は、京子の手を借りて遺憾なく発揮されているのだ。
対する杏美は、学校や地域住民との接触を恐れたが、勉強に関しては前向きだ。
理数系は得意ではないが、国語とりわけ作文などの文章力には長けている。学力については何の問題もない。
京子のそういった判断の下、支援は成功と思われた。
ただ、大きな誤算がひとつ。
孤独になれば人恋しくなり、友達の居る街に戻りたくなるのでは?
敬はそう考えていたし、同様に京子だってそう願っていたのだが。
杏美は、孤独が淋しいと感じなかった。
身の回りには、沢山の野鳥達がいる。淋しさ以前に、孤独とさえも感じていなかった。
そんな森の別荘での暮らしの中で、学校に戻るという選択肢など、最早彼女の心の中では失われていたのだ。
そんな生活に変わってしまった杏美は、日々どの様に過ごすのだろうか。
週に数回訪れる両親との会話、オンライン授業での京子との会話。それ以外に人と話す事はなく、話題も尽きてくる。
そんな中で生まれるのは、現実社会とかけ離れた妄想の世界。
杏美の妄想。それは、彼女自身の手で、パソコンの画面上に、文字として綴られていく。
誰に話すでもなく、思うままを文字にしていく。
それだけでも心は晴れるのだ。
声を出すとすれば、自宅(別荘)の周りで飛び交う野鳥の声を真似、鳥達と会話するぐらいか。いや、それも妄想の世界だ。
孤立の中に身を置く事に安堵感を覚え、森の中に自身の居場所を作ってしまいつつある杏美。
社会化を望む両親や京子にとって、それは大きな心配要素となる。
幸い、敬がよく知る人物がこの地で野鳥の保護活動を始めた事を聞きつけ、京子に協力を依頼し、杏美とその保護団体を結びつける事を試みた。
「杏美、お願いなんやけど…」
別荘にやって来た、敬と杏美の母・恵理子は、いつもの柔らかい口調で切り出した。
「少しだけ。少しだけな、人と交流持ってくれへんか? 石原先生の他に、もう少しだけ。」
杏美は両親が好きだ。共に働き、忙しい毎日の中でも、家族で過ごす時間を大切にしてきた。
天才肌の敬は、どんな時でも、厳しく叱りつける時でも、動機付けをしっかりした上で杏美を納得させたし、少し天然な恵理子は、病める時でさえ笑顔をもたらしてくれる。
そんな信頼関係を築いてきた平野家ではあるが。
「ごめん。無理かも…」
やはり―。
両親にとってそれは、予想された反応だった。
とはいえ、心の奥では少し前向きな応えも望んではいた。それも当然だろう。
若くて何でも出来る年代を自宅に引きこもって過ごしてしまうのは、あまりにも寂しく勿体無い。元々クラスをはじめ学年でも人気者だった彼女だ。また以前のように友達と跳ね回って欲しい。それが本来の杏美の姿なのだから。
そしてそれは両親のみならず、杏美を知る皆の願いと言えよう。
「あかんのやったら、無理にとは言わへんで。でも、お父さんお母さんのお願いやねん。」
「その人らな、お父さんより歳上の人も居てはる。もし杏美が1人で居って、何かあったら、助けてもらうようにお願いしてるねん。そやから、顔だけでも知っといてもらいたいしな。」
両親がそう諭したところで、そもそもの引きこもりの原因は“対人恐怖”なのだ。杏美にとっては、非常に困難な要求だ。
もちろん両親もそれはよく分かっている。だが、人として社会を生き抜く上で、人との繋がりは欠かせない。それは知っておいて欲しい。
そして、人との繋がる上で、そのハードルを下げてくれるのは…
「杏美な、鳥が好きって言うたやん? その人ら…鳥の事詳しいし、話してみたら楽しいかもしれんで。」
そうだ。好きな事、好きな物を共有出来る関係だ。
「ほな、今日は帰るわな。」
ひとしきり思いを伝えると、両親は家を出ようとした。
「あ、待って!」
「ん? 何や?」
「…ううん、何でもない。気ぃ付けてな。」
