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創まりの大陸へ


   三章 すれ違う 


 ゼミの旅行から戻ると、また独りの時間が増える。

やっぱり独りでいる方が、落ち着く。

教授の言った、レポート。あれは、嫌がらせと大学への建前。

さっさと、書き上げてしまおうと、机に向かったけれど、なかなかまとまらない。ポイントは押さえている。だけど、それを、レポートとして書き上げる気力が無かった。

机の上には、あの水晶珠を置いている。デスクライトに照らされてか、ほんのりと光っている様に見える。水晶珠を見つめる。

「あのお店の人が言っていた事って、本当なのかな。この珠を持っていると、私の求めているモノへと導かれるって。でも、本当に、私が求めているモノって何なのだろう?」

水晶珠を手に取り見つめる。

珠の中に別の石が入っているとかで、それが光を受けて小さく輝いている。

“今の科学技術では、同じモノは造るコトは出来ない。仕組みすら謎”

店主の言葉。所謂、オーバーテクノロジーなのか、オーパーツなのか。胡散臭いけれど、これはこれで綺麗なので癒される。元々、パワーストーンなどに興味があって、その様な店を見つけると、立ち寄っている。

 でも、この珠を見ていると、何だか切なくて寂しい気持ちになってしまう。

この珠は、昔は、もっと輝いていた気がする。

― なんだろう、ナニかが足りない感じがするのは、如何して?

心の中で、声がした。


 私は、独りの時間が好き。一人だと気を使わなくていい。

だけど、時々、ワケも無く耐え難い孤独感に襲われる。寂しい、切ない。その様なレベルでは無い。半身が無い感じ。そこにいるべき人が、いない。その様な想いが、堪らない孤独感を煽っている。

何時から? 何時からだろう。その想いが強くなってきたのは。

思い当たるとしたら、新しい家に引っ越した頃からだろうか。その頃から、度々その様な感情に悩まされている。そんな想いが酷い時は、決まって、あの、黒いピエロの夢を見ていた。


 黒いピエロの夢といっても、幾つかパターンがある。

幼い日、両親と共に毎年行っていた、遊園地のカーニバル。

その頃の父の工場は、小さな工場で自宅兼だった。繁忙期に、バイトを雇うのがやっと。孫請けの孫請けの様な感じだったのだろう。だから、儲けも少なく、家計も思わしく無かった。だけど、家族との時間は大切にしてくれていた。それが、近くにある遊園地に遊びに行く事。そして、毎年、遊園地のカーニバルにやって来る、サーカスを家族で見に行くのが父との約束で恒例だった。

どんなに忙しくて、疲れていても、その約束だけは、必ず果たしてくれていた。

今、思うと、その頃の私の家は、家計は苦しく、同級生の中でも貧乏扱いされていたと覚えている。皆が普通に買って貰える物を買って貰う事は無かった。服とかも、親戚や譲渡品のお下がり。

でも、私にとって、そんな物は如何でも良くて、サーカスを一緒に見に行ける事の方が、ずっと嬉しかった。だから、毎年、その季節が待ち遠しかった。

幼かった私は、それが、ずっと続くモノだと信じて疑わなかった。

 賑やかで楽しい音楽。甘いお菓子の匂い。両親に両手を引かれて歩く遊園地の人混み。園内にある広場に、色鮮やかなテントがあって、その周りで、お菓子や風船などを配っている派手な衣装のクラウンや、ドレスのお姉さん。子供達は、我先にと走って行く。お菓子や風船を貰うために。私は、そちらへは向かわずに、あの、黒いピエロのもとへと向かう。彼は、何時も一人だけ離れた場所から、様子を伺っていた。黒いピエロに逢えるだけで、私は、何もいらなかった。そして、彼は、何時も何処からか、風船を取り出して、私にだけ渡してくれた。彼と、どんな話をしたのかは覚えていないけれど、そのピエロは、私に気付くと必ず、手を振ってくれていたのを憶えている。


 両親と三人で毎年行っていた、遊園地のカーニバル。そして、生まれてくる弟を一緒に何時か、一緒に行けると良いなと、思っていた幼心。幼い姉になる想い。弟が生まれた年、何処の工場も大企業も造る事が出来なかった、ある重要な機械の部品を、父は完成させた。唯一無二の存在になった。それは、業界にとって大きな出来事で、一躍有名人になった父。父の喜びは何よりも凄かった。母もまた。時々バイトに来てくれていた人も、皆で喜んだ。

世界に名だたる大企業や大学の研究機関ですら、造る事の出来なかった物を、小さな町工場、倒産しかけ状態で、完成させた事に、世間は驚いていた。幼かった私には、解らない事だったけど、皆が嬉しそうにしているので、これは良い事なんだと思った。

そう、父の成功に、皆が喜んでいるとしか。だから、嬉しかった。

 弟が生まれ、私は姉になり、父の仕事もあれから順調になり、同級生達が普通に持っていた玩具を買って貰い、服もお下がりではなく新品。自分だけの物を買って貰えるようになった。

でも、それが、一番良い頃の思い出で、嬉しかった思い出。

そして、また、それは、一番悲しい想い出になってしまうとは、その時の私には、思いもしなかった。

 その様な感じで、家族で楽しく過ごせていたのは、父の成功から、半年程だけだった。

私の知らないところ、まだ何も解らない歳。周りは、激しく変わりつつあったのだった。

一年が経つ頃になると、父は新しい仕事関係の人達と付き合う様になり、それまでの生活習慣が変わっていった。殆、家には帰らなくなった。幼かった私は、単純に新しい仕事で忙しいだけだと思っていた。今までも、夜中まで仕事をしている姿を見ていたから。ただ単に思い込んでいた……。

 去年は、弟が生まれたばかりで、遊園地のカーニバルには行けなかった。今年は行ける。弟を入れた、家族四人で行けると。その事を母に言うと「お父さんに聞いて」と淡々とした口調が返ってきた。

その時の母の口調と態度は、今も覚えている。何時もの母とは違っていたから。

今思うと、既に母は知っていたのだろう。でも、幼い私は、その様な事を知らず、父の帰りを待っていた。今日は帰って来る、明日こそと。もう何日も帰って来ていない父親を待ち続けていた。

数日振りに帰って来た父親。何の疑問も無く

「今年のカーニバルには、皆で行けるよね」

と聞いた。毎年の約束。胸は期待で一杯だった。何時もなら、どんなに疲れていても、忙しくても、笑顔で答えてくれる。だけど、父は変わってしまっていた。

「ダメだ。無理だ。行きたいなら、お前達だけで行ってこい」

数枚の万札を、私に押し付ける様に渡すと、忙しそう……煩げに、また家を出て行った。

例え様の無い悲しい思い出。

―父さんの仕事が成功したら、大きな家を建てて、綺麗なお花がたくさん咲く庭を造って、皆で仲良く楽しく暮らせる様に。父さん、頑張るから―

母と幼い私に、何時もニコニコしながら話していた、夢。私達、家族の仄かな夢。

 だけど、仕事の成功で莫大な金額が入り、付き合う人達も変わった。同じ様な町工場の人達ではなく、大企業とか上流階級。その頃から、父は徐々に変わっていった。拝金主義を嫌っていたのに。付き合う人達に流されたのか合わせようとしたのか、いつしか拝金主義的な価値観を抱く様になっていた。

散々、拝金主義を嫌っていたのに。

仕事の成功で、喜んでいられたのは、ほんの一年足らず。その先は、大企業の傘下に入り、新しい人間関係。小さな町工場が、どうやってあの重要な部品を造る事が出来たのか。それに関する、工程や特許、大学などの研究所など、あちらこちらから、ひっぱりダコの様に人付き合いは変わるは、入ってくるお金は、莫大。世界の注目も浴びる。その辺りから、変わってしまったのだろう。

小さく貧しい暮らしだった。その頃の姿を見せてはいけないと、父は父なりに考えて、そのまま変わってしまったのかもしれない。小さな町工場の父の姿では、ダメだったのだろうか? その辺りの事は、未だに解らない。

世間は、知っている事なのに。小さな町工場で造られた事を。その生活感を知っている筈なのに。大企業の人達だって、上流階級所謂セレブな人達だって。

その人達と付き合うからといって、自分の信念までも変えてしまう事は無いと思う。でも、それを周りが許さなかったのかもしれない。

父は、変わった。それだけが、事実。

 結局、その年も、遊園地のカーニバルに行きサーカスを観る事は出来なかった。そして、カーニバルが終わる頃、新しい家へと引っ越した。遊園地から、ずっと遠く離れた土地に。

私は、友達と別れるよりも、二度と、遊園地のカーニバルのサーカスが観れない、あのピエロに逢えなくなる事の方が遙かに悲しかった。幼い私にとって、とても辛い想い出となってしまった。


 新しく建てた大きな家。生家である工場兼住宅とは、比べ物にならない。広い庭には、専門の職人がいて、全て手入れをする。キレイな庭。

家族の夢はカタチにはなったけれど、思い描いていたモノとは違っていた。

その頃には、もう家族は家族では無くなっていた。

父の成功が余にも大きく世界的な事だったのも一因なのかもしれない。専門知識すら無い父が、代々続いてきた稼業の工業部品の下請けの下請けのような工場で造り上げた。努力と代々の技術の成果なのか、運なのかは、解らない。でも、造り上げたのは事実。本人も解っていない様子だった。だけど、利権や金銭が絡んできて、何時しか父は変わった。製図から工程。それだけで、莫大な金額が動き、大企業・大学・研究所などが、その部品の造り方を分析していたけれど、どうも上手く再現出来ない。だから、父に群がる。

小さな町工場は、大企業へと変貌をした。父が実質トップ。父の指示通りに工程を重ねて、初めて完成する。そんな部品だった。運としか言えないものだ。本人は理解していない。だから、それを研究するのは利権を買い取った大企業。

父は、工程を指示するだけしかできない。それでも、皆は、父の機嫌をそこねない様にしていた。

全てが変わってしまったのだ。父も家族も。周りの人達も。

 今もハッキリ覚えている、歩き始めた弟を連れて、新しい家を出て行く母の後姿を。私を置いたまま、振り返る事無く。そして、そのまま帰る事はなかった。家政婦や庭師達のヒソヒソ話で、父と母は離婚したと知った。家の者からは、腫物に触るように接しられた。父は、相変わらず帰って来ない。

私は、大きく広い家の中で、誰からも置き去りにされている感じがしていた。


 小学校卒業前に、小中高一貫のお嬢様学校へ転校させられた。そこでも、特に仲の良い友人を作る事もせず、ただ流れに流されていた。抜け殻になっていたのだろう。今思うと。今でも、そうだから。

自分の部屋は、一人部屋には広すぎる程。あらゆる書物が買い与えられ、家庭教師を付けられて、私の世話をする専属の使用人も付いた。

そして、多額のお小遣い。高校生のバイト代以上の金額。使う事も無く、遊びに行くことも無く、貯金していた。自室では、勉強の時間以外は、本を読むか、抜け殻の様に何もしない時間を過ごすかだった。

嬉しくも無い。ただ戸惑うだけ。悩みすら解らない。空っぽになれば、楽になれると思ったのは、その頃からだ。


 やがて、新しいお母さんと紹介されたのが、路子さんだった。父は、私の知らないところで、再婚していたのだ。母が弟を連れて出て行って、一年程後の事だった。

路子さんは、継母として、なんとか、私を受け入れようとしてくれていたけれど、私にはそれが理解不能だった。第二次反抗期の中、誰からも関わられたくない状態だった私は、路子さんに対してどう応じたらいいのか解らず、部屋に引きこもる生活をしていた。ただ、強制的に学校へは行かされていた。送迎付きで。何もかもがどうでもよくて、抜け殻なの生活。

 路子さんは、老舗会社の一人娘で、倒産しかけていたところを、知名度とブランド名欲しさになのか、結婚を条件に、路子さんの実家の会社の負債を立て替える。それで、路子さんの実家の会社は持ち直したのだと言う。

その話を聞いたのは、お手伝いさん達からだ。ヒソヒソ話していたのを聞いてしまった。その時、私は高校二年。もう、大人達が何を話しているか理解出来る。その話に対して、生まれたばかりの、望ちゃんが少し不憫に思えた。

父と路子さんの間に、夫婦愛というものはあったのだろうか?

そして、ヒソヒソ話をされている事を知っているのかいないのか、オットリとしている継母に対しての反発と、父親に対しての嫌悪感が生まれそれは日々強くなっていった。

つつましやかに、誠実に暮らしていて、仕事に一所懸命だった父親は、もういない。家族の事を何よりも思っていたい父親は、もう何処にもいない。もしかしたら、幼い私が視ていた父親は幻だったのかもしれない、家族もマヤカシでしかない。そんなもの存在しない。もう二度とあの頃には戻れない。抜け殻の私は、毎日そう思い続けていた。だから、友人は作らなかった。良い所のお嬢様学校だったので、イジメとかは無かったけれど、それでも、馴染めなかった。私は、庶民の底辺で育ったのだから。

そして、この家に、自分の居場所など無いと感じ始めた。

 それで、一度、母親の住んでいる家に行ってみたけれど、母も再婚していて、私の居場所は何処にも無かったコトに気付かされた。

家出も考えたけれど、無理そうだったので、引きこもる事にした。自分の部屋に、家庭教師が来る日以外、引きこもり学校も上の空だった。

「大学に進学しろ」

と父は言った。何処の大学でも良いと言ったので、一番遠い場所にある大学へ、変わったゼミがある、今の大学を選んだ。父は無関心で

「卒業だけはしろ」

ただそれだけ。

レベルは高くないけれど、受験に必死な私に対して気を使う路子さん。遊んで欲しそうにしている望ちゃん。父は家にはいない。

―私は、何時も独りっきり。ずっと昔から、独りだった……?

時々襲てくる孤独感は、生立ちに原因があるのかもしれない。

父が許せない。嫌悪の対象なのに、その経済力に甘えている。もう一人の自分。その自分に対しての嫌悪。自立出来ない自分に、何時も苛立ちを覚える。

このままでは、いけない。このままでは、何も変わらない、変えられない。

私は、この現状をどうすれば、変えるコトが出来るのだろう?

水晶珠を見つめ考え込む。じっと、珠を見つめていると珠の中に入っている石の色が変わった様に感じた。昔、流行った玩具で、体温や汗に反応して色が変わるアレと同じ原理なのか、それとも、本物のアイテムなのか。

溜息を吐く。気分は沈んだまま。

だけど、今あるものを、進めないといけない。過去に囚われていてはいけない。自分に言い聞かせ、気を取り直し、レポートを書く。不安定だとか無気力だとか、それではダメなんだ。父のスネを齧る自分は、結局、嫌悪している父親を当てにしている事だ。全て、振り払って自立したい。その為には、やるべき事をやっていくしかない。自分でしっかりと立たないといけない。

そう思っても、現実とのギャップ。それが、また苦痛。

 でも、ゼミの旅行で行った、あの古都での出来事で、私は少し前向きになれたのかもしれない。

前世の記憶、輪廻する魂の存在を認めたからなのかな?

レポートを書く手を止めて、水晶珠を見つめる。

本当に、この珠に呼ばれたのか?

そして、どうして、夢の中で、ピエロから貰った物とよく似ているのか?

教授も千早も、前世説を言っていた。

もしそうなら、幼い日の記憶だけでなく、前世の記憶も関係しているのかもしれない。もしそうなら、前世の問題を現世で解決したならば。

この孤独感や空虚感は、癒されるのかな。そして、現実と向き合えるのかな?

そう思いながら、水晶珠を見つめると、また中の色が変わった気がした




  メロディー


 レポートを書いたり、課題を片づけたりする。それらを終えて、ようやく夏休み感が出てくる。夏休み前に買い込んでいた本を読んで、残りの夏休みを過ごす。

本を読んでいる時だけは、何故か孤独感や空虚感を忘れる事が出来る。何時も時間を忘れて、寝食すらせず読み続ける時もある。本を集める、読書が、唯一の趣味と言ってもいいかもしれない。だから、部屋の半分は書庫と化している。

夏休み前に買い込んでいた本も、全て読み終えてしまった。他にする事も特に無いので、久しぶりに街へ出掛けてみる事にした。


 今日は、夏休み最後の日曜日ということもあってか、通りは何時もより人が多い。大学の夏休みは、もう少し残っている。

賑わう街並み。夏が終わるというのに、相変わらず照り続ける太陽の陽射しは、眩しい。汗も流れる。ずっと空調の整った部屋に籠っていたせいか、残暑が堪える。そして、人混み。

それでも、時折、吹く風は秋の気配を感じさせた。特に目的も無い。何時もの様に、書店巡りをする。普段なら、親子連れなどあまり見かけないけれど、最後の日曜日とあってか、よく見かける。

“親子連れ”家族に関しては、未だに蟠りがある。その思いを、他人の親子連れに重ねてしまう自分がいる。虚しい。

きっと、楽しげにしている親子連れに対して、心の何処かで嫉妬してしまっているのだ。……解っていても。

ゼミの旅行から帰って来てからは、あの古都が出てくる夢は見ていない。ずっと見ていた夢だったので、少し懐かしさがあり寂しさもある。古ぼけた小さな家に住んでいる、孤児の小さな私。もう、その夢は二度と見ないと確信している。あの店での出来事が、区切りだったのかもしれない。

 でも、現実の幼い頃の思い出の断片は、今も夢に反映されている。その夢に、何かの意味が在るのかは、解らないけれど。

きっと、幼い日の、トラウマ、トラウマなんだ。

夢のコトや前世のコト、幼い日の想い出、父の事を考えていると、未来がまったく見えてこない。この先に進めるのかすら解らない。過去に囚われて、逃げて自分の殻に閉じ籠っている。そんな私に、未来なんて描けるはずがない。

私が求めている事は、結局、誰にも答えられないし、教えてもらう事でもない。

何が正しくて、そうではないのかを、生きる理由とか目的とかが、解らない。だから、皆、その目的はイコールお金なのかもしれない。

お金が無いと現代文明の中では、生きてはいけない。でも、私は、お金は生きる為の手段であって、目的では無いと思う。世の中には、何より全てお金が大切、絶対的という人もいる。本当にそうなのかな? まあ、価値観の問題。

お金は、空気とよく似ている。バランスのとれた空気の中でしか人間は生きられない。酸素が多すぎても少なすぎても、生命活動は行えないのだ。だから、

お金も、ありすぎたら、トラブルの元になるし、無かったら、社会生活が出来ない。お金なんて、自分の身の丈あれば、十分だと思う。

多すぎる財には、禍を招くと、何かで読んだけれど、お金が集まるにつれて、悪いことも多くなるのではと、いうもの。

人間には、多くのお金より他に、もっと絶対的に必要で大切にしないといけないモノが在るのだと思う。

それって、何だろう?

父も、何時かそのコトに気付く時が来るのかな?


 楽しげに何かを話ながら歩いて行く親子連れ。その姿に、幼い日の自分を重ねてしまう。前を歩く親子連れの子供、あの子の年頃だった時は、毎日が新鮮で、楽しかった。きっと、まだ何も知らない純真無垢な心だったから……。

雑踏の街。その様な場所は、何も考えなくて済む。そう思って外出したけれど、時季が悪かった。気晴らしのつもりが、逆効果だ。色々考えて、憂鬱になる。

そういう時は、必ず、幼い日の自分と親子連れの子供を重ねてしまった時。きっと、叶えられなかった約束と、楽しかった思い出が交錯しているのだろう。

だから、なるべく親子連れからは、離れて歩く。

すれ違う同じ年頃の女の子達が、楽しそうに話ながらはしゃいでいる。

そういう人達さえ、別の次元の人間に感じてしまう。離れて行っても、聞こえてくる笑い声。何時も想う、そういう人達に悩みってあるのかなって?

他愛の無い事さえ、その明るさが元気さが、羨ましく思えてしまうのは、如何してだろう。

父が変わらなければ、家族四人で一緒にいたならば、今の私とは、また別の私が存在していたのかもしれない。あの彼女達の様に、他愛の無い話で、笑ったりしている私が。

 父に対する嫌悪。それは、中高校生の女の子が、父親に対する嫌悪感とはまた違った嫌悪感。何時か、その思いを消せる日が来るのだろうか。考えても解らない。その考えを振り切る様に、私はただ、雑踏の中を歩く。歩き続けていた。


 ビルの窓ガラスに、陽光が反射していて眩しい。歩き続けているせいか、汗が滴る。その汗をハンドタオルで拭う。ビルとビルの間の狭い路地の奥へと、光が差し込んでいるのが見えた。異国の古都を思い出す。あの古都の路地には光は差し込んではいなかった。でも、ゴミなど落ちていなかった。手入れの行き届いている感じだった。だけど、都会の路地などには、ゴミが落ちている。この路地も、ゴミと埃の吹き溜まりの様な場所。差し込む光に、埃が舞っていた。都会という雑踏には、こんなにもゴミが散乱しているのかと、改めて思った。

私は、あの古都の様な静かで時が止まったかの様な場所が、何故か懐かしく感じる。それでも、雑踏を歩くのは気がまぎれるから。矛盾している思い。

路地からまた大通りに視線を移し、歩き始める。ビルとビルの間から、空が見える。その空は、遠くに見える。眩しい空には、西へと向かって飛んでいく飛行機が見えた。目を細めて、飛行機を見つめる。陽光を機体に反射させて、白く輝くラインを、一直線に引きながら、街の上空を飛び去っていく。ラインはやがて、オレンジ色に変わりながら空に溶けて消えてゆく。そのラインが消える瞬間が綺麗だった。そのまま立ち尽くして、空を見上げていると、一陣の風が大通りを吹き抜けていった。都会の臭いの中に、幽かに秋の匂いが感じられた風だった。

アスファルトの割れ目からか、歩道の植え込みからなのか、虫の声が聞こえてきた。こんな都会にも、ちゃんと生きているのだなと思うと、少しだけ心が安らいだ。

「もう、秋なんだな」

呟きは溜息になった。空を再び見上げると、飛行機はすでに、遙か西の空、小さな光の点となっていて、消えていった。

 街に流れている色々な音楽が、混ざり合って何か不可思議な音楽に聞こえる。大通りには、人と車が少しずつ増えてきて、それは何処か、忙しなさを感じさせた。

そういえば、毎年、今頃だったと思う。あの遊園地のカーニバルにサーカス団がやって来ていたのは。

 西へ傾いている太陽を見ていると、思い出してしまった。太陽は、大通りの向かいのビル群の長い影をこちら側のビルの方へと伸ばしていた。その影は少しずつ濃くなってくる。そんな街を、私はまた歩き始めた。

私は、この時季の夕暮れが好き。如何して好きなのか問われても、理由なく好きとしか答えられない。きっと、夕焼けの空が創りだす色々な物の影が、重なり合う影が、形を変えていくのが幻想的で、あの頃の私にとっては、フシギなモノだったからなのかもしれない。だから、好きなんだとしか。

ゆっくりと歩きながら、夕暮れへと変わりゆく街を見つめていると、何処からか、何時か何処かで聞いた事のある曲が流れてきているのに気付いた。

始めは空耳かと思ったけれど、耳に意識を集中させたら、確かに、“その曲”は聞こえてきていた。


―このメロディーは。微かに聞き取れる程のものだけど、とても懐かしいメロディーだった。このメロディーは、何処から流れてきているのだろう。街にざわめく音の中から、そのメロディーだけを探す。掻き消されそうな程小さな、メロディー。耳を頼りに必死に探す。耳と記憶を頼り、そのメロディーを辿り探す。車道を挟んだ向こう側から聞こえてきている気がして、通りを渡る。そちら側のビルとビルの間から、幽かだけど聞こえてきている。ビルの谷間、うす暗い路地、そのずっと向こうから聞こえて来るようで、路地へ入った。

その路地は、車一台通れそうなのに、あの古都の路地より狭く、そして、寂しく感じたのは何故なんだろう。それよりも、このメロディーの元を見つけるのが先。錆臭い路地の角を曲がった。

その瞬間、視界が紅くなった。眩しさに目を閉じて、そしてゆっくりと開くと、紅く眩しい夕日が目の前に現れた。

 そこは、ベッドタウンを一望できる高台の様な場所だった。ビル群を抜けた先には、空が広がっていた。随分と久しぶりに、広い空に浮かぶ夕日を見た。

「この街にこの様な場所があったんだ」

暫くそこに立ち夕日を見つめていると、微かだった音が、聞き取れる位の小さな音で、流れて来ている事に気付いた。小さい音量だけど、ハッキリと聞こえる。この近くなのか? 辺りを見回す。車道の向こうには、ガードレール。そのガードレールに沿う様に緩やかな下り坂。ガードレールの向こうには、森が見えている。道を渡り、ガードレールの側へ。メロディーは徐々に近づいているのか、もう聞こえる。どうやら、下に広がる森の公園か聞こえてきているようだった。近くに、緑化公園と書かれた看板がある。もう一度、森を見つめ探す。ふと、視界に入った。胸が高鳴った。

森の中に、目立つカラフルなテント。

メロディーとカラフルなテント。私は、両方を知っている。想い出と記憶が交錯してリンクする。その瞬間、私は走り出していた。ガードレールに沿って坂道を駆け下り、公園の入り口を探す。何度も転びそうになりながらも、走って。そして、ガードレールの切れ目から、公園へと降りる階段を見つけ、駆け下りると、森の中を公園の中を、走って、テントの場所を探す。

メロディーは、もう耳に集中しなくても、よく聞こえる。そして、森の木々の間から、カラフルなテントが見えてきた。走り続けて、息が切れ足がもつれる。それでも、止まる事が出来なかった。木々の間を抜けると、そこは広場になっていて、そこに、カラフルなテントとメロディーが在った。

懐かしい。

カラフルなテントに、このメロディー。

随分と久しぶりに本気で走った。足はフラついている。ふらふらとテントに歩み寄る。胸が激しく打ち続けているのは、どちらのせいだろう。走っただけではない。胸は、痛い程打ち続けている。

呼吸が落ち着くのを待つ。だけど、テントは解体が始まっていた。その辺りにいる子供達に、派手な服のクラウンが風船を配っていた。風船を貰って、嬉しそうに帰って行く子供、その場で解体されるテントを見ている子供、それを遠巻きに見ている親。子供達は色とりどりの風船を手にして、お互い戯れている。

あの日の光景を見ているようで、胸の深い処が痛んだ。この痛みは、幼い日の想い出なのか、ただ走りすぎたせいなのかは、解らない。

ただ、まだ、あのサーカス団は存在していて活動していた。それを確認出来て、嬉しかった。だったら、あのピエロもまだ、このサーカス団にいるのかな?

独りだけ違う雰囲気のピエロ。あの頃は、ピエロとクラウンの差が解りもしなかったけれど、今は少し解る。メイクが違う。ピエロは涙を描くのだ。

涙を流しながら笑っている。高校の頃読んだ本に書いてあった。それがきっかけで、幻想文学のゼミがある今の大学に入ったんだ。まぁ、あの家から一番遠い大学に入ったのは、家から離れたいと思ったから。

 そのピエロに逢いたいだけに、遊園地のカーニバルに来るサーカス団を見に行っていた様なもの。ピエロの名前は、知らないまま。

サーカス団の誰かに聞けば判る事なのに、それだけの事なのに、私には尋ねる勇気が無かった。ピエロは孤独を好み、他人との関わりを嫌うという話。本当かどうかは解らないけど。

私にとっては、大切な想い出のピエロ。でも、ピエロからしてみれば、私は一人のお客に過ぎないのかと思うと怖くて聞けない。

その場に立ちつくしたまま、解体されていくテントを見ている間にも、辺りは暗くなっていき、子供達も帰って行った。流れていたメロディーも消えた。

辺りは静けさに包まれていた。その中で、解体作業の音と声、そして、虫の声。

秋の虫だった。

テントは、骨組だけになり、それも解体されていった。

私は、何も言えないまま、立ちつくしていた。

たった一言。なのに、その勇気が無かった。涙が零れそうになる。

肌寒い風が吹き始めた。辺りはすっかり暗くなり、森の木々の空の向こうに、幽かに紅い太陽の欠片が見えていた。


―もう、いいや。

溜息を吐き、その場から立ち去ろうと来た道へ歩き始めた、その時だった。

不意に背後から声がした。

「これ、余りものだけど、あげるよ」

明るい女性の声だった。何の事かと振り返ると、そこにはステージ衣装の中年女性が、白い風船を持って立っていた。驚いたけれど、その人には、なんとなく見憶えがあった。確か、トラとかの猛獣の芸をしていた人。年は取っているけれどその人だ。ニコニコと笑って、風船を差し出す。

「御嬢さん。今回はもう終わってしまったけれど、良かったらこれだけでも、貰ってくれると嬉しいな」

愛想よく言う。私は、おずおずと風船を受け取ると、勇気を出して聞いてみた。

「あ、ありがとう。あの、お聞きしたい事があるのですが」

たどたどしい私の口調にも関わらず、中年女性は

「なんだい?」

と、気さくに答えてくれた。

「このサーカス団に、変わった鳥を連れている黒い服のピエロっていますか?」

それだけの事なのに、上手く喋れない。また胸の深い処が疼いた。

すると中年女性は、ああ。という表情で

「それって、ギルディの事ね。あのヘンテコな鳥が彼の相棒。なんでも 極楽鳥の一種とか言っていたなぁ。せっかくなんだけど、彼、このところ用事があるとかで、顔を出していないのよ。まあ、ピエロやっている位だから、あえてこちらも干渉しないし気にしないんだけど」

明るく答えてくれたので、少し気が楽になった。

あのピエロ、ギルディって言うんだ。

「何か、ギルディに用でもあったのかい? 珍しいねぇ。ギルディを訪ねてくる人がいるなんて」

言われて、返答に困る。

「いえ。そういう訳では。通りすがりに、幼い頃よく観に行っていたサーカス団と同じテントと音楽を見つけて、それで、懐かしくて、同じサーカス団なのかなと、思って」

そう答えるのが、精一杯。

「それで、ここに来て同じサーカス団と分かって、一番よく憶えている、黒い服のピエロ。そのピエロは、今もいるのかなぁと思って」

すると、中年女性は、とても嬉しそうに顔を輝かせ

「そう言ってくれる人達がいるコトが、私達は嬉しいの。ああ、続けていてよかったなって思えるの」

その思いが、少し申し訳なく思えた。

「うちのサーカス団のナニかが思い出になっていてくれる。それだけで、充分なんだよ。うちみたいに、小さくてアナログなサーカス団は、もうわずかしか残っていない。皆、辞めてしまった。でも、うちはもう少しだけ続けていくつもりだから、何処かでド派手なテントを見たら、観に来てね。その時には、ギルディも戻っているだろうし。その時に、言ってあげなよ。かなり変わっているけれど、あれで結構マメなところもあるから。きっと本人も嬉しい筈よ」

彼女は、私の手をぎゅっと握った。優しい温もりのある感じがした。

「はい。観たいです」

なんだか、照れ臭い。

「うん。ありがとうね。それじゃあ、また何処かで」

言って、手を振りながら、中央の柱だけになったテントの方へ戻って行った。私なんかより、ずっと若々しく感じた。

あのピエロに逢う事は出来なかったけれど、名前を知る事は出来た。芸名だけど。

「ギルディ」

暗くなってしまった公園の森の道を歩きながら呟いてみる。

辺りは、肌寒いほどで、昼の暑さが嘘の様だった。


 想い出のピエロに再会する事は出来無かったコトは悲しいけれど、名前だけでも知る事が出来た。風船は、彼から直接貰いたかった。そよぐ風に白い風船は揺れて、視界に入ったり消えたりしていた。

―ギルディ  有罪?

如何して、その様な芸名にしているのか不思議だった。ピエロ故なのかな。

その名前の由来、何時か再会した時に聞けるかな? なんだか、胸の痛みが増した気がした。


 自分の部屋に帰り着いたのは、午後八時過ぎ。つい先日までは、うっすらと明るかったけれど、すっかり暗くなっている。締め切っていた部屋の窓を開けると、初秋の冷えた夜風が吹き込んできて、澱んだ部屋の空気と入れ替わる。ベランダで、夜風にあたりながら、独り想う。

久しぶりに走ったので、足はがくがくしっぱなしで痛い。部屋へと吹き込んだ風で、白い風船はユラユラと揺れていた。

もう秋だ。さすがに、マンションの最上階までには、虫の鳴き声は届かない。毎年の事だけど、秋になるにつれて、虚しく、そして悲しくなる。季節の変わり目は、心が揺らぐ。何故なのだろう。

移りゆく季節が、あらためて時の流を感じさせるからなのかな。

どういうことなのか、自分でも解らないけれど、どういうわけだか時の流に対して、とても強い空虚感を覚えるのは、どうしてなの?

……私は独り彷徨っている……。

誰の囁きでもなく、自分の心の奥深い処から聞こえた感じがした。

きっと、根底には、幼い日の想い出。一番幸せだった頃の思い出。あの遊園地に来る、サーカス団を家族で毎年観ていた、ささやかな幸せ。

部屋に戻り、貰った白い風船を見ては、溜息を吐く。

溜息ばかり吐いていると、幸せが逃げて行くというけれど、それ以前に、幸せを感じていた頃には戻れない。それは、今では悲しい思い出でしかない。今が幸せかと言っても幸せは感じない。ただ、不自由はしていない。それが幸せなのかもしれないけれど、私は認めない。

迷てっている。何処へ向かうのか向かえばいいのか。暗い闇の中を独りで彷徨い歩いている感じ。それは、現実とリンクしていて、想い出の中でしか生きれない、想い出・過去に囚われているからかもしれない。

今あるのは、幼い日の残像。そして重なる、もう一つの―前世の残像。

それが浮かんでくる度、とても言葉にならない感情になって、涙が溢れては零れ落ちていく。貰った白い風船を見ていたら、涙が溢れてきた。

私は、無意識のうちに、あの珠を握りしめていた。ふと、掌の中の珠を見ると、涙で、滲んだのか珠の中に、幾つもの光が浮かんでいる様に見えた。

「―逢いたい」

それは、あのピエロ・ギルディに対するものなのか、それとも前世との関わりのあるモノに対してのモノなのか解らない。ただ、締め付けられる程、胸が一杯だった。


 都市の灯りが、まるで星空の様に見える場所。幽かに光を帯びている羽を持つ鳥は、その上空を旋回し、都市の灯りを見つめている人影のもとへと降り立った。

「―ギルディ。どうして、あの娘と逢う事をしなかったのさ? 用も無いのに世急用だとかで、わざわざ、あのサーカス団から離れる事をしたんだ? そんなことをする必要があったのかい? あの娘は、君のコトを憶えているのに」

鳥は、ギルディを咎める様に問う。それに答える事なくギルディは、ただ都市の灯りを見つめていた。そんなギルディに鳥は、何度となく返答を求めた。

遠く近くで、虫の歌声が幾つも聞こえ、吹く風が木々を揺らす以外に音の無い静かな場所。

鳥の最初の問いから、かなり経って、ギルディは小さな溜息を吐き

「まだ、ダメなんだ。僕の中で整理がついていない。それに彼女、遥にとって、僕は“幼い日の想い出”でしかない。だから、今、逢ったりすると、逆に遥を苦しめることになってしまいそうだから。まだ、逢う事は出来ないんだ」

力なく答える。

「でも、逢う事を恐れていたら、何も出来ないまま、あの娘は今生を終えてしまう。あの娘は、あれ以上の前の前世の記憶を想いだす事もないかもしれないぞ。それは、それで、君にとっても辛い事ではないのでは?」

鳥は、何故か叱咤するかの様に言う。

「恐れていないと言ったら、嘘になる。だけど、再び逢うとしたら、もし再会するとしたら、あの遊園地でないといけないんだ。もし、この先,縁なるものがあるならば、きっと、あの場所で、あの遊園地へと遥はやって来て、サーカス団のテントで。だから、遥と逢うのは、その時でいいのさ」

ギルディは消えそうな声で、そう答えた。

「はぁ。君がそうしたいなら、そうすればいい。再会の事に関して私がこれ以上、口をはさむことは無い。再会は、君が決める事だ。君の宿命が果たされる時、私も己の宿命から、解放され輪廻の中へ還れるのだから。お互い、その時を願おう」

鳥は、少し不服そうに言うと、夜空へ舞い上がり、ギルディの上で旋回する。

「世界は、いつの間にかすっかり、変わってしまった」

眼下に広がる都市を見下ろして、鳥は呟いた。ギルディは、鳥を見上げ、そして、また都市の灯りを見つめる。

「僕はまだ、赦されていない。赦された時、きっと、あの場所で、逢えると信じているよ」


   四章 扉



 雨が激しく降っていた。遠くの空が光っては、雷鳴が重く響いている。

雨は、さらに激しくなり窓を打ち付け、風が鳴いていた。木々は緑色に茂らせた葉を大きく揺らしている。風雨に掻き消されることなく聞こえて来るカエルの声。

何気なく窓の外を見る。気が付けば、一年が過ぎ去っていた。

 去年までは、引きこもりがちな生活をしていた。自分でもよく解らない理由で、無気力と空虚感で一杯だった。去年の夏休みに、ゼミで行った旅行以降、なんとなく道が見えてきた感じがした。今年は、大学四年。引きこもってはいられない。出席はしているし、単位も落としていない。だけど、進路は決まっていない。決めれないのだ。周りの学生は殆が内定していたり、決まっていたりしている。何件もの就職試験を受けている同級生。私は、就職セミナーにすら出席していない。先は見えない。多分、視ようとしていないのかもしれない。

留美も、出版社から内定を貰っていた。千早は、本命だった大学への編入試験を受け合格したので、卒業と同時に本命だった大学へ通う事になっている。今の大学は滑り止め。本命の大学には、唯一、民俗学専門の学部があり、そして、その大学に通いながら、神職の資格を取る勉強も並行してすると言っている。

皆が、色々と行動をしている中で、私だけが立ち止まったまま。

“道”は見えてきたと言ったけれど、それは、卒業と云う道でしかない。

そこから先の事が、如何しても考えられない。就職か大学院か?