人間不信、対人恐怖…今がそんな状態であっても、かつて趣味や興味を共有出来る友達がいた事は、楽しかった思い出として心の奥に根付いている。
人が嫌いな訳ではない。恐怖心を打破し、トラウマを解消するために、人との交流を絶っているのだ。
杏美は、父親譲りの天才肌だ。両親の目論見、その想いなんて、痛い程によく分かる。
両親が帰宅していった後、杏美は珍しく、自ら京子にメッセージを送った。
『杏美が今住んでる町の人は、杏美の過去を知っている人達ですか?』
日本野鳥研究会。
大手団体とは異なり、地域ごとに少数精鋭で活動する団体だ。
特に絶滅が危惧される希少種に重点を置き、地域内での自然繁殖の定着化をめざしている。
杏美は、関西本部京都支所を置く事務所に、両親と京子に連れられてやって来た。
知らない人と会う。それは今の杏美にとって、この上ない程の冒険だ。幸いなのは、支所長である島田晃弘という男性が、父の元同僚である事だ。
全く縁もゆかりもない人の中に、今の杏美が1人入り込んでいく事など、到底無理だ。
父の知り合いが居るというだけでも、「この人に頼れば良い」という安心感が生まれる。
「あずちゃんの過去は、この町ではあずちゃん自身と私だけの秘密。忘れて良い秘密。」
杏美の問いかけに、京子はそう答えた。
「忘れなさい」と言えば、忘れようという思いが先立ってしまう。それは使命感にも似た思考となって、自分自身を締め付ける。
また、忘れたつもりで居ながらも、ふと思い出した時…そんな瞬間の恐怖を考えると、ごく自然に風化させる方が良いのかもしれない。
そんな意味で京子のこの言い回しは、杏美の心の奥から“縛り”をひとつ取り除く事に繋がった。
何だろう? 制服から部屋着に着替えた様な感覚?
自分らしさを演じるために締め付けていた物。それを、ゆったり覆ってくれる物に着替えた。杏美はそんな印象を抱いた。
―早く忘れなければ。
その思いは柔らぎ、気持ちが楽になった。
支援学校の講師…ただそれだけだった京子はこの時、杏美にとって“信頼していい人”の1人となっていた。
「今日は。よろしくお願いします。」
ドアを開けた父の第一声が、緊張感を高めてしまう。杏美の唇が震える。言葉にならない。しかし、挨拶の言葉だけは伝えたい。心は前向きなのに、身体機能が追い付いていない。
島田の横に並ぶ大男は、口を開いた。
「オッサンら、鳥の話ばっかりしよるしな。それ以外のどうでもいい話は、別に放っといてくれてええで。何かあったら訊いてくれたらええけど、無理に話する必要もないさかい、気楽にしときや。」
菊池俊輔。
同所の中で最年長であり、島田が信頼を置くという彼は、顔は怖いが心は優しい。
杏美の様子を窺いつつ、とても優しい口調で声をかけた。
杏美の状態は、事前に父親や京子から聞いていたのだろう。だとしてもこの男性、まるで人の心理を深く読む事が出来る様だ。
初対面での第一声から緊張を解してくれるかの様な、柔らかい言葉。こんな風に気遣ってくれているのなら。
―この人も、たぶん大丈夫な人なんやろな。
少し安心し、頷いた。
強面の顔。杏美にとってそんな事はどうでも良い。大切なのは、自身に対して害があるかどうかだ。その基準で言うなら、菊池はもちろん島田だって合格点だ。
しかし―。
「とりあえず、名前だけ聞いといてええかな? 」
「あ…」
敬が言いかけると、杏美は腕を掴んでそれを止めた。名前を知られる事で、全てを知られてしまう…そんな恐怖心が、何処かで杏美の社会化を邪魔しようとする。
「うん、ええよ、ええよ。ほな、“平野ちゃん”て呼ばしてもらおかな。」
穏やかに笑い、菊池はそう言った。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、不登校・引きこもりになってしまった主人公の“支援”についてのお話になりました。
ここからどう展開していくのか、次回も是非、お楽しみに!