 秋場教授の講義を聴きながら、考えていた。何時も、強気に我が道を貫く教授の力説と振る舞い。それは、教授が確固たる自分の世界を持っているから。

私も、その様な自分になれるのか? 窓の外を見ながら考えていた。

外は激しく雨が降り続いている。この雨が通り過ぎれば、夏だ。

去年は、追試とペナルティーのレポートや講義で忙しかったし、ゼミ旅行もあってか、夏を感じる事が殆無かった。

今年はどうなるのだろう。今のところ、ペナルティーは無い。前期の試験が無事に通れば、自由な時間がある。出来れば、ゆっくりと本でも読みながら過ごしたい。ボーっと窓の外を見つめていると、チャイムが鳴った。静かだった構内は一気にざわめき始める。

「それでは、何時もの様に、レポートの期限は厳守。試験最終日までだ。卒論も出来るだけ早く提出すること」

教授は、早々と教室を出て行こうとする学生に向かってか、わざと大きな声で言った。


「はぁ。終った。後は試験だけ。夏休みだ―。ねえ、お昼はどうする? 何処で、食べる?」

留美は、さっさと片付けて鞄を抱えていた。

「私は、何処でもいいけど。昼から、図書館で試験勉強する予定。遥は?」

と、千早。

「私は、選択している講義があるけど」

答えながら、荷物をまとめる。

「じゃあ、何時もの処か」

「そうだね」

他愛の無い会話をしながら、教室を出ようとした時だった。

「亜麻見、ちょっと待て」

教授に呼び止められてしまった。

―嫌な予感。

「何でしょうか?」

扉の処で振り返る。何だ。今年は、サボって無いぞ。進路について、この教授が口出しする様には思えないし。他の教授や講師は煩い。

「お前、以前、サーカス団に興味があるとか言っていただろう」

教授が目の前にやって来て、唐突に問う。

「はい。それが、如何かしましたか?」

教授は笑みを浮べている。この様な時、ろくでもないことを考えている。

「バイトがあるんだが、お前、やってみないか?」

一枚の紙を渡された。求人票だった。就職やアルバイト関係の部屋に置いてある物だった。見ると、『イベント業のアシスタント・軽作業等』と書いてある。

「これが、私と関係しているのですか?」

バイトなんてやったこと無いし、興味も無い。

「見たまま。バイトの求人。さすがに、サーカス団の求人は無いけれど、ここなら、様々なイベントをバックでサポートする仕事だから」

「はぁ」

意図が解らない。

「あの、私、一度もバイトをした事が無いのですが。それに、対人スキルは底辺だし。そんな私より適任な人いますよ」

面と向かって、嫌だとは言えないので遠巻きに、はぐらかす。無理だ、半泣き。

「何事も経験だ。他人の人生なんて知った事ではないけれど、一度、やってみるべきだ。もしかしたら、サーカス団の手伝いとかもあるかもしれないし。来月、規模は小さいけれど、海外のサーカス団が日本公演する。小耳に挟んだ話では、そこの手伝いを請け負っているらしい。定かでは無いが。この際だから、挑戦してみろ、何か見えて来るかもしれないぞ」

ニコニコ笑って、私の背中をポンと叩いた。

「はぁ。追試が無ければの話ですね」

これは、強制だ。

「追試無しにしてやるから、このバイトに行け。というより、追試なんかにならない様にしろ」

バッシと、更に強く背中を叩かれた。

「は、はい」

やっぱり、変わっている教授だ。

「声が小さい。返事は一回。大きくハッキリとした声でする」

珍しく、教授が当たり前の事を言った。

「はい。では、失礼します」

勢いで言った。


 教授から解放されて、三人で構内にあるカフェへと行く。このカフェは旧館にあるので、学生は少ない。

「はぁー。どうしよう、私、バイトなんてやった事無いし。やろうとした事も無いのに」

本当に涙が出そうで、溜息ばかり出てくる。

「やってみればいいじゃない。このバイト、待遇かなり良い方だよ。それに、あれ、教授に強制されていたじゃん」

求人票を見て、留美が言う。

「頑張れ、遥。バイトをするより、教授にバイトの件を断る方が、ずっと恐ろしい事だと思うよ」

千早が、怖い励まし方をする。

教授と二人が言っている事は、普通の事で当たり前の事。その当たり前の事が、私にとっては、自身が無い。知らない人達の中へ入って、その人達に合わせて動くというのが問題。だからと言って、教授にバイトの件を断る方も恐い。

「う、う~ん」

嫌な汗と共に胃が痛くなる。

「教授にも何か、考えがあるんじゃあないの? それに、遥、サーカス団に拘っていたじゃない。これを機会に、業界との接点が出来るかもよ。縁があるのなら、それを掴まないと。これは、きっかけに過ぎない。頑張れ」

と、千早。

確かに、このバイトで、来日するサーカス団の手伝いをする事が出来るのであれば、サーカス業界を知るチャンスかもしれない。そうすれば、あのサーカス団、ピエロのギルディについても何か解るかもしれない。如何して、あの時、サーカス団の名前をきちんと聞いておかなかったのだろう。名前さえ判ればネットで探せたかもしれない。でも、あの時は、黒いピエロについて聞くのが精一杯だったから。『黒いピエロ・ギルディ』と検索してもヒットはしなかった。

「はぁ~」

再び、大きな溜息が零れた。まずは、溜息を吐く癖を直さないといけないな、と自分に言い聞かせた。



 仕方なく、求人票に秋場教授が指定した日時に、その会社へと向かう。金曜日の夕方。来週からは試験なのに。バイトの事まで、気が回らないよ。重い足どりで向かう。紹介してくれた以上、すぽっかすワケにはいかない。教授の顔を立てないといけないし、潰すワケにもいかない。恐る恐る、その会社の入っている古い雑居ビルへと、やって来た。そのビルの一階と二階に会社がある。

どうやら一階が、事務所の様だった。大きく深呼吸して、扉をノックした。

「すみません。あの、秋場教授の紹介で来ました。亜麻見です」

と、呼びかけた。たったそれだけの事なのに、気分が悪くなりそうだった。

「―どうぞ」

扉が開き、中から、年齢不詳の女性が迎えてくれた。会社と聞いていたので、もっと企業みたいなオフィスみたいなのを想像していたけれど、そこは、小さな事務所と応接スペースだけの狭い空間だった。

「失礼します」

マニュアル通りに、振る舞う。就活セミナーに参加していなかったので、これでいいのか解らない。

「ああ。彼の言ってた子ね。気を使わなくていいから、座って」

愛想は良い人っぽいけれど、口調が気になるのは、緊張しているせいなのか。

「亜麻見遥です。秋場教授の薦めで来ました」

如何話していいか、解らない。とにかく、教授に「行ってこい」と言われただけ。初対面の人と話すのは苦手。しろどもどろしてしまう。

「うん。まぁ。色々あると思うけれど、人生何事も経験だと私は考えているから、あなたも頑張って頂戴」

そう言って、日程表をくれた。

「如何しても来れない日以外は、来てね。それじゃあ、試験終わって、夏休みに入ったら来てね」

特に話をするわけでもなく、予め決められていたかの様で、拍子抜けしてしまった。

 事務所を出て、駅へと向かう。その間、何度、溜息を吐いた事だろうか。如何すれば、他人と上手く接する事が出来るのだろうか? このバイトを通して、ソレを学ぶ事が出来るのだろうか? そうすれば、父との事も、全て切り離す事が出来るのかな?

曇っているのか、晴れているのかよく解らない空を見上げる。日が長くなってきている。それにしても、あの女社長、教授と知り合いみたいだけど、如何いう関係なんだろう。まるで、私の事がツーカーで通っていた様だった。


 部屋に帰り着いた頃、雨が降り始めた。何だか、疲れた。ただのバイトの面接に行っただけなのに。荷物を置くと、そのまま、フローリングの床に座り込んでしまった。

「これくらいの事で、疲れていては、この先どうすれば、いいのだろう」

呟くと、また溜息が出てしまった。

 週明けから、試験。私は、一日、机に向かって勉強するタイプではない。他に何かしながら勉強する方が、頭に入る。所謂、○○しながらタイプ。

明日辺り、梅雨明けという気象情報。たけど、窓の外には霧雨の様な雨が降り続いている。空はどんよりとしていて、見ていると気分まで、どんよりしそう。

日曜の昼下がり、試験勉強やレポート、そのものに嫌気がして、気晴らしにと、テレビをボーっと見ていた。とくに見たいテレビでもない。ただの気晴らしテレビをつけているだけ。

何気なく、テレビ画面を見たら、画面の上にテロップのニュース速報が表示された。最初は、その内容が理解できなかった。何度か表示されたのを見て、ようやく、何の事か解った。

―そうか、そう言う事なのか。

頭が真っ白になるという表現があるけれど、真っ白にはならない。むしろ、パソコンのフリーズに近い感覚。そして、なんともいえない感情が湧きあがってきた。私は、一人、部屋で、乾いた笑い声をもらしていた。

面白可笑しくて笑っているのでは無い。哀し過ぎて笑うというのでも無い。ただ、笑っていた。

ニュース速報は、父の会社(何時の間にか大きくなった工場)が、何処かの最大手企業に買収されたというもの。最大手企業が、どうして、父の様な成り上がりの工場を買収したのか。如何して、ニュース速報が出る程のものなのか。

買収相手が、世界でも有名な最大手企業だからなのか。字幕の情報だけでは、詳しい事は解らない。ネットで検索すると

『倒産を免れる為に、買収に応じた。社長(父)は辞任する代わりに、従業員の雇用継続を買収の条件にした』とあった。ヒット数は、極わずか。

そうか……倒産したんだ。いや、そんな状態になっていたのか。私には、何も伝えず。こうして、ネットの情報に頼るしかないのか。実の娘に真実を伝えず、娘は、ネットを頼りに父の情報を探す。それが、家族なのか。いや既に家族では無いと私は思っている。

父本人は、路子さん達は。如何して、私には伝えなかったの?

ただ、心配不安より、放置されていた自分の立場が、虚しくて堪らなかった。それを思えば思う程、虚しく渇いた笑いになってしまう。

夜のニュースでは、少し詳しく取り上げてたけれど、ほぼネットの情報と同じ。

たった一つの成功で、奇跡の大成功と言われた、小さく古い町工場からの今に至るまでの経緯。そして、特許もろとも手放すと、会見している父。

その姿に、昔の面影が無い。よくある、企業や政治家の不祥事会見の様で、とても、昔の父には見えなかった。ニュースは、父の会社の経営が昨年の秋辺りから、傾きかけていると伝えている。年明けと、この春に送金されてきた金額は、授業料と一年分以上の家賃生活費以上のものだった。何時もの年の倍以上の金額だった。特に疑問に思わなかった。父の気まぐれとしか。だから、何時もの様に、幾つかの口座に分けて貯金してある。それが、この結果に繋がっていたとは、思ってもいなかった。ただ、経営に関しては大丈夫なのか? と一時期思ってはいたが。

 そんな金額を、送金してくるより、他にするべき事なり、言うべき事があったはずなのに、結局、私と父はお金でしかつながっていないのかと、思うと、なんとも言えない気持ちだった。せめて、一言、言って欲しかった。

ニュースを見ていると、悲しいのか腹立ったしいのか、虚しいのか、自分でもよく解らない心境になってしまった。

辞任して買収し、従業員の雇用保障。従業員の事は、考えていたのは、本心なのか、それとも社長としての責任からなのかは、私には理解出来ない。

 元々は、名前すら知られていない、小さく古い個人経営の町工場。代々続く、部品工場。繁忙期に、バイトを雇うのがやっとのギリギリの経営。だから、寝る間も惜しんで仕事に充てていた。古い自宅兼工場。それが、ある機械に必要な重要な部品、大手も大学も研究所でさえ造りだせなかった物を、父が造り上げた。その大成功が、生活を人生を大きく変化させた。それまで、融資すら拒んでいた銀行も、掌を返したような接し方、取引を向こうから切った企業も、その成功に、あやかりたいと言い出した。その部品と製造方法の特許と、部品の注文で、大手から多額の金が入り、特許で莫大な利益が生まれ、その重要部品を造る専門の大きな工場を建てた。そして、付き合う人間が変わり、それに伴うかの様に、父も変わっていった。慎ましやかで真面目だった父は、いつの間にか、成金人間になってしまった。そのせいで、私達家族は崩壊した。父がその事をどう思っているのかは、知らないし知りたくも無い。お金で、“約束”を違えた事には、変わりないのだから。

 この先、父はどうするのだろうか? 全て失った様なもの。成り上がりで付き合っていた人間とは、もう付き合えないだろう。取り巻きも離れてしまっているだろう。その事に関しては、私は同情はしない。ただ、路子さんと望ちゃんは、この先どうするのかが、少しだけ気がかりだ。実家に電話を、と思ったけれど、辞めた。今、私にとって、大切な事は、きちんと試験に向けて勉強しレポートを仕上げ、卒論に取り組み、夏休みのバイトに向けて進む事だ。


 賑やかな音楽が聞こえている。子供達の嬉しそうな声が響いている。クルクル回る光とキラキラ光る光は、幾重もの影を作りだしていて、光が動く度に、影も動く。幻想的な光景。

「来年も、来ようね」

小さな女の子が、手を引いている誰かに言っている。

「そうだね。約束するよ」

誰かは、そう答えた。

遠くには、幾つもの風船が空へと舞いあがっていくのが見える。

「絶対、約束だよ」

小さな女の子が言った。


「やくそく、だよ」

私は何度も呟いていた。その呟きにハッとして目が覚めた。

「ああ。何時もの夢か」

辺りを見回すと、自分の部屋のベッドの上だった。ベッドでゴロゴロしながら、ポイントを押さえておこうとして、そのまま眠ってしまっていたようだ。辺りには、ノートやテキストなどが散乱していた。それらを片づけて鞄に入れる。

窓辺へ行き、窓を開くと雨は止んでいたけれど、湿気を含んだ生暖かい風が吹いていた。空はどんより雲と青空が混じりあった空だった。

精神的に不安定になると、見る夢は決まって、幼い頃の遊園地のカーニバルの夢だ。今回の夢には、ピエロのギルディは出てこなかったけれど、父と母と交わした小さな約束。もう二度と、果たされるコトの無い約束の夢。

父のニュースのせいだ。朝のニュースでは小さく扱われているだけだった。所詮は、小さな倒産寸前の町工場が運良く成り上がっただけでそれ以上でもそれ以下でも無い。

 顔を洗い、無理やり朝食を流し込んで大学へ向かう。今日から試験だ。父のニュースなんて、私には関係ないんだ。


 大学へ着く頃には、空は晴れて眩しい陽射しが照り付ける。そのとたん、暑くなり、カエルに変わってセミが鳴き始めた。梅雨が明けたようだ。どんよりとした雲はすでになく、変わりに夏の雲が沸き立っていた。

構内の庭で立ち止まり、空を見上げる。まるで、私の胸の内とは正反対の様な空。考えたく無くても、つい考えてしまう。


 それから数日。試験最終日。今の処クリアしている。後は、一科目だけ。

クリアしているとはいえ、平均点でしかなく、もう少し頑張れと言わる。

私は、精神的に不安定になると全てに影響する。午前中で終わり、選択している講義の関係で、二人とは別々になる。留美は、バイトへと直行したけど、千早は、午後にも試験があるそうだ。

だから、私は、自分の部屋に変える事にした。昼食は、駅のファーストフード店で済ませた。

部屋に帰るなり、汗が滲む。時が過ぎるのを早く感じる。もう夏なんだと。

エアコンをいれて、一息ついていると、部屋の固定電話が鳴った。番号を見ると実家からだった。出ると、案の定、路子さんだった。

「お久しぶりです、遥さん」

丁寧な口調だけど、どこか疲れを感じさせる。私は父の事を聞こうと思ったけれど、結局やめた。

「ニュース見られたなら、もうご存知だと思いますが、会社と工場を手放す事になりました。それが一番良い方法だったから。丸く収めるにはそれしか無かったの」

「そうですか」

私は、何も言えなかった。

「遥さんは、これから如何するのですか?」

問われても、すぐには答えられない。何も考えていないのだから。

「卒業はします。その先はまだ決めていません。取りあえず、自分の事は自分で何とかしますので、気を使わなくていいです」

と言っても自信は無い。

「そうですか。あのね、今のお家、近い内に手放さなければならないの。取りあえず、遥さんが卒業するまでは、送金すると主人は言っていますけれど、そこから先は、解らないの」

申し訳なさそうに言う。そんな事、私が就職なり、安い物件に引っ越せば済む問題。

「大丈夫です。一人でやっていけますよ。それより、路子さんは?」

経済的に父に依存している自分が嫌だった。でもこれで、自立する機会が出来たといえる。

「私は、この先も主人を支えて一緒に暮らしていきます。望の事もありますし。

それに、今が一番大変な時だし、私が支えてあげたいの。周りからなんと言われようとも。家族でいたいの。私に出来る事は少ないけれど」

どことなく涙声だった。

望ちゃんの歳を考えると、かつての私と重なる。その分、望ちゃんが少し不憫に思えた。

「何も出来なくても、私と望であの人の側にいたいの。お父様には戻って来いと言われたけれど。それでも、あの人と一緒にいたい。全てが終わったら、何処かでひっそりと暮らしていくつもり」

路子さんにとっては珍しく、感情のこもった言葉だった。政略結婚に近いものだったのに。私の母でさえ、父を見限ったのに。私にとっては、理解不能な事。

でも、何時かその心理を、理解出来る時が来るのかな。家族。私にとっても、父は家族であったのに。過去系であるのが悲しい。本当の家族って、ナニ?

「―そうですか。それでは、この先も、父の事をよろしくお願いします」

会話が途切れ、それでもなんとか続ける。

「ごめんなさいね。暫くは、ゴタゴタして大変だから連絡出来ないかもしれいけえど、落ち着いたらこちらから、連絡しますね。遥さん、如何かお元気で」

申し訳なさそうに言い、路子さんは電話を切った。受話器を置く。その途端、

虚脱感に襲われ倒れ込む様に、その場に座り込んだ。如何してなのか解らないけれど、涙が滲んでいた。

 路子さんは、昔ながらのお嬢様。良家のお嬢様で育ってきていると聞いている。そんな育ち方をした人が、この先待ち受ける、逆境をどうやって乗り越えていくのだろう? 父は、そんな路子さんの事をどう思っているのだろう?

実母が父を見限った様に、路子さんの父親が父を見限った。だから別れろと、でも、路子さんは父と一緒にいることを選んだ。実母と路子さん、どちらの心理も理解出来ない。

実母と父は、とても仲睦まじかったのに。変わった父を実母は見限った。でも、路子さんは。もしかしたら、路子さんの方が父にとってのベターハーフだったのかな? 何かの小説で読んだことがある。

―魂の伴侶。輪廻する魂。人間自体に伴侶があるように、魂には魂の伴侶が存在しているという。魂の伴侶は、人間において家族や親族、友人とかとは違う。

その人間関係の中に魂の伴侶が存在していれば、お互い良い関係らしいけれど、家族や親族、友人とか以外に、魂の伴侶は存在しているらしい。魂の伴侶と人間の伴侶が同じなら、一番良いとされる。もしかしたら、父と路子さんは、魂レベルでそうなのかもしれない。ただ、本人が気付くのは稀らしい。

「魂の伴侶」

その言葉に、何かが引っ掛かった。

視界の端で、何かが光った。見ると、異国の古都で買った、水晶珠に光が反射していた。また、光が反射する。なんで、だろうと、思って机の方へ行き、珠を手に取る。その時だった、稲光と雷鳴が轟いて滝の様な雨が降り始めた。

どうやら、この珠が雷光を反射させていたようだ。手の中の珠を見ると、以前とは違う色になっているような気がした。

雷鳴は、激しく鳴り響き、その音は振動となって部屋を揺らす。何時もは見渡せる、街や遠くの山々はまったく見えない。

「バイト、本気ださなきゃ。泣き言ってはいけないなぁ」

バイト先の人達と波長が合えば、良いのだけど。気が重い。でも自立しないといけない。もう、本当に帰る場所が無くなってしまうのだから。

 ネットの情報からは、父の取り巻きは去ってしまったとあった。きっとその人達とはお金だけで繋がっていたのだ。金の切れ目が縁の切れ目。良く言ったものだ。

かつては誠実で堅実だった父。何時の間にか、拝金主義的になってしまった。だけど、それらを失った今は。お金が全てと言っていた父を嫌悪していた私。

憎んでいた感情を抱いていた事もあった。でも、何故か、今は虚しくて仕方が無い。

『お金は大切だけど、沢山ありすぎても困ってしまうなぁ。父さんは皆が、楽しく幸せに暮らせるだけあれば良いと思うんだ。だから、頑張って仕事をしているんだよ』

私が幼かった頃の、父の口癖。その言葉はもはや消えてしまった幻。

仕事の成功が、結果的に家族崩壊を招いた。お金、地位、名誉。そして、今、それら全てを失ってしまった父。

父は、今何を思っているのだろうか?

でも、私にとっては、どうでもいい事。私は、歩きださなければならないのだから。






  そのラインを


 眩しい陽射しにてりつけられているアスファルトには陽炎が揺らめいている。

梅雨明けと同時にセミ達は鳴きはじめ、世間は本格的な夏休みになって、セミの声同様に人々の喧騒も一層、夏の暑さを盛り上げている。都会の街路樹には、セミが群がり、通行人や通り過ぎる車を気にすることなく鳴き続けている。土の中で七年、成虫になり一週間程の命。それは、長いのか短いのか。ただひたすら鳴き続けるのは、命そのものなのかもしれない。そして、次世代へ命を繋ぐ。そう考えると、私は何の為に生きているのだろうかと思ってしまう。

現実の過去と前世の記憶が混在する事、父への複雑な感情、それらに囚われて先が見えないでいる。でも、これから体験するバイトで、何かが見えて来るのかもしれない。そこに“道”が、ある事を願うしかない。

 大学が夏休みに入った翌日から、毎日猛暑が続いている。朝、事務所に入って、一日のミーティングを行い、その日の仕事場へ向かう。小さな事務所その二階が、ミーティングルームと休憩室となっている。小さい会社だけど、それなりに社員はいるようで、イベント系の手伝いや、専門的な技術が必要な派遣業だ。私がバイトをするのは、イベント系の手伝い。夏休みとあって、様々なイベントがある。企業のイベント、学生向けの合宿系の勉強会。アニメ漫画のイベント。商店街の町おこし。とにかく、渡された予定表には、びっしりと、私が携わるイベントの手伝いが書き込まれていた。これは、私向けであって、正社員とかは、もっと細かく予定が詰まっていた。

秋場教授の勘違いなのか、私がサーカス団に興味があるのは、幼い頃の思い出で、別にサーカス団に就職したいとかでは無い。でも、今のままではいけない事は自分でも解っている。そこを、教授に見透かされて、きっとこのバイトを強制されたのかもしれない。

始めは凄く嫌だったし、緊張で気分が悪かったりしたけれど、同じグループの人達とは、なんとなく波長が合うのか、それも次第に和らぎ、なんとかこなして行っている。

バイトを始めて、如何に自分の知っている世界が狭く何も知らなかった事を実感した。毎日、大学でも教えて貰わない事や本で読むのと実体験では、違うのを発見する。後は、もっと上手く会話が出来ればいいのに。


「今日も、めっちゃ暑くなりそうだ」

二十代半ばの正社員の穂村さんは、タオルを首にかけ窓から外の通りを見ていた。

 初めてのバイト。何をどうしたらいいのか、さっぱり分からない。仕事の事だけでなく、職場の人間関係もそうだ。そんな、私に、同じシフトの人達は、あれこれと教えてくれた。気を使われている様な感じだった。だから、頑張ってみようと、毎日出掛ける前、頑張ってみようと、自分に言い聞かせている。

バイトを始めて、二週間が過ぎて、ようやく顔と名前が一致する。そうして、少しだけど、馴染んでいる自分がいる事に気付く。

ただ、気がかりなのが、世間話になり、父の会社の事と私の関係がバレる事が、なにより怖かった。でも、父の会社のニュースから一か月近く。すでに、報道すらされていないし、ネットも今は別の話題で盛り上がっている。多分、買収先の大手企業の圧力なのかもしれない。路子さんから電話を貰って、一か月。新たな連絡は無い。丸く落ち着く処に落ち着いたなら、それでいい。

私は、独立するのだから。このバイトは、その足がかりにしたい。

ただ、長年、他人との関わりを避けて来た事が、今になってハンディとなってしまっている。だから、このバイトで、少しでも自分を変える。そう言い聞かせながら毎日過ごしている。

 夏休みも本場。忙しい日には、イベント会場を二、三か所掛け持ちして回る。もっぱら、準備と片づけ。イベント自体には直接関わることは少ない。

サーカス団。日本で有名なサーカス団の手伝いもしたけれど、忙しくて、サーカス団について聞く暇さえ無かった。

もう一つ、教授が言っていた、海外のサーカス団。小さい規模だけどそれなりに、名前の通ったサーカス団らしい。それでも、幼い日、観ていた、あのサーカス団より随分と大きい。裏手で、公演のサポートをしていた。間接的に関わる仕事だった。今回は、それほど忙しくもなく、客席の隅の方で休憩を兼ねて、観る事が出来た。

確かに、このサーカス団には何か惹きつけられるモノがある。もし、サーカス団が入団希望者を募っていたのなら、この様なサーカス団が良いなと思う。

初めて、自分からやってみたい事を感じた。私には芸が無い。精々、雑用か簡単な通訳かな。そもそも拠点は海外だし。

このサーカス団が、有名なのは、公演を観ていて解る気がする。ほぼ満員の客席がそうだ。なにより、あのサーカス団以外に、心惹かれたのは、このサーカス団が始めてだ。このサーカス団には、あの小さなサーカス団と共通するナニかがある。比べる規模ではないのだけれど。でも、心の中には、ナニか複雑な想いがあった。ソレは何だろう?

―幼い日の想い出? それとも、将来の希望?

「亜麻見ちゃん、サーカス団に興味があるって聞いたけれど」

隣で観ていた穂村さんが、聞いてきた。そんな話、誰にもしていないのになんで、知っている?

「興味というより、想い出かな。私、幼い頃、家の近くの遊園地に毎年来て、公演している、サーカス団を観に行くのが恒例でしたから」

「へー。どんな遊園地? どんなサーカス団?」

「遊園地の事はあまり覚えていないのですが。ここから、ずっと遠くですよ。でも、サーカス団の事は、良く憶えています。すっごく小さなサーカス団で昔ながらのアナログ的なもの。童話とかに出てくる不思議なサーカス団って感じです」

あえて、黒いピエロの事は言わなかった。今、観ているサーカス団のステージの三分の一程度。サーカス団の中には個人でやっている団体もあるから。もしかしたら、そっちの方なのかもしれない。

「幼い日に観た、あのサーカス団は、大切な想い出で私の原点」

なんとなく口に出てしまった。

「へー。そういうのって、いいよな。俺、ミュージシャンに憧れてたけれど、全然才能無い上、音痴だったらしくて、早々に諦めて、そっち方面で仕事ないか探してたら、イベント業の求人見つけて、せめて、近くで仕事したくって就職したんだ。何度か、有名アーティストの公演のサポートした事あったから、それなりに嬉しかった。そして、絶対、俺には無理だって実感した」

と、言って苦笑する。

「そりゃー、穂村の音痴は、ある意味最凶だからねぇ」

穂村さんの同期だという、阿屋野さんが、ガハガハ笑いながら言う。

大柄な女の人で、線の細い穂村さんの方が、よっぽど女らしく見える。

「そこまで言うなよ」

まるで、ボケとツッコミの漫才の様な会話。私も、そんな感じに振る舞えたら良いのに、と、内心、思った。

「ところで、遥ちゃん。サーカス団のリストで、そのサーカス団を探してみた?

個人でやっているような、小さなところは載って無いかもしれないけれど。リストには連絡先もあるし。もし載っているなら、連絡してみたら? 個人でやっているところは、団員募集していない事が多いけれど、中規模や海外のサーカス団は、時々団員募集してたりするよ。外国語出来るなら、アピールしてみたら?」

阿屋野さんは言ってくれるけれど、幼い日の想い出にしか過ぎない。そして、わずかに抱いていた憧れ。別にサーカス団に就職したいワケではない。内心思ったけれど、言えない。そして、何故か久しぶりに、胸の痞えと痛みを覚えた。

「リストは見ました。だけど、それらしいものは、ありませんでした」

バイトを始めたばかりの時、見せてもらった。

「そのサーカス団の名前、知っているの?」

「いいえ。知らないです。ただ、去年、そのサーカス団のテントを偶々見つけて、行ってみたのですが、既に公演を終えて撤去作業中でした。ただ、解体されていくテントを見つめていたら、団員の方が風船をくれたんです。その時に名前を聞いておけばよかったのですが、なんだか聞きそびれちゃって」

答えて、悲しくなった。

「ダメじゃん。でも、確かに個人経営で小さい処は、リストには載っていないし、情報も殆ない。時々、イベントとかの前座で公演するくらい。本人が、仲間が、好きでやっているような感じがするよ、個人経営のサーカス団って」

と、阿屋野さん。

「縁があれば、そのうち逢えますよ。その時には、名前聞いておきますよ」

答える私に、二人はしっかりしろよと、笑う。やっぱり、私、社会に向いていないのかなぁ。まあ、それが私の本音なんだけど。

「ところで、遥ちゃんって、秋場教授のゼミなんだって?」

唐突に、阿屋野さんが問う。

「え、そうですけれど、それがなにか?」

驚いて、綺乃さんの顔を見る。日焼けした元気の良さそうな顔。何時も、ニコニコしている。

「だって、うちでバイトする学生って、秋場教授のゼミの子だけだもん。私が、学生だった頃、秋場ゼミだったんだ。で、バイト探してたら、ここを紹介してもらって。ちまちました仕事より、こういった仕事の方がやりがいがあるって、そのまま、卒業と同時に就職したんだ」

―なるほど、阿屋野さんは、先輩になるんだ。

「で、教授のもうひとつの顔を知っている?」

ニヤリと笑う。

「いえ、知りませんけど。オカルトマニアの事ですか?」

「それもそうだけど、オカルト界のトップクラス。いや、それだけじゃなくて、あれでも、有名作家。ペンネームで書いているし日本語じゃあないけど。主に海外のマニアの間で有名。ちなみに、うちの会社は、教授のお兄さんが社長」

教授が作家なのは知らなかった。教授としての論文は書いていても、作家だったとは。まあ、他の教授達と違うし変人だし。教授がアレで、お兄さんは、どんな人なんだろう。意外と普通か同類か……。

「お兄さんって、どんな人ですか?」

阿屋野さんに問う。すると、穂村さんと二人してニヤニヤ笑っている。なんだか、すごく嫌な予感が。

「もしかして」

私は、あんぐりと口を開け、固まってしまった。いや、なんとなく、まさか。

「あの社長だよ」

穂村さんが言った。

「え、でも、社長って……」

まさか、本当に?

「女装マニアって言うか、オネェっていうキャラだよ、社長。本物の女の私より女らしいって、皆が言う」

絶句してしまう。私は、てっきり本物の女の人だと思っていた。そういえば、口調に違和感があったのは確か。

「ちょっとキツイけど、面倒見は良い人だから、遥ちゃん、残りのバイト期間、きっちり頑張りなよ」

私の背中を、バンと叩いて、阿屋野さんは、ガハハと笑った。


 やっぱり、いろんな意味で変人だ。秋場教授。自分は、オカルト界のトップで、作家。で、お兄さんは、女装マニアのオネェキャラ。ヘンテコな兄弟だ。留美の好きそうな話だな。どうでもいい事だけど、千早と留美に話したら、面白そうだ。


 満席の隅の方で話している。こういう事も慣れなのかもしれない。

やがて、公演は終わる。今日が千秋楽とあって、撤去作業などを手伝う。

この作業が終われば、数日休みがある。

撤去作業を終え、サーカス団の人達に別れを告げて、事務所に戻る。

明日から、数日休みだ。


 部屋に帰り、暫くバイトが休みな事もあり、バイト優先で忙しくて手の付けれていない、卒論に取り掛かる。といっても、教授に色々とチェックされていた部分を直して、パソコンで清書するだけなのだが。

テレビをつけたまま、机に向かいパソコンで清書していく。最近になって木が付いた事なのだけど、あの水晶珠が時折光っているのは、眼の錯覚でも光の反射でも無い事が解った。幽かな光を水晶珠自体が湛えているのだ。異国の古都の、あの店の店主も仕組みは解らないと言っていた。一度、ガイガーカウンターで測ってみたけれど、ソレとは違っていた。

―不思議だ。でも、その様な仕組みの事は、どうでもいいの。

今は、この珠が自分の手元に在るという事が、ただ嬉しかった。

疲れている時や精神的に辛い時、この珠を手にすると、癒されている感じがする。理由は解らない。でも、この珠の本当の力と意味を知りたいと思っている。

ゼミの旅行以降、あの古都の夢は見ていない。だけど、夢には幾つかパターンがあって、その夢の中で、私は、この珠とよく似た珠をピエロから貰うのだった。夢の中のピエロは、ハッキリする時としない時がある。ただの影だけの時もあった。そして、それは、幼い日の想い出のピエロ・ギルディになんとなく似ている。でも、それは幼い日の想い出が夢となって現れているだけなのかもしれない。想い出が紬だした幻影。でも、もしかしたら、前世との関わりが在るのかもしれない。本当に魂を、前世の存在を知りたい信じたい。


 もう間もなく、あの季節がやって来る。だから、余計に虚しくなってしまう。今は、焼けつく様な陽射しだけど、もう一週間もすれば、その陽射しも落ち着いて、夏の終わりを告げる、あの風が吹き始める。

そんなことを考えているせいか、清書は進まない。一度、頭をリセットして、一気にパソコンに打ち込んでいく。

日付が変わって暫くした頃、区切りのいい処まで出来上がったので、取りあえず、そこで一旦終える。

そして、夜食を食べながら、買い込んでいた本を読んでいた。


 夏の真夜中。お盆前という事もあってか、つけっぱなしのテレビはオカルト番組をやっていた。心霊写真や心霊スポットが話題。私は、千早と違って霊感んかないし、あまり興味も無い。ただ、ゼミの傾向として知識はある。

教授も千早も、この様なモノはヤラセだと言う。本物は極わずか。視える千早は、それを見抜いた上で、『これは、ただのエンターティメント』と言っていた。

たまに本物が混ぜっていると、寄って来るので困るとか呟いていた。

千早は、その様な家系。たまたま、千早の親友が“天水”と書いて、“あまみ”と読む事から、同じ読みの名字だった私と、仲良くなるきっかけになった。千早の高校からの親友の天水さんは、神職の家系。何れ家を継がないといけないので、地元の短大に通いながら神職の資格を取っている。千早もまた、自分の家系から宿命的に逃げられない事を受け入れ、本命だった大学へ編入する。

私には、彼女達の様な明確な目標というものが無い。考える事を、放棄したのだから。そう考えながら、本を読む。テレビはBGM代わり。

『次のコーナーは、輪廻転生についてです。皆さんは、前世、魂を信じますか?』

その言葉に、ドッキとし、本を閉じて、テレビを見た。

テレビには、霊感芸能人と霊能者が対談しているシーンが映っていた。

『魂は、存在していて、前世は在るのです。その様な言葉が在る以上、昔から信じられてきたことなのです。これは、宗教の価値観ではなくて、自然界のサイクルと同じ考え方です』

胡散臭さがある。

でも、“前世”という言葉に惹かれる。

『だから、現世において、なんらかの問題を抱えているとしたならば、あるいは同じ様な夢ばかり見たりするのは、前世でやり残した事が影響している。その事を魂は記憶しているのです。今生でこそ、その事を成し遂げようという、メッセージです』

胡散臭いが、秋場教授や千早が言っている事と、同じ。本当にそうであるなら、現世の私は、今生で何をするべきなのかな? その答えは誰に教えて貰うの? 自分で見つけないといけないの?

考えているうちに、また、何時もの胸の痞えと痛みを覚え、なんともいえない感情が湧きあがってきた。その感情に耐え切れず、私は、ナゼか、あの珠を握り絞めていた。

 如何して、そんな感情と水晶珠を手に取る行動にでたのか、自分でもワカラナイ。ただ、水晶珠を握っていると、虚しく痛い感情が和らいでいき、少し楽になる。

水晶珠を見つめる。心の深淵に、ナニか隠れているモノが在って、そのモノが何かを識っているような気がする。そして、そのモノは、誰かを捜して悲痛な叫びをあげている。そんな感じが在る。

―魂の記憶?

「この珠、なんなの?」

掌の珠を見つめる。幽かに光を湛えて光が揺らめいているかのように、見えた。

『現世で、前世のコトを、ふと思い出す人がいますが、その人の中で、何か前世を思い起こしってしまう切っ掛けが、あったりしますね。まぁ、三歳までは、なんとなく前世の記憶があると言いますけれど、やがて現世を生きるために、魂は、その記憶を封印するのです。だって、今を生きているのに、ずーっと昔の記憶が混在すると、滅茶苦茶です。生きにくいです。だから、魂自体が封印するのです。だけど、なにかの切っ掛けで、封印が解けてしまい、現世と前世の記憶が同時に在る。それは、生きにくい。でも、それを乗り越えた先に、魂のランクが上がるといいますね』

胡散臭さ、一方的な感じで番組は進んでいたが、それ以上、私の耳には入ってこなかった。

 前世を思いだしてしまう切っ掛け。それは、やっぱり、幼い日の事。あの時の約束が果たされなかったから。そして、その中心には、黒いピエロ・ギルディの存在。何時も辿り着く先は、そこだ。

幼かった日。毎日、一所懸命に仕事をしていた父。そして、誰にも造りだせなかった物を完成させた。でも、その姿は薄らいで、今あるのは、成功して変わってしまった父の姿だ。

そう、あの日の父だ。

「お父さん。どうして、約束守ってくれなかったの? 約束より、今のお仕事の方が大切なの? お母さんや弟、私よりも、お仕事なの?」

成功するまでは、どんなに忙しくても、約束だけは必ず守ってくれ果たしてくれていた。小さくてボロイ工場で、必死に家族の為に頑張っていた父。何よりも、家族の事を大切に思ってくれていたはずなのに。

あの約束は、無残にも破られてしまった。

「遊園地のカーニバル、行こうよ。サーカス観にいこうよ。約束してたじゃない」

そう言った私を、無関心な瞳で見ると、お金だけ渡して、家を出て行った。

あの時の、父の顔と後姿が浮かぶ。あれは、まだ生家の方だった。あの約束が破られて直ぐに引っ越したのだから。

父との約束。とても大切にしていた約束。心待ちにしていた約束。その約束の先に在るのは、あのサーカス団の黒いピエロ・ギルディ。

考えていると、また耐え難い感情が込み上げてくる。それは、息苦しいほどに。

 あの頃は、同級生達と比べて、貧乏だった。だけど、それで嫌な思いをした記憶は無い。ただ、私達家族の為にと、頑張る父の姿と笑顔。それはもう、消えてしまった。

今も思う。「如何してなの?」と。

それがきっかけで、前世の記憶の封印が解けたとするなら、私の前世に一体何があったの? 如何して、何時も想いつく先が、黒いピエロ・ギルディなの?

そのコトで、頭も心の中も一杯になっていく。それは、まるで限界まで膨らませた風船みたいに、今にも弾けそうだった。掌の中の珠を見ていたら、涙が溢れてきた。止めど降りなく溢れてくる涙。心の深淵、そのずっーと深い奥の方から、何ともいえないモノが噴出してきそう。だけど、その想いを何か別のモノが無理やり抑え込んで、その二つのモノは反発しあっている。例え様のない感情。これは、感情であって感情ではない。

なんていうのか、すぐそこに在るのに手が届かない。届きそうなのに、ソレを掴めない。それに対する、喪失感。それが何処から来るのか、解らなかった。

涙で霞むめで、水晶珠を見つめる。何故か、ギルディの顔が浮かんでいる様に見えた。そして、その顔に重なる様に、逢ったことの無い青年の顔が浮かんで見えた気がした。

「―カナタ」

水晶珠を見つめたまま、私は無意識に呟いていた。私は、その青年を識っているんだ。きっと識っているんだ。自分の中の誰かが、そう囁いていた。


   巡り来る


 夏の嵐が通り過ぎていくと、空は高くなり、箒雲が風にそって流れていく。

沸き立っていた夏の雲は、散り幾つもの小さな雲の群を作っている。夕暮れも少し早くなってきて、夏が去っていく気配を感じさせていた。

あれから、路子さんからの連絡も無く、父からの連絡も無い。毎年届いている、実母からの暑中見舞いの葉書には

『早く一人前になりなさい』と一言だけ書いてあった。

父の事にも、私の事にも一切ふれることのない葉書。少しは何かを期待していた私は、なんだか寂しかった。父の事を、あれ程嫌悪していたのに、無関係を保っていたのに、如何して虚しさだけが残っているのだろう。

もう少しで、バイトも終了。卒論も通った事だし、残りの夏休みは、静かに本でも読みながら過ごそう。


 バイトの行き帰りに、近道として通り抜ける公園がある。その公園の花壇は、秋の花に植え替えられたばかりだった。

その日、バイトで行ったのは、大きな公園。たくさんの花壇や、サツキやツゲの植え込みからは、秋の虫の声が聞こえていた。昨日まではセミが元気に鳴いていたのに、早くも出番だと言わんばかりに、鳴いている。何処からか、湿った風が吹いてくる。空を見上げると、遠くの空に黒い雲が敷き詰められていた。夕立の気配。夏の終わりといっても、まだまだ暑い。夕立が通り過ぎれば、少しは涼しくなるのだけど。

 イベントステージの後片付けをしながら、夏の終わりと秋の気配を感じていた。そういえば、もうすぐ、あの季節、あの時季がやってくる。毎年の事だけど、胸が疼いて何も考えられなくなってしまう。そのせいか、作業が捗らない。手を止めては、溜息ばかり吐いている。私の中では、まだ、終わっていない。むしろ、その感情は強くなっていく一方。

「どうかしたの、遥ちゃん。さっきから、溜息ばかりで。手が止まっているじゃん。もしかして、卒論落ちたの?」

阿屋野さんに、言われて、我に返る。

「すみません。ちょっと考え事をしていて。卒論は通りましたよ」

急いで、自分に与えられている仕事を再開する。小道具とかの梱包の手伝い。正社員の人達は、機械とかを扱っている。

「なに? そんなに思い詰めた様な溜息ばかり吐くなんて。何かあったの?」

「いえ、なにも。ただ、私、毎年、この時季になると、こんな感じなんです。季節ウツっていうのかな」

良い答えが解らず、はぐらかすように答えながら、作業を続ける。

「季節ウツ? なんか、そうなる切っ掛けがあったのか?」

穂村さんが、梱包した箱を台車に乗せながら問う。答えに困ったけど

「なんて言えばいいのかな。以前、話していた、サーカス団の事ですよ。幼い頃の記憶なんでハッキリとはしていないけれど、そのサーカス団が、生家の近くの遊園地のカーニバルにやって来ていたのが、確か、初秋だったから。この時季になると、思い出して、なんだか虚しくなってしまうんです」

胸が痛んだ。

「そんなに、気になるんだ。そのサーカス団」

と、阿屋野さん。

「ええ。そのサーカス団というより、サーカス団にいた、黒ずくめの衣装を着たピエロの事が、気になっていると言った方がいいのかもしれないかな」

感情が、先走り、つい言ってしまった。

「へー、クラウンじゃなくて、ピエロの方か。しかし、黒い服のピエロって変わっているなぁ。メイクが違うだけで、衣装の方は両方とも派手な感じだけどな。まあ。ピエロ演じるからには、かなりの変わり者なんだろうけど。……もしかして、遥ちゃん、そのピエロが初恋の人なんだろう? 幼心の中に存在する、想い出のピエロ。淡い恋心の想い出かな?」

穂村さんは、悪戯っぽく笑って言う。そういうところは、年上なのに年下の様に感じる。

 それにしても、千早や留美と、同じ様な事を言われるのは如何して?

やっぱり、単に、幼い日の想い出でその中の、黒いピエロに恋している。ギルディに恋心を抱いている? 幻想に過ぎないモノに想いを寄せているの?

いや、本当は、もっと遠い昔から、彼を識っている気がする。ずっと、ずっと。でも、それは……。考えていたら、涙が滲んできて、慌ててタオルで顔を拭く。

「アンタ、泣かせてどうすんのよ」

阿屋野さんが、穂村さんの事を、思いっきり叩く音と穂村さんの悲鳴が聞こえた。泣いていたのは、かなり前だった様だ。考えていて気付くのに遅れたのか。

顔を拭いて、言い合っている二人を見る。元気にはしゃいでいる子供の様に見える。羨ましいなぁ。

溜息の原因は、一つは、ピエロのギルディ。そして、前世の記憶。もう一つは、父との確執。破られた約束。二度と叶うコトのない約束。果たされなかった約束。それらが、根源。それを解決する方法はあるのかな? それを解消できたならば、私も、この二人の様に、留美や千早の様に明るく元気に振る舞えるのかな?

 その事は、バイトが終わって、一人の時間になっても考え続けていた。だけど、答えは出ないまま。


 九月の半ば。朝夕は、真夏に比べると、すっかり涼しくなっている。皆は、既に進路を決めている。内定も採用も決まっている人もいる。

そんな中で、私だけが、周りになじめずに浮いていた。

空の高い所を、流れて行く雲のスピードは速く、生暖かい風が木々を揺らしていた。晴れているのにジメッとするのは、台風がこちらへと向かって来ているせいらしい。朝、駅の電光掲示板に、そう流れていた。

 今日は午前中で終わったので、千早と留美との三人で、ランチがてら、大学近くのファミレスで、駄弁っていた。

「やっぱり、教授って、作家だったんだな。何処かで見た文体だなって、思ってたよ。―それにしても、お兄さんがいて、そのお兄さんはオネェだったの?」

と、千早。千早は、教授が作家だった事を知っていたらしい。メールしていた話題だけど、それに返信する時間も体力も無かったので、今になって盛り上がっている。

「でも、見た目は、本物の女性だったよ。バイト先の先輩に言われるまで、女性だと信じてたし。少し口調に違和感があるけど、まず解らないな」

「あの顔で、女装なんて考えつかない。考えたく無い」

留美は何かを想像して、顔をしかめる。

「それが、全然似ていないの。整形はしていないって聞いている。ただの知人だとしか思わなかった。元々が女顔なんじゃあないかな」

「兄弟で、そうまで違うのか。教授は細面だけど男顔だけど」

千早が言う。

「真実は知らないよ。本人から聞いたワケじゃあないし」

私は、メールで伝えられなかった事を二人に話した。そんな話や、これから先の事、色々話して盛り上がった。その時は、それで楽しく感じるのに。だけど、何故か、その後、独りになると虚しくなってしまうのは、如何してだろう?


 二人と別れて部屋に帰り着くと、とたんに虚しさが込み上げて来る。毎回の事だけど、如何したらいいのか解らない。意識しなくても、溜息は次から次へと出てしまう。話が楽しくて、今になって疲れた。独りが好きというのは、本当は、私自身についている嘘なのかもしれない。


 夜になると、風が出てきたのか、ベランダから大きな音がした。見ると置いてある物が強風で、倒れたらしい。台風情報によると、この辺りは進路になっている。壊れたり飛んでいったりしない様に、ベランダの物を室内へしまう。

強風のせいか、窓が重かった。ベランダに出た時、台風独特の重く湿った空気が辺りに漂っていた。最上階だけあって、風あたりは強い。

満月を遮る様に、次から次ぎへと雲が流れて、やがて空は重たい雲に覆われてしまった。

『明日は、大荒れになるでしょう』

気象予報士の言う通り、夜半過ぎから、風の強さの質が変わり、雨と雷が、ウ風に混じって聞こえる。

今日は疲れたので、何時もより早めにベッドに横になり、本を読む。時間と共に、大粒の雨が窓を打つ。叩き付ける様な雨。煩いほど。本を読むのにも、眠るにしても煩かった。

 余り眠れず朝を迎えた。空は暗く、重たい雲に覆われている。強風が吹きつけ、大粒の雨を窓に打ち付けていた。大雨のせいで、何時もは見える景色が見えない。電車もバスも運休で、結局無理して大学へ行く事はしなかった。まあ、今日は、講義も何も無い。精々、就活セミナーばかり。サークルに入っていないし無理して行く事も無い。一応、なんとか卒業は出来る。試験にさえ落ちなければ。

 部屋で、本を読みながら、過ごしていると、スマホが鳴った。着メロがその他の番号。みると、夏休みにバイトをした時に知り合った、穂村さんだった。なんだろうと、戸惑いながら出る。

「はい」

「もしもし、遥ちゃん。久しぶり、元気? 台風すごいよなー」

やたらと能天気な口調。この人は如何して、こんな喋り方なのだろう。

「はぁ。こちらこそ、お久しぶりです。ほんと、大荒れですね。ところで、何か、御用ですか?」

知っている人でも、電話は苦手。

「ツレから聞いたんだけど、遥ちゃんが昔住んでいたという町の近くにある遊園地。よく行っていたという遊園地」

「はあ。その遊園地が如何かしたのですか? バイトでも入ったのですか? それにしても、余りにも遠いですよ」

「そこ、今週いっぱいで、今週の日曜日で廃園になるんだって、さ」

なんで、その様な事を言ってくるのだろう。それ以前に廃園という事に、ショックだった。なんていうか、目の前が真っ暗になるっていうのかな?

「おーい。聞こえているかー?」

風と雨の音が遠くに聞こえる。

「は、はい」

なんとか、とりつくろう。

「如何して、そんな事を教えてくれるんですか?」

問う声も、スマホを持つても、震えていた。

「遥ちゃんの想い出の場所だろ。話を聞いていて思い出してさ、遊園地マニアのツレに話したら、そんな遊園地あるなら、あの町だろうって。遥ちゃんの言ってた生まれた町。聞いた話と似ているから、もしかしたらって思って。電話したんだ」

そこで、いったん間を置いて

「毎年、秋にイベントでサーカス団が来る遊園地。遊園地の名前は、リバース・パーク。そんなイベント催しているのは、その遊園地だけらしい」

そうなの? ツレの事はともかく、この電話、もしかして阿屋野さんに言われてかけて来たのかも。

「そうですか。それは、わざわざありがとうございました」

「うん。それじゃあ伝えたからな。遥ちゃん、最後だから頑張りなよ」

そう言うと、一方的に電話を切った。電話を終えると、全身から力が抜けた。

「あの遊園地。リバース・パークって、名前だったんだ」

忘れてしまっていたのか、幼すぎて憶えていなかったのかは、解らない。遊園地の名前は判った。でも、あのサーカス団の名前までは判らなかったのか。

まだ、営業を続けていたんだ。あの頃、既に新しいテーマパークが幾つもオープンしていたから、もう無くなってしまっていると思っていたのに。思い込んでいて自分から、探そうともしなかった。

 あの遊園地が存在しているのなら、この時季は、カーニバルだ。もしかしたら、あのサーカス団は、今も、あの場所で公演をしている。まだ、続けると、あの女性は言っていた。でも、この日曜日で廃園になるということは、この機会を逃したら、もう二度と、ピエロのギルディに逢えないかもしれな。

きっと、あのサーカス団が、遊園地のカーニバルの本当のラストを飾る。

想い出と記憶が、確信へと変わる。


 幼い日の想い出。カーニバルの情景。流れるメロディーが浮かんでくる。それと同時に、寂しさも込み上げてくる。

「行きたい、行かなければ」

外を見る。台風で大荒れ。この辺りの交通機関は麻痺。でも、私の生まれた町は、あの遊園地のある場所は、台風からかなり離れていて影響もない。だから、あっちは大丈夫。台風情報と交通情報を調べる。台風は、明日朝にはこの辺りを抜けて、熱帯低気圧に変わる。生れた町への交通手段を調べる。

明日の夜行なら大丈夫だ。そうすれば、日曜日の昼前には、あの遊園地に着ける。それで、決まり。大学なんかより、今は、リバース・パークへ行く方が何より大切。そうすれば、再会出来る。

自分の中で、何かが弾けた。


 そう計画したものの、昼過ぎになると天候はさらに悪化した。これが、吹き替えしだと良いのだけど。


 私は、生まれて初めてかもしれない、強い不安と焦りを覚えた。

机の上に置いてあった、水晶珠を手に取り、握り絞める。

このところ、何かあるたびに、珠を手に取っている。手に取り、祈りにも似た想い、まるで助けを求めるかの様に。

「行きたい。行かなければ。きっとこれが、最後のチャンス。逢いたい。あの黒いピエロ・ギルディに。逢いたいよ、―カナタ」

心の深淵から、私と、きっと前世の記憶が叫んでいた。それは、現世の私と、前世の私の、祈りだった。


 夜になり、風と雨が収まった。台風独特の圧迫感も無くなり、台風は日本海へと出たと言っている。ここを、明日の朝一出れば、夜行列車に乗り継げる。飛行機は無理そうだけど、列車は動いている。そうすれば、日曜の昼前には着ける。

「大丈夫。きっと、逢える」

私は、そう呟き、水晶珠を見つめて祈った。

「どうか、逢えますように」

水晶珠の中心の色がまた、変わった。やっぱりこの珠は、私の心と共鳴しているのだと確信する。

 祈りが想いが届いたのか、翌朝は綺麗な青空が広がっていた。ベランダに出ると少し風が強いものの、秋の爽やかな風だった。強い風雨で大気が洗われたのか、大気は澄んでいて青空には雲一つ無い。台風一過。私は、深呼吸して、部屋に戻ると出掛ける用意を急いでした。

あの水晶珠は、絶対に持って行かないといけない。そう思って、布に包んでポケットに入れた。

 

電車やパス、夜行列車を乗り継いで、私は生まれた町へと帰って来た。幼い記憶にしかない町。記憶を頼りに、町を歩く。駅も新しくなっていた。生れた町はすっかり、様変わりしていた。駅から遊園地に行くバスもなければ、タクシーも無い。だから、遊園地に近いバス停で降りて歩いて行く事にした。

空き地なのか休耕田なのか、解らないけれど、あちらこちらにコスモス畑が広がっていて、風に揺れていた。バス停からはそんな道が続いていた。記憶では、もっと家とかがあった気がする。そんなコトを思い出しながら歩いていると、何処からか、楽しげな音楽が聞こえてきた。

あの遊園地リバース・パークから、流れて来ているのだうか。何時建ったのか知らないけれど、大型スーパーがあった。その角を曲がると、その先に小さな観覧者が見えた。

その観覧者を見たとたん、懐かしさで胸が一杯になってしまった。

引っ越して行って、十数年。その間一度も来る事は無かった。だけど、その外観は、幼い日の想い出と、まったく変わっていなかった。


 入口のゲートも、あの頃のまま。ゲートの処に色褪せてしまった文字で、遊園地の名前の由来が書いてあった。

『また、来たくなるような遊園地。そういう想いを込めています』と

ただ、その隣に、

『本日をもちまして、当園リバース・パークは、終わりとなります。もうリバースはありません。皆様の心の片隅に想い出の中に、在り続ける事を願います。長年のご愛顧ありがとうございました』

と、貼り紙されているのが、悲しかった。


 ゲートを抜けると、そこには懐かしさが漂っていた。以前より古くなってしまったのは時間の流れ。でも、何一つ変わっていない、幼い日の想い出のままの風景がそこにはあった。小さな観覧者、小さなメリーゴーランド。ローラーコースター、ミニ機関車。小さなアスレチック。今見ると、本当に小さく見える。だけど、幼い私は、ゲートを抜けると、嬉しさの余り、一人で、はしゃいで駆け回っていた。ここは、幼かった私にとっては、とても大きく広い世界に見えていたのを今でも憶えている。そして、駆け回っているうちに迷子になってしまったんだ。今、思うとこの広さで、如何して迷子になってしまったのかが不思議。だけど、迷子になったおかげで、ピエロのギルディに出逢えたんだ。

夏休みも終わり、九月半ばの日曜日。その昼下がり。来ている人は、疎らだった。親子連れ、爺さん婆さんも一緒の家族連れ。ちらほら、若い人もいる。最後の日なのに、人数が少ないのが、少し淋しい。まあ、混雑していたらそれはそれで、困ってしまうけれど。

 私は独りで、園内を歩いて回る。どのアトラクションも小さく年期が入っている。だけど、現役で動いている。ここの人達が大切に整備しながら、ずっと使い続けてきたのだろう。どれも、記憶の中に朧気にあるモノと同じ。昔のまま。その心って、大切なコトかもしれない。ゆっくりと、一つ一つを見つめては、幼かった頃を想う。私が、一番幸せだと感じていた時の事を。

少しだけ、涙が滲んだ。

 この先は、確か、イベント広場だったな。その広場には、懐かしいカラフルな小さなテントが張ってあった。

「本日、最後のステージ。最後で最後のステージ。もうすぐ、幕が上がるよ! ラスト・カーニバルが始まるよ。なんと、入場料無し。早くしないと良い席無くなるよ!」

派手な衣装のクラウンが、呼び込みをしていた。

バイト先で、手伝いをした、サーカス団の人が、ピエロとクラウンの違いを教えてくれた。パッと見は良く似ているけれど、メイクが違うと。ピエロは、眼の下に涙の雫を描く。そして、基本は無口。パントマイム。でも、クラウンは、白塗りメイクでも涙の雫は無い。クラウンの趣味にもよるけれど、鮮やかなフェイスペイントを入れる人もいる。そして、おどけた口調で会話もする。

黒いピエロ、彼はシンプルな白塗りで涙の模様があったと記憶している。だからピエロの方なんだ。

ふと、その事を思い出した。

クラウン達が、おどけながら集まって来る人達を、テントへと案内していた。私は、思わず駆け出していた。ギルディに、カナタに逢えるかもしれない、その想い一心に。それと同時に、幼い頃に還っていた。

「ようこそ、お嬢さん。ラスト・カーニバルへ。遊園地も終わり、そして、僕達も、また終わる。だから、このステージを想い出にしておくれよ」

涙のメイクは無い。クラウンだ。導かれ、テントへと入る。

 小さなテントは、十数人も入れば満員。小さなステージを囲むように席がある。それも、幼い日のままで、嬉しかった。何故か、私が案内された席は、一番良い席だった。まるで、私の為に用意されていたかのように、クラウンがそこへ、私を座らせた。


 あの頃と同じ様に、小さなテントの小さなステージの上で繰り広げられる曲芸は、夏休みに手伝いをした、海外の中規模のサーカス団のものとは、とても比べられない。小さく、アナログなのに、こちらの方が、ずっと深い味というか、何かよく解らないけれど凄さを感じさせる。他のお客も、ソレを感じ取ったのか、釘づけになっていた。

そう感じさせるのは、全て人間の手でのみ創られ演じられているからだと思う。

空中ブランコを演じているのは二人。命綱も転落防止ネットも無い。空中ブランコをサポートしているのは、呼び込みをしていたクラウン。少人数の小さなサーカス団では、其々の役の他にも、やらなければならない事が多いみたい。

場所は、小さいけれど、その空中ブランコは、夏休みに観た、サーカス団より凄いと感じ、一流のステージでも十分通じる。なのに、どうして、こんなに小さいステージのみに留まっているのだろう。それだけのモノが、このサーカス団に在るのだろうか?

小さなステージでは、空中ブランコの後に様々な、曲芸や手品みたいな芸が繰り広げられていた。それも、また、大手のサーカス団を越えるナニかが在った。

私は、それよりも、ピエロのギルディの事が気になって仕方がなかった。

去年、子のテントを見つけた時は、公演は終わっていたし、ギルディもいなかった。でも、もしかしたら、この場所でなら、再び逢える。初めて出逢った、この遊園地のカーニバルで。

それだけの想いを抱いて、この場所へと、戻って来たのだから。

ステージ上では、演技が続いている。そして、去年、黒いピエロの名前を教えてくれた、あの中年女性の猛獣ショー。幼い頃と、演目は変わっていない。メンバーの入れ替わりも、もしかしたら殆無かったのかもしれない。

目の前で繰り広げられている演技は、まる宙を舞うかの様。ワイヤーを使っている様には見えない。見えないというより、ワイヤーを使うだけのスペースも設備も無い。本当に宙を舞っているのかもしれない。

 演目が、昔のままなら、変わっていないのなら、この次は。

思っていたら、アナウンスが流れた。

「本日、最後。最後のステージは、ピエロ・ギルディのイリュージョン」

そのアナウンスに、私は安心したのと同時に、胸の鼓動が激しく高鳴り始めた。

「やっと、逢える」

高鳴る胸と、胸の痛み。それを必死に抑えて、私は水晶珠を握っていた。

現れた、ギルディは、昔のまま。黒い衣装、肩には鳥を乗せていた。

ピエロだけあって、他のクラウン達の様に、おどける事は無い。客の歓声にも反応しない。ピエロというモノは、その様なモノだと教えて貰った。

BGMもナレーションも無い。静かなステージの上、ギルディは静かに一礼すると、どこからともなく取り出した、光る石や花を、宙に投げると、指を鳴らした。

すると、宙に舞っているソレらは、一瞬にして光る霧の様なモノに変わる。そして、輝きながら消える。それに、客は、歓声と拍手。タネも仕掛けも無い。それは、建前で実は、マニュアルがある。その仕掛けをいかに、客に悟られずに行うのがプロの技。

だけど、このステージには、その様なモノは、存在していない。何故か、私はその事を識っている。客達は、開いた口が塞がらないと、いった感じで、ステージに釘づけになっていた。

 これは、手品ではなくて、魔法。幼い日、初めて観た時から、ソノ魔法は変わっていなかった。何時も、何かを何もない宙から出しては、消していた。そう、これは、本物の魔法。 “私だけ”が識っている魔法。私の中の誰かが呟いた。それはきっと、前世の私。

ギルディは、客の歓声も拍手も気に留める事なく、淡々と続けている。

その魔法の美しさに、何時しか客席は、静まり返っていた。

ギルディの魔法は、とにかく美しく儚いモノがあった。私は、その理由を識っている。私ではない私が。それは、前世からの続き。

何かを感じ取ったのか、客席からは、どこからともなく溜息が零れていた。

 再び、ギルディが指を鳴らすと、肩に乗っていた色鮮やかな鳥が、翔く。そして、テント客席をゆっくりと、周回するかの様に羽ばたいている。その翼が翔く度に、光の粒が粉雪の如く舞っては、消えていく。鳥は、もう一周して、ギルディの肩に戻った。

そして、その場で一礼すると、そのまま、ステージを去っていく。盛大な拍手も歓声も興味無いのか、振り返る事は無かった。その背中からは、賞賛も賛美も必要無いと、感じたのは、私だけだろうか?

私は、涙が止まらなかった。零れ落ちては、手の中の水晶珠を濡らしていた。この場所で、再び、カナタの魔法を観る事が出来た。その事が心底、嬉しかった。ピエロのギルディ。―カナタ、そう呼ぶのは、私の中に存在している前世の私自身。


「本日は、ご観覧ありがとうございました。本日をもちまして、我ら、“星語り”サーカスは、幕を閉じます。私達のステージが、皆様、一人一人の想い出となってくれれば、幸いです」

演技者、裏方の人を含めても、入っている客よりも少ない人数。本当に、小さなサーカス団。その団員、一人一人が挨拶をする。でも、ギルディの姿は、そこには無かった。客の拍手と共に、一人、一人、とステージを後にする。最後の一人がステージを去ると、ステージを照らしていたライトが消える。

客達は、席を立ち、出口へと向かう。親子連れも、カップルも、皆、嬉しそうな顔をして、テントを後にする。

 私は、他の客が全員立ち去るのを待って、涙を拭って、ゆっくりとステージを見つめた。テントの中も見回す。幼い頃は、もっと広く感じていたのに、今見ると、とても小さい。成長すると、物の見え方まで変わってしまうのかと思うと、切なかった。溜息を吐いて、テントの外へと出ようとした時、あの中年女性に呼び止められた。

「来てくれたんだね」

明るい声だった。

「え、ええ」

少し驚いて、振り返る。ステージの脇から歩いて来る。

「あの辺りからだと、かなり遠かったでしょう」

汗を拭きながら言う。

「はい。知人が、ここの遊園地が廃園になると教えてくれて、それを聞いたらいてもたっていられなくて、来たんです。まさか、またこの場所で、サーカスを観れるとは思いませんでした。ここへは、幼い頃、よく来ていたんです。―昔、この近くに住んでいて、毎年の観に来ていました……」

胸が痛い。

「だから、最後の最後に、再び、観る事が出来て、嬉しかったです」

涙が頬をつたう。上手く喋れない。

「そう。やっぱり、そう言ってくれる人がいると嬉しいわ。もう何十年もやっているけれど、子供の頃観て、親になって、子供を連れて観に来てくれる。そういうのって、本当に嬉しい」

そう言って、涙を浮かべた。本当に、サーカスが好きで、人を喜ばせる事がすきなんだなぁ。

私にとっては、幼い頃の想い出。それは、ピエロのギルディと出逢ったからなのかもしれない。そう思うと少し申し訳なく思う。それでも、このサーカス団。星語りサーカスのステージを再び観れた事は、嬉しかった。

だけど、もう、あの頃の様にはいかないし、あの頃には戻れない。

「あなた、去年、ギルディを訪ねて来ていたでしょう。彼、今、外にいるわよ。何か、伝えるべきことが、あるのでしょう? 行ってきなさい」

言われて、心を見透かされているようで、ドキッとした。

「はい。ありがとうございます」

私は、頭を下げると、テントの外へ向かった。

『―これが、多分、今生での最後のチャンスよ』

誰かが何処かで囁いた。空耳だったのか、あの中年女性だったのか。振り返ったけれど、彼女の姿はそこには無かった。


    ひとつの再会


 テントを出ると、太陽の光が眩しかった。外には、涼しい秋風が吹いていた。

その風に吹かれて、あちらこちらで、色とりどりの風船が揺れていた。

私は、ギルディの姿を探していた。

ギルディは、あの時と同じ様に、集まって来る子供達に、何処からともなく風船を取り出しては、渡していた。何処から取り出すのかは解らない。ヘリウム入りの膨らんだ風船なんか衣装の中には隠せ無い、だから、やっぱり魔法なんだ。

その“魔法”に、大人も子供も驚いて不思議そうに見つめている。子供達は、嬉しそうに風船を貰うと、親の元へ駆けて行く。一人の男の子が、二つの風船を貰い、まだベビーカーに乗っている、小さな妹の手首に風船の紐を結んであげていた。

そんな光景を見ていると、胸が痛んだ。私も、その男の子と同じ様に、生まれた弟にしてあげたかた事。その事を思っても、仕方の無いこと。そんな思いから、私は、ギルディに声を掛けられずに立ちつくしていた。

胸は苦しいほどに、高鳴っている。何と声を掛ければ良いのか解らないし、彼からすれば、ただの客の一人に過ぎないかと思うと、不安で一杯になる。考えても、かける言葉が見つからない。

 立ちつくしていた私に、ギルディの方が気付いた。ゆっくりと、私の前へとやって来て、彼の方から声を掛けてくれた。

「随分と久しぶりだね。また、来てくれたんだね。ありがとう」

懐かしい響きのある声。毎年、来ていた私に何時も声を掛けてくれていた。あの時のままだ。十数年振りなのに、私の事を覚えてくれていたんだ。懐かしさと嬉しさで、胸が詰まる。だけど、彼に、何て言葉を掛けて良いのか解らず、俯いたまま、顔を上げる事が出来なかった。

ずっと逢いたかったのに、目の前にいるのに、彼に対して言葉が出てこない。幼い頃は、はしゃいだ勢いで、自分の嬉しさを話していたのに。今は、それが出来ない。ただ、胸の高鳴りと痛み、そして、顔が熱かった。

「色々とあったみたいだね。元気が無いのは、そのせい? あの頃の君は、何時も元気一杯だったのに」

淡々とした口調。だけど温かみのある声。如何して、そんな事が解るのかな? 随分と久しぶりに逢うのに。もしかして、心が読めるの。心情を悟られてしまったのかな。複雑な気持ちで、私は顔を上げる。少し、涙が滲んでいるのが分かった。

そこには、黒い衣装のピエロ・ギルディが立っていた。確かに目の前に彼はいた。そして、彼の背後には、観覧車。その向こうには、西へと傾いている太陽。

「は、はい。こちらこそ、お久しぶりです」

やっと出た言葉。恥ずかしくて、照れ臭くて、視線を合わせる事が出来なかった。耳の奥に、胸の鼓動が響いていて、それに重なる様に、懐かしいメロディーが聞こえていた。

「来てくれて嬉しいよ。今日は、一人なの?」

「は、はい」

小さく頷く。

 幼い日の想い出が頭を過る。あの頃は、家族で来ていたのに、今は独りかと。叶えられなかった約束。守って貰えなかった約束。ここは、楽しかった想い出と同時に辛い想い出の場所でもある。

「そうなの? さっき、君のお父さんらしき人を見かけたんだけど、てっきり一緒に来たのかと」

「え、父がきているの?」

驚き取り乱し、私はギルディに問う。彼は表情を変える事無く、私を見つめたまま頷く。

「ああ。多分、君のお父さんだと思う。あちらの方へ歩いて行ったけれど、何だか哀しそうだったな」

ギルディは知っているのかな。それとも、私の心を読んだのかな?

父の事を言われ、何ともいえない感情になってしまう。

「余計な事かもしれないけれど、何か蟠りがあるのなら、ソレを解消しておかないといけないよ。まあ、僕が言える様なコトではないのかもしれないけれど」

その言葉に、私はギルディから顔を反らし、俯く。

 仕事が成功した事により、全てが変わってしまった。父自身が一番変わってしまった。約束は必ず守ってくれていたのに。仕事の成功と共に、それは変わってしまった。私との約束は、守るどころか蔑ろにしたのだから。

『約束を守るという事は、とても大切な事なんだよ』

幼い頃、私に言い聞かせていた父の言葉が、虚しくこだまして、まだ、優しくて誠実だって事の父の顔が浮かぶ。

「君とお父さんの間に何があったかは、知らいけれど。もしかしたら、これが、その蟠りを解決出来る最後のチャンスかもしれないよ」

淡々と、言う。ギルディの言葉が突き刺さる。ギルディは、きっと何もかも知っていて言っている。心を見透かすのもそうだけれど、きっと私の事を、知っているんだ。彼に、言い訳は出来ない。

私の中に在る、父に対する蟠り。それは、きっと『あの約束』その約束を、反故された事。叶えられなかった約束、それが根源に在るのだ。私は、それ以来、変わってしまった父を嫌悪している。破った約束をお金で埋め合わせしようとした父を。如何して、あんな態度をとったのか? どんなに忙しくても約束を破った事は無かったのに。

 あの頃は、私はまだ幼かった。大人の事情なんて知りもしない。だけど、なんとなくだけど、父が変わってしまった理由が解る気もする。

私は、ただ拗ねいる子供のままなのかもしれない。

どうして、あのような態度をとったのか、理由があるのなら、私は、それを知りたい。

『如何して、あんな態度をとって、約束を破ったの?』と。

それを、お金で埋め合わせたのかを。確かめて、理由を知っても、多分、私の心のキズは癒えないだろう。でも、前に進めるかもしれない。

「君自身、そのコトにケリをつけたいのだろう? だったら行くべきだ」

ギルディは、父が歩いていた方向を指差した。

気付くと、私は、彼の指差した方向へと走りだしていた。如何してなのかは、解らない。私自身が、父との確執、蟠りを解消したかったのかもしれない。例え、キズは癒えなくても。

ギルディに言われて、押し殺し封印していたモノが、解かれたのかもしれない。

彼は、何もかも知っている。全て知った上で、そう言ったのだと思う。

如何して? そうするべきだと言ったのかは、解らない。

彼は、ギルディは、―カナタという者は、本当は何者なのだろうか?


 父は、小さなメリーゴーランドの前にあるベンチに座り、回り続けているメリーゴーランドを、虚ろな目で見つめていた。その姿は、私の知っているどの父でも無かった。力無く、とても疲れ果てている様子が滲み出ていて、老けて見えた。まるで抜け殻だ。そんな父を少し離れた所から見ていた。父を見ていたら、父の方が私に気付き、ゆっくりと立ち上がり私の方へと来た。数年振りの再会なのに、掛ける言葉さえ無い。

「お前も、ここに来ていたのか」

すっかりやつれていて、声にも張が無い。仕事が成功して何もかもが順風だった頃とは、まるで別人。私の知らない、父の姿。今、父がどの様な状況なのかは、私には関係ないしワカラナイ。あるのは、約束を反故された悲しさと、成金主義になってしまった父への嫌悪感だけ。ただ、生気無いのは確かだった。

「……ここが、廃園になるって聞いたから、来た」

そう言うのが精一杯。視線は、合わせない。

沈黙が続く。

「―父さんは、なんで来ているの?」

ぎこちなく問う。如何して、この場所で父と再会しないといけないのか。私は、ギルディに逢いに来た筈なのに。

「なんと、なく、な。来てみたんだ。如何してか、解らないけれど、ここへ来れば、何かあるかもしれないと思って」

生気の無い声と目。そして、どことなく悲しげだった。私にすれば、哀れみにしか感じない。

成功し、順風満帆だったけれど、何時しか仕事は傾き、会社も工場も人手に渡った。積み上げてきた何もかも、失った。そんな事は、私が知った事では無い。

そんな状況の中で、ここに来たのは如何して? 廃園になると知って来たのか、それとも、傷心からなのか。でも、父は変わってしまったんだ。あの頃の父では無い。なのに、ナゼ?


 大きく丸い夕日の光が、小さな遊園地を包み込んでいた。茜色の光が、遊具を照らして、それらの影は重なり合っていた。地面に映る、その影は、まるで影絵そのもの。

懐かしい情景。そして、それは、今見ても幻想的なものだ。小さな遊園地。幼い頃は、とても大きく広い世界に見えていたのに。ここは、夢の場所だった筈なのに。でも今、感じる事は、ここは、とても小さく狭い。本当にここに、夢があったのかと思うと、とても虚しくて堪らない。

それは、きっと、今の私の心がそう見せている情景。私は、想い出という幻想の中に、ずっといて、今、その幻想が晴れて消えて行った。父への哀れみが、そうしたのだと思う。大切な想い出という名の幻想を、今の父の姿が崩してしまった。もう、ただの思い出の場所になってしまったのかもしれない。

この遊園地も、サーカス団も無くなってしまう。寂しさが想い出と懐かしさを一緒に飲み込んで共に消えてしまうような気がした。

あの頃には、戻れない。戻るコトは出来ない。全ては過去。私も、この先、変わってしまうのだろうか? 見えていた景色が変わってしまった感じと同じ様に。

 再び力無く、ベンチに座り込む父。そんな父を見ていると、自分自身が変わってしまう事に対して、何とも言い難いモノを感じる。

『すべてのモノは、変わっていくモノだよ。人も世界も。だけど、変わらないモノが存在しているコトを、君は識っている筈だよ』

走り出した私に、ギルディが背後から、叫んだ言葉が過っていく。その言葉の本当の意味は、解らないけれど、その言葉は今の私にとって、きっと必要なモノ。

 父は、仕事の成功で変わってしまい、それによって家族は崩壊し、新しい人間関係が築かれた。そして、今、仕事の失敗なのか不況の影響なのか、何もかも失ってしまった。無常。何一つとして同じモノは無い。

父の口から聞かなくても、その姿から漂うモノで、少なからず、父の胸の内が解った。でも、私の中には、幼い日の父の姿と思い出しか無い。それもまた幻影。本物の父は、目の前で疲れ果てた抜け殻。会話は無い。視線すら合わせない。時間だけが流れていく。聞こえて来る、遊園地のメロディーに、サーカス団のメロディーが重なって、一つのメロディーとして聞こえている。そう、懐かしい、カーニバルのメロディー。その中に、アトラクションの音と子供達の歓声が聞こえていた。そんな世界から、私と父の空間だけ切り離された感じがする。ベンチで、項垂れていた父が、ふと顔を上げた。

そして、申し訳なさそうな目で、私を見る。

「あの時、遥との約束を仕事の方が大切だと言って、反故にして、それをお金で埋め合わせる様な事をした。あの時も、今までも、それで良いと思っていた。だけど、今になって思うと、それが間違いだった事であったと思う様になった。すまなかった、遥」

と、小さな声で言った。解りきった事を言われた。その言葉に腹が立ったのと同時に情け無さと哀れみを感じた。

―遅い、遅すぎるよ、もう。そんなコト、今更言われても、如何する事も出来ない。全ては過去の事、戻れない。

そのコトが原因で、私は前世の記憶を呼び覚まされた。そして、幼い日の想い出に囚われ続けていた。その想いがどれだけ、私を悩ませた事か。

私は、その言葉に応える事が出来なかった。父も、黙ったまま、メリーゴーランドの向こうにある、小さな観覧車を見つめていた。


 流れていた、遊園地のメロディーが閉園を告げるメロディーに変わる。何時もだと、閉園時間に流れるメロディーだけど、今日で、この遊園地は永遠に閉園となってしまう。ぽつぽつと、人々はゲートへと向かう。夕日は、西へと沈もうとしていた。金木犀の香りが何処からか漂ってくる。

やがて、メリーゴーランドから最後の客が降りると、スッタフは丁寧にお辞儀をして見送っていた。まだ幼い女の子。あの時の私と変わらない年頃。出口のところで待っていた両親の下へ駆けて行く。そして、両親に両手を引かれて、遊園地を後にする。

胸が痛んだ。想い出に触れるようなコトが在る時、必ずこの痛みを覚える。あの親子に、幼い日の自分を重ねてしまった。あの頃は、何もかもが輝いて見えて幸せだと感じていた。

ここで、父と再会し、少ない会話を交わした。でも、溝は埋まる事は無い。父への思いが変わるワケでも無い。ただ、少しは、蟠りが解けたのかもしれない。

未だ消えない、約束を反故した時の父の態度。その父を赦せないと思っているのは、幼い日の私なのか、現在の私なのか、もはや解らない。

あの親子が立ち去っていった場所を見つめていると、父が口を開いた。

「この先、もう、金銭的な援助は出来ないが、如何するんだ?」

父が問う。

心配するのは金銭面だけなの? それより大切な事だってあると思うけれど。私は、大きな溜息を吐いた。

「いいよ。貯金しているから。大学も卒業出来るし。安いアパートに移って、就職でもすれば済む事だし。自分の事は自分で何とかする。もういい。私は私で。―父さんたちは、父さんたちで」

そう答えた。父に何か期待する事は無い。だから、突き放す様に言った。私が自分の足で立って歩いていければ済むのだから。まだ、自信は無いけれど。

「―そうか、すまんな」

小さく言って、立ち上がる。そして、申し訳なさそうに私を、もう一度見る。

如何して、今更そんな表情をするんだ。きっと、私は、父を嫌悪の目でにらんでいたのかもしれない。

「じゃあ、行くから。遥、元気でな」

私に背を向けて、ゲートへと向かう。そんな父に掛ける言葉さえ無い。もしかしたら、私自身、まだ父に何かを期待していたのかもしれない。それも無かった。やはり、父にとって私の存在はどうでもいいのかもしれない。未だ消えない嫌悪。なのに、心が痛むのは如何して?

「自分で何とかする」と言ったものの、先には何も見えていない。だけど、一人で歩いて行かなければならない。意気込んでは溜息を吐いている私がいた。

 それにしても、何の為に父へ此処へと来ていたのだろう。仕事に失敗したことで、父の中で何かが変わったのか。その様な事を本当は聞きたかったのに。聞けなかった。まともな会話など、十年以上していない。だから会話にすらならなかったのかな。

「路子さんは、一緒に居てくれるの?」

唯一、問う事の出来た言葉。その言葉に、父は小さく頷いただけだった。

この先、父がどうなるのか、路子さんと望ちゃんとの三人で暮らしていくのだろうか。そのコトに関しては、私とは関係の無いこと。割り切ってしまえばいい。私はもう、成人しているし、私は私で生きていけばいい。ソレだけの事。

始めから、そうすれば良かったのかもしれない。進学を勧めるのを蹴り飛ばして就職の道を選べたかもしれない。そうしていたら、もっと早くに独り立ち出来たかもしれない。そう思うと、溜息だけでなく涙まで出そうになる。

本当にこれで良かったのかな? もっと話す事はあったのでは?

そんな気持ちが、少しだけ心を過って行った。

 涙なんか零して堪るかと、空を見上げると、太陽は西へと沈み、殆ど見えなくなっていた。西の空一面が茜色に染まっていた。夕日の創り出していた影絵は殆見えなくなっていた。東の空は、蒼い空に変わっていて、山陰に月の一部が見えていた。辺りは少しずつ暗くなってきていた。遊園地はもう閉園していて、客はいない。だけど、イルミネーションが灯されていた。それは、遊園地の最後を彩る為のもの。その光は、夕日の光とはまた別の影を地面に浮かび上がらせていた。

その情景は、あの時と変わっていない様に想えた。夕日の名残とイルミネーションが創り出す色々な遊具の影。流れている、サーカス団のメロディー。少し違って聞こえるカーニバルのメロディー。その場面だけは、私の中で、変わらず在り続けている。

だけど、今は……。

 あの頃の様に、全てのモノが永遠に続くモノだとは思えない。幼い日々は、何もかもが永遠だと思っていた無垢な心。あの頃の自分と、今の自分を比べると、とても虚しくて堪らなくなる。

それが、大人になるってコトなの?

「永遠なんて、無いんだ。それは、幻に過ぎない」

呟くと、心の深淵の更に深い処で、ナニかが弾けたような気がした。

夢みていた幼い日々。何時までも続くと思っていた幸せな時間。それは、何時消えてしまったのだろう? 想い出に変わっただけなのかな。それとも、それ自体、幼い私が想い描いていた夢幻だったのかな?

“永遠” 美しくも罪深い余韻が浮かんでくる。その余韻の中に、想い出せそうで、想い出せないモノが潜んでいた。それは、ずっと胸に痞え引っ掛かっているモノと同じモノなのかもしれない。

そして、ソレは何時も何処かで、たった一人の面影を探し求めていた。それは、ピエロ・ギルディと重なっている。やっぱり、ギルディは私の前世に関わっている。そして、あの名前は。

よく解らないモノに私は、確信していた。でもそれもまた夢幻なのかもしれない。

 目の前に広がるイルミネーションが創り出している光と影は幾重にも重なりあい、イルミネーションの光が動く度に、影もまた動く。色とりどりの光が時間と共に増えてくる。その光の色によって影の色も微妙に変わる。

それは、何度も夢の中で見ていた幻影と、よく似ていた。

様々な光が交錯している中心に、私は独り立ちつくしている。

周りには光の渦が幾つも渦巻いていて、その向こう側にいる人影は、何度も私の名前を呼んでいる。

そんな夢。

その夢の場面と、イメージ的に似ている光景が、ここに在る。私は、その中に、前世の記憶へと繋がる欠片を探していた。

本当に魂が存在していて、輪廻転生は存在している。それが、存在する理由を私は、探し求めているのかもしれない。

 客のいなくなった遊園地に、独り立ちつくしていた。名残を惜しんでいた客や、マニア系の人も既に帰っていった。だから、私独り。

遊園地のスタッフや、サーカス団の人達が行き来している。廃園を惜しむかの様に無人のアトラクションが動いている。そして、カーニバルのメロディーも流れている。

―幼い日の想い出の場所。それは、ここの人達にとっても同じなのかもしれない。近代的なテーマパークなどの遊園地からすると、この遊園地は時代から取り残された存在なのかもしれない。その様な味わいが好きな人もいて、今まで続けてこれたのかもしれない。近代化から取り残されてかつ、続けてこれたのは、きっと思い入れのある人達の支えがあったから。でも、もう。ここは消えて、残るのは、其々の思い出の中だけ。

考えていると、寂しいモノがあった。古い物は何時か消える。その古いモノに大切なモノがあるとしたら、それは?


「お父さんには、会えたかい」

いきなり声を掛けられて、ビックリして振り返ると、そこにはギルディが立っていた。瞬間、何とも言えない、懐かしさを感じた。

 幼い日。私はここで迷子になり、このメリーゴーランドの前で泣いていた。そこに声を掛けてくれたのが、黒いピエロのこと、ギルディだった。黒いピエロは、泣きじゃくっている幼い私に、何処からか風船を取り出して、渡してくれた。そして、一緒に両親を探してくれた。ギルディと初めて出あったのは、この小さなメリーゴーランドの前だった。その時と同じ様に、掛けてくれた言葉は違うけれど、再び同じ場所で声を掛けてくれた。

それは、懐かしさなのだろうか? それとも別のモノなのだろうか?

そして、何とも言い難い想いが胸にあった。

「う、うん。でも、昔の様にはいかなかったよ」

気を使ってくれているギルディに、答えると、涙が出そうになった。そのせいか、無表情なギルディの顔が、悲しそうに見えた。これは不思議な話なのだけど、バイト先で手伝いをしたサーカス団の人が言っていた事

『ピエロは、自分の心を映す鏡の様な存在。無表情なメイクは、その為だと。だから、見る人の心情によって、面白くも悲しくも、そして、恐ろしくも見える』のだと。英語だったから、訳し間違えがあるかもしれないけれど、ピエロのギルディには、本当に人の心を映す力があると思う。

「そうか。あの頃の様にはいかなかったか」

と、小さく呟く。

私は、頷く。父の事より、私はギルディに伝えたい言葉が幾つもあった。

私は、勇気を振り絞って、ギルディを見つめた。

「でも、私は、また、あなたに逢えてコトの方が、ずっと嬉しい」

言ってしまった。顔と耳が熱くなる。きっと、紅くなっているのかもしれない。恥ずかしくて俯いてしまう。なんで、そんな言葉が出たのかは解らない。

私であって、私でない誰かが言った感じだった。俯いた視線の端に、幽かに見えたギルディの表情。無表情な表情が動いた気がした。

沈黙だけが続く。言わなかった方がよかったのかな、と後悔していた時だった。

「ありがとう」

ギルディが、小さな声で言ってくれた。その言葉を聞いた時、ずっと胸に痞えていたモノが取れた気がした。その痞えていたモノは、幼い頃からギルディに抱いていた想いなのか。それを告げたからなのか? それとも……?

その先に在るモノ、そのモノの為にも会話を続けなければ。

「サーカス団、解散するんですね」

なんとか絞り出した言葉。

「ああ」

「団員の方は、これからどうされるのですか?」

「皆は、ゆっくりと余生を楽しむと言っていたよ。まだ現役でいける者は、別のサーカス団を探すって。残念なのは、ここは居心地がよかったから。皆、似たような者ばかりで」

私の問いに少し、複雑そうに答えてくれる。私は、ギルディがこの先、如何するのか知りたかった。

「あなたは、どうするの?」

おずおずと問う。再び、沈黙が訪れる。イルミネーションもメロディーもまだ、遊園地を包み込んでいた。

この場所が、二人だけの空間の様に想える。私は、ギルディにナニを期待しているのだろうか?

「僕は……」

私を真直ぐに見つめる。胸が高鳴る。それは、痛みにも似ている。ギルディは肩に乗せている鳥を、そっと撫でた。

「僕は、まだ……」

絞り出す様な声。そこに、なんとも耐え難い痛みを感じる。

「赦されていない」

その小さな呟きは、私の心の深淵深くにこだましていく。

―僕は、まだ赦されていない―

何度となく、夢の中で聞いた言葉。如何してなのだろう、この想い。

その理由を聞かないといけない気がする。

「―それは、どうして?」

私の胸は、張り裂けそうだった。その言葉に、ギルディは悲痛な表教を浮べる。明らかに本人の本心だ。もしかしたら、聞いてはいけないコトだったのか。

戸惑っている私を気遣う様に、ギルディは

「昔、永遠を誓った人がいたけれど、僕は自分の無知と自信過剰から、その人を失ってしまったんだ。僕は、その人に逢ったら謝らなければならないんだ。それすら出来ず、彷徨い続けているんだ」

答えるギルディの声は、震えていた。聞いてはいけなかった?

私は如何していいか、解らず俯く。それでも、顔を上げて彼のコトを見ないといけない気がした。顔を上げると、空は暗くなっていた。西の空の果てが幽かに茜色を留めている。東の空には、満月が浮かび蒼い空が広がっていた。

それでも、カーニバルのメロディー流れ、無人のアトラクションは動いていた。そして、イルミネーションは、夜空に映える様に輝いていた。まだ、カーニバルは続いている感じがし、その情景とよく似た情景を、何処かで見たような気がする。

 ギルディと私だけが、その場所にいる。まるで、世界に二人っきり。そんな感じ。視界の端で、繰り広げられているカーニバルの幻影。


 私は、彼に伝えなければならない。

私は、彼に確かめなければならない。

それを告げる勇気が欲しい。私は、呼吸を整え、高鳴り続けている胸に手を置いて、ギルディを見つめた。

「あの、聞いてもいいですか?」

「何を?」

視線が、初めて合った。恥ずかしさと同時にとても懐かしいモノを感じた。

「もしかして、あなたの本当の名前は“カナタ”では、ありませんか? そして、約束を交わしていた。何の約束かは解らないけれど。何処か、解らない場所。とても美しい、あの場所で。―前世の私と」

なんで、そんな言葉まで出たのだろう。名前はともかく、“あの約束と、あの場所”って?

その瞬間、明らかに驚きと戸惑いを露わにした。長年、彼が抑え込んでいた感情が弾け飛んだと、言った感じだった。

「如何して。そのコトを。如何して、僕の本当の名前を」

彼の声は、明らかに震えていた。動揺しているのか怒っているのか、なんとも形容しがたい感情だった。

「こんなこと、信じてもらえないかもしれないけれど、昔から、何度も夢に見るんです。その中に出てくる、あなたと名前。私の知人が、同じ夢ばかり見るのは前世の記憶だと言っていました。でも、それを確かめる術も無い。だけど、もしかしたら、それは、あなたにも関係しているのかもしれないと思って。―だけど」

心の深淵から、例え様のない感情が湧きあがってくる。そんな感情は今まで感じたことはない。答えた私の声も、また震えていた。

ピエロのギルディのこと、カナタは、凍り付いた様に私を見つめる。驚きが露わだ。だけど、その中に、慈しみとも感じ取れるモノが在る。何故、そう感じたのだろう。私の中に、その様なモノがあって、それって愛おしさって、いうのかな。

私も、カナタを見つめる。お互い見つめ合っている。ずっと昔、こうしていた様な気がする。

 すると、彼は何処からか、小さな珠を取り出した。その場面は、何度も夢に出てきている。それは、この遊園地であったり、あの古都であったり、何処か知らない場所だったり。

彼が取り出した、珠は、私が持っている珠と中心の色が違う。なんていうか、闇色。夢の中で渡してくれる珠は、透明だったのに。

「これと同じ珠を、持っているかい?」

彼は、自分の掌に珠を乗せて言った。私は、頷いて、ポケットから、水晶珠を取り出した。どうしても、持っていかないといけないと思ったのは、この時の為なのかもしれない。

中心の色が違うだけで、同じ造りの珠だった。私も掌に乗せて、彼の隣に並べる。その時だった、彼の持っていた珠が一瞬光って、その闇色が薄らいだ気がした。

不思議な感じがした。実感ではないのだけど。やっぱり、彼と私は、前世から繋がっていると。

夢の記憶では、彼は黒いピエロであって、カナタという人物は出てきていない。いや、一度、あったのかもしれない。それが、名前を知るきっかけ。そして、黒いピエロとカナタが、同一人物であることが、今、証明された。

夢の中で、黒いピエロは、何時も私に謝り続けていた。そして、自分自身を責めていた。やっぱり、前世で何かあったんだ。そして、それは、ソコから現在まで続いている。だとしたら、彼、カナタは何者なの?

「あなたは、何者なの? ただのピエロではないのでしょう? 教えて、如何して、私の魂は、何度もあなたに、逢っているの? ずっと同じ姿と声。もしかして、全て、あなただったの? 光の渦の向こうで、私を呼んでいたのも」

私であって、私でないモノが言った。それは、カナタを識っている前世の私。

その言葉に、カナタは沈黙する。私は識りたいのだ。現世の私として、前世の私と同化する為に。


 冷たい初秋の夜風が、吹き抜けていく。不意に、肩に乗っていた鳥が、囀った。

―呪法は解かれた。

何故だか解らないけれど、その様な言葉に聞こえた。

鳥が囀ってしばらくして、彼は重たい口を開いた。

「僕は、あの時から、死というモノを失ってしまったんだ。不老不死という永遠を手にした時から。決して死ぬことの出来ない罪と不老不死の枷を背負ってしまった」

淡々と答える。だけど、瞳には何とも言い難い哀しみが宿っていた。

如何いう事なのだろう、不老不死の罪って。そんなコト、本当に存在するのだろうか?

「それって、あの光の渦と何か、関係しているの」

何時も夢に出てくる、色とりどりの光。

“私が”最後に見た光景。

「ああ。それが僕。まあ、他にもいるのかもしれないけれど、僕の場合、大罪になってしまった。だから、僕は、その贖罪だけの為に存在している」

消えそうな声。とても、痛々しい。想い出せそうで想い出せない。私の創まりの記憶。その記憶が戻ったなら、彼の苦しみと悲しみを癒してあげれるのかもしれないのに。


 視線の端で、また色とりどりの光が渦巻いている様に見えた。

彼は、カナタは、瞳を閉じて何かに想いを巡らせている様だった。

私は、掛ける言葉が見つからず、空に浮かんでいる月を見上げていた。

「永遠を求めた為に、僕達は、引き裂かれたんだ。そして、お互い、最愛の人を失ってしまった」

カナタも、月を見上げた。その言葉は、きっと、前世の私に向けられた言葉。

だけど、カナタの哀しみと贖罪、懺悔の想いが伝わってくるのは、如何してなの。それに対して、私は何も出来ない。そんな自分が、堪らなく悲しかった。

気が付くと、涙が頬をつたっていた。謝らなければならないのは、私の方かもしれないのに。涙は溢れては、零れ落ちていく。

「いいのだよ、遥。これは、僕の罪。君が、悩み嘆く事は無いのだから。ただ、ずっと転生を繰り返している君に、何度も逢っているから、ついこんな話をしてしまった。君には、辛い思いをさせてしまったみたいだ」

優しく言ってくれる。それが、かえって、辛く悲しかった。

「僕は、君と何度も逢っている。所謂、君の魂と出逢いを繰り返してきた。だから、君は、僕を見つけくれた。あの日、迷子になった君を見つけたのは、僕より、君の方が先だった。サーカスのテントの中で、僕を見つけてくれた。憶えてはいないかもしれないけれど。君の視線は、ずっと僕だけを追っていた。無意識に。だから、懐かしさを感じてくれる。それが、僕にとっての救いであり癒しでもあったけれど、君には、前世の君、現世の遥には、逆に辛く悲しい想いをさせてしまった……」

再び、謝る。謝らないでよ。むしろ、私の方が謝らないといけないのに。私に欠けている魂の記憶があるから、カナタを救えない。その記憶が今、戻っていたならば、カナタを、その罪と苦しみから救えたかもしれないのに。

贖罪と懺悔を、終わらせてあげられたのかもしれないのに。

「―私の記憶が……」

言おうとしたのを、カナタが阻んだ。

「いいんだよ。遥。君は現世、今生を生きてくれれば。色々と、あるのかもしれないけれど、君には、今をしっかり生きていて欲しい。僕のコトは、いいんだよ。今生を生き、遥のするべき事をきちんと全うして欲しんだ。―前世の記憶は、もういいんだよ。魂は同じでも人格は違う。遥は遥なんだから」

肩に置かれた手が、温かかった。その温もりは、あの日のまま。あの日と変わっていない。私は、感情を押さえきれなくなり、俯いていた。顔を上げて、カナタのことを、見つめる事が出来なかった。

 きっと、これで、この先もう、ピエロのギルディに、カナタに逢う事は無いのかもしれない。ふと、そんな気がした。その事が、不安だったし、カナタに対する想いが照れ臭くて、俯いたまま。だけど、私は、カナタの姿を確かめたくて、顔を上げる。そこには、何処か懐かしい面影があった。

「また、何処かで逢えるかな?」

じっと、カナタの瞳を見つめて言う。だけど、カナタは私を見つめたまま、答えない。変わりに、私の額に口づけをした。涙が零れ落ちていく。零れては頬をつたい、地面へと。俯いて泣いていたせいで、きっと顔は涙でグチャグチャなのかもしれない。だけど、涙は止まらなかった。

 前世から、何度も巡り逢っているのなら、来世でも、再び巡り逢う事ができるのかな? それを確かめたい。例え、今生で再び逢う事が無くても。来世があるのならば、その時こそ。

「もし、また、私が生まれ変わったなら、その時に、また逢えるよね。この星が終わるまでには、きっと、私達は、あの場所で再会出来るよね」

私ではない、私が言った。おそらく、私の創まりの魂。

涙で視界が、滲んでいた。夜と光、カナタの姿が混じり合って見える。

それが、あの時、見た、最後の光景と似ていた。懐かしい幻影。

あの場所には、色とりどりの花が咲き乱れていて、穏やかで優しい風が吹いていた。その風に揺れる花々の幻影が、見えた気がした。

とても懐かしい、私達の生まれ落ちた、創まりの場所。

「ああ、そうだとも。そして、君は、また僕を見つけてくれる。そうだと、嬉しいな」

言って、私の涙を拭ってくれた。恥ずかしかったけれど、嬉しかった。


 教授や千早の言っていたように、魂の記憶と前世が関係していた。留美や穂村さんが、囃し立てた様に、今生での私にとっての初恋であり、魂の伴侶でもあった。それが、真実かは実感できないけれど。私は、それはそれで良いと納得できた。

それから、二人でベンチに座り、蒼い夜空に浮かんでいる月を見つめていた。雲一つない夜空。満月の煌々とした光は、また違った影を地面に映し出していた。

ここは、幼い日の想い出の場所。そして、現世の私にとって創まりの場所。

だけど、この場所は消えてしまう。でも、想い出として残り、今度は、この時が想い出へと変わる。

 昼間は聞こえなかった、秋の虫たちの声があちらこちらから、聞こえてくる。吹く風は、すっかり秋らしくなっていて、少し寒い。この辺りにはまだ、今、私が住んでいる場所と違い、自然が残っている。そのぶん、秋を感じさせてくれる。あの頃と比べると、色々と変わってしまっているけれど。それでも、この土地は、私が生まれ育った処なんだ。父も母も弟もいない。独りでいるのには、慣れているけれど、この先は不安だった。

ここで、幼い日の想い出とか、魂の前世の記憶との区切りが付いた事で、ようやく、この先の未来を見る事が出来る気がする。

「私、大丈夫かな。ちゃんと、生きていけるかな」

不安を、カナタに洩らしてしまう。

すると、カナタは私を見つめて

「きっと大丈夫。君は強いから」

クスッと笑って言う。

「約束しよう。ここでのカーニバルは、終わってしまったけれど、何時かまた何処かで、カーニバルは始まる。そうすれば、きっと、また出逢える。そうだろう、遥。その時に、また想いを記憶を語り合おう」

カナタの言葉と同時に、光が踊り、賑やかなメロディ―が聴こえて来る。何時か何処かで、二人で見た、大陸最大のカーニバル。それは、とても懐かしい光景と情景であった。一瞬、そんな幻影が心の中に浮かんだ。きっと、カナタが見せてくれたんだ。あの時の、カーニバルの幻影を。ずっと以前にも同じコトがあったような気もするけれど。

私はまた“ピエロ・ギルディ”に元気付けられた。まだ、創まりの記憶は、想い出しきれていないけれど、現世・今生においては、それはそれで、いいのかもしれない。

「うん。何時かまた逢えて、その時、色々と語り合えると良いね」

私は、少し照れながら言った。

カナタと再会でき、カナタがいるから、私は、この先へと歩いていける。生きている以上、色々と問題はあるけれど、それは誰も皆が持っている。魂が存在していて輪廻転生があるのと同じで、それぞれの人生がある。

大丈夫、きっと、私は歩いていける。その想いを読んだのか

「ありがとう、遥」

ピエロは、言って、優しく笑ってくれた。その笑顔を、私は、よく知っている気がした。


 私は、また大学へと通う日常に戻って行った。晩秋の風は、やがて木枯らしに変わり、立ち枯れている草木を揺らしていた。季節は巡っていく。何処か知らない町から、父からの手紙が届いたのは、冬も終わりに近づいた頃。

あの時、遊園地に来ていたのは、死に場所を探していた事。だけど、サーカスを観て、黒いピエロに声を掛けられて、娘の私も来ている事を告げられた。だから、あのメリーゴーランドの前のベンチで、私の事を待っていたらしい。

―父は覚えていたのだろうか?

そして、私と再会した事で、死ぬ事は辞めて、路子さん達と三人で生きていく事にしたと、綴られていた。ただ、そこに、家族としての私の名前は無かった。

父は死を選ぶほどの事をしたのか? その理由は書いていなかった。小さなボロイ工場から、一度の成功で、大きな会社と工場主になり、そして転落。その事で、生きる事を諦めたのか。父もまた、戻れないナニかに絶望していたのかもしれない。手紙を読んでも、私の中に在る、父への蟠りと嫌悪感が浄化する事は無かった。きっと、この先も、その感情は心の片隅に在り続けるのだろう。父にとっての救いは、路子さん達。そして、手紙の最後に綴られていたのは、私に対する侘び。

だけど、もうどうでもよかった。父は父達。私は私で生きてゆく。

私は、卒業したら、ここを引き払って、巡業のサーカス団に入る。簡単な通訳と裏方。そこは、夏休みにバイトをした時、手伝いをした、海外の中規模サーカス団。教授のお兄さんが、紹介してくれた。ちょうど、向こうも新メンバーを探していた事もあって、話しが合った私を受け入れてくれた。

世界を巡業して廻るサーカス団。なんとなく、懐かしさを感じさせてくれる。もしかしたら、前世の何処かで一緒だったのかもしれない。世界を廻る事で、前世の記憶に触れられるかもしれない。日本へは、たまにしか戻って来れないけれど、私は決断した。不安は、まだまだあるけれど。

大丈夫。カナタとの約束がある限り、私は、きっと歩いてゆける。



 ―彷徨―


 かつて、この星の中心に、穏やかな風の吹く、常春の大陸が在った。現代文明では、まったく想像もつかない文明が存在していた。所謂、超古代文明。そこで、人々は、大いなる英知の下で暮らしていた。白い石造りの街並み。この街は、白い石で統一されている。そんな街にある、神殿。

「ねぇ。本当に大丈夫なの?」

長く伸ばした黒髪と黒い瞳の娘は、不安そうに言った。娘の視線の先には、部屋の床に描かれた魔法陣があり、その中央に立っている、銀髪の青年がいた。

「ああ。この呪法があれば、きっと、万物の謎を解く事が出来る」

色とりどりの紋様が描かれた衣は、神職者の衣。娘も同じ衣を纏っている。

「カナタが、何でも識っていて、優秀なのは解るけれど。本当に良いの? この呪法は、今では禁呪だよ」

娘は、古ぼけた書物を捲りながら言う。

「神代者オリジィーン様が、編み出された呪法。現に、オリジィーン様は、呪法の生みの親で、今では神格化されている。大丈夫だよ。永遠を手にし、万物の謎を解き、そして、星の終わりまで、星の教えを、まだ幼い文明へと伝える事が出来るんだよ。素晴らしいじゃないか」

魔法陣の中央に立ったまま、カナタは答えた。

「確かにそうだけど。神格化されたオリジィーン様の、その後は誰も知らないんだよ。本当に永遠を、不老不死を手にしたのかは、色々議論されている。神格化された筈なのに、生み出した呪法の一部が禁呪なのは、如何してなんだろう。きっと、何か理由があるんだろうけど、何処にも記されていない」

娘は、心配そうに言う。

「そんなに心配しなくても、大丈夫さ。オリジィーン様は、星を巡る旅にでられたんだ。禁呪といっても、咎は無いのだから」

と、カナタ。

「ハルカは、心配し過ぎ」

カナタは、笑う。ハルカも、微笑返し

「それなら、いいけど」

「この呪法で、僕達は、ずっと一緒に居られる。そして、何時か万物の謎を、一緒に解き明かそう。ずっと、ずっと一緒に」

カナタは、ハルカの手を取り言う。ハルカは、その言葉に頬を紅く染める。そして、恥ずかしそうに頷いた。二人は、魔法陣の中央へと立つ。

「大丈夫だよね。永遠を手に出来たら、万物の英知、その向こうに在るモノを見つけに行けるね。ゴンドアナみたいに」

二人は見つめ合い、お互い頷く。

「それじゃあ、始めるよ」

二人は手を取り、瞳を閉じて、ゆっくりと詠唱を始めた。

二人の詠唱の声に呼応する様に、床に描かれた魔法陣が光始める。その光は徐々に強くなっていき、やがて光は部屋全体を包み込んでいく。そして、光は様々な色を放ち、二人を光の渦の中に飲み込んでいく。魔法陣から噴き出した光の渦は嵐の様に、渦巻き瞬きながら、二人を包んでいた。とっさの事に二人は、驚いて理解すら出来ず、抱きしめあった。そして、そのまま、光の中へと消えて行った。

 それから、どれくらいの時が経ったのか、カナタは意識を取り戻した。部屋の中は、静まり返っていて、何も無かったかの様だった。あれ程の衝撃があったのに。何が起こったのか理解できずにいた。頭が朦朧としていた。頭を振って、部屋の中を見回すと、部屋の隅にハルカが倒れているのが見えた。慌てて駆け寄り、抱き起こした。

「ハルカ、大丈夫かい?」

カナタは、全身の力が抜け血の気の失せた、ハルカを揺すり、何度も名前を呼んだ。ハルカは、ぐったりとしていて、その呼びかけに応える事は無かった。

カナタは、恐怖にも似た不安に襲われながら、何度も、ハルカの名前を呼び続けた。しかし、ハルカが再び瞳を開く事は無かった。暫く、その状況をカナタは理解出来ずにいた。

「そんな、嫌だ。僕達は、永遠に一緒にいると、約束した筈だろう? ハルカ、ハルカ」

カナタは、声の限り叫んだ。

―永遠の呪法は、失敗したんだ。だから、ハルカは。

声にならない叫び。言葉にならない嘆き。ハルカの亡骸を抱えて、どれくらい時間、嘆いていたのか、カナタは、ハルカの亡骸を横たえると、短剣で自らの喉を斬り、ハルカの後を追った。

溢れだし、滴り落ちる生ぬるい血の感触がわかる。その時の、絶望と悲しみ痛み、滴り落ちる血の感触は、憶えている。僕は死ねなかった。その後も、ありとあらゆる方法で、ハルカの魂を呼び戻そうとしたけれど、それすら出来なかった。そして、自らの命を絶って後を追おうとしたけれど、僕は死ねなかった。僕に死が訪れる事は無かった。そして、知った。永遠の呪法の恐ろしさを。

古文書には、呪法の手順しか書かれていない。色々な古文書を読み漁ったけれど、何処にも呪法を解く術は書かれていなかった。蘇生や反魂の呪法も試したけれど、どれも効果が無かった。そして、永遠の呪法を解く術もまた存在しなかった。呪法に失敗した理由すら、解らない。何処にも記述は無い。

僕は、死ぬことの出来ない身体となってしまった。この呪法を編み出した、オリジィーン様は、如何したのだろうか? 直接会って、聞く事は可能なのか? だけど、オリジィーン様の存在は伝説。その行方さえ判らない。

結界で、部屋を封印し、外部から切り離した部屋の中で、僕は絶望に囚われていた。

ハルカの亡骸が、朽ち果てて骨となっても、僕は嘆き続けていた。

そして、一つの仮説に至った。

永遠を得る代償は、余りにも大きなモノだという事。その代償は、決して取り戻す事の出来ないモノだとしたら。

「二人で共にあり、万物の謎を解き明かしたい為に、永遠が欲しかったんだ。ハルカがいなくなってしまった今、永遠なんて意味が無い。僕は、如何すればいいんだ。こんなカタチで、ハルカと引き裂かれてしまうなんて」

ナゼ、ナゼ。

「ハルカがいない、永遠なんて」

骨となってしまった、ハルカの傍らで、僕は嘆き続けていた。飢える事も渇く事も無く。ただ、存在し続ける絶望しか無かった。

やがて、その超文明も滅びてしまった。豊かだった大地、かつては花々が咲き乱れていた土地は、荒涼とした景色へと変わってしまっていた。人々も消え、その超文明も忘れ去られてしまっていた。ハルカも土へと還ってしまった。

自分の手元に残されたのは、小さな珠が二つ。もう、どれくらいの時が過ぎ去ったのかすら、解らなかった。

 そんな、ある日。

ただ嘆き続けていた僕のもとに、不思議な姿の鳥が舞い降りた。僕は、虚ろな瞳でその鳥を見た。その鳥を、かつて何処かで見た様な気がしたけれど、どうでもいい事だった。すると、その鳥は、ゆっくりと語りかけてきた。

「自らの罪に嘆く者よ。魂の伴侶を失ってしまった哀れな者よ。君が、その命を終え、輪廻の中へ還らなければ、再び出逢う事は出来ないだろう。だが、君は永遠の呪法で不老不死となってしまった。だから、決して輪廻の中に還る事は出来ない」

どれくらいの歳月だろうか、誰かと言葉を交わしたのは。

「永遠の呪法は、解けるのですか」

力無く、僕は鳥に問う。

「永遠の呪法を解くには、君の魂の伴侶を探し出す事。転生を続ける彼女を探し出し、彼女・魂の伴侶から、この出来事を話してくれる時が来たならば、共に輪廻の中へ還る事が出来、再び巡り逢う事が出来るだろう。だけど、自ら話してはいけない。あくまでも、魂の伴侶が想い出して話してくれる時を待たなければならない」

「……ハルカの転生体を捜さないといけないって事ですか?」

「ああ。きっと、彼女の魂もまた、苦しみの中にあるであろう。だから、お互いに救われるには、転生を続ける魂の伴侶を見つけなければならない」

「その方法は、あるのですか?」

「無い。でも、一目で判る筈だよ。だけど、彼女の転生体に名乗ってはいけない。この出来事を話してもいけない。何時か、出逢えて、向こうから“永遠の呪法”について語ってくれた時、お互いに救われる。そして、転生して再会できるであろう。例え、転生体と判っても、自ら接触してはならない。向こうがこちらに気付いてくれるのを待つしかない」

「そうすれば、再会出来て、この呪法から解放されるのですか?」

「ああ。呪法の記憶と、お互いの想い。転生した彼女が、それを語るのは、君を責めるワケでは無く、君を救う為。転生を続けながら、彼女はきっと、何処かで君の事を探し続けている。再び君に、出逢いたい為に」

鳥の言葉に、僕は渇ききっていた涙が、再び溢れ出た。

「ここから、旅立ち、時の流れと共に彷徨う。そして、探し出す。私が、その道標となろう」

言うと、鳥は、僕の肩に乗った。

 すでに、風化しきった文明の跡に立ち、僕は地平の遙か彼方を見つめた。永遠の呪法を解く術は解った。でも、どうしたら、ハルカの転生体と出逢えるのだろう。もう、幽かな記憶にしか残っていない美しかった街を、大地を想い出す。

「どうした、まだここに、いるつもりかい?」

「ハルカの転生体と巡り逢うには、如何したらいいか。どうすれば、彼女の方から、僕を見つけてくれるのかを考えていた」

美しかった大地は、見る影も無い。

「さあね。そこまでは、私にも解らない。でも、君達二人が、一番楽しかった事、その時の想い出と関係しているコトならば、きっと魂の記憶が、そこへと導くだろう。だから、転生した彼女が現れるとしたら、その様な処だ」

「一番、楽しかった僕達の想い出」

僕は呟いて、荒野に咲いている一輪だけの花を見つめた。

「そうだな。毎年、迎春祭と収穫祭の時に、催されていた、幻影奇術芸かな。その劇団を二人して観に行った事が楽しかったな。毎年、二人して楽しみにしていたよ」

僕は懐から、二つの珠を取り出した。

「それは?」

「以前、祭りの時に、商人から買った物。この珠には、持ち主の心の色を映し出す魔法が掛けられているんだ」

二つの珠のうち、僕の珠は漆黒の闇色をしていて、ハルカの持っていた珠は透明だった。

「この珠に、僕達二人で、別の魔法を掛けた。二人で共にいようと。もし、離れ離れになった時、お互いを探し出す為の術として。だけど、今となっては」

ハルカの持っていた、透明な珠を見つめる。

「まだ、魔法は消えていない。もしかしたら、この珠が導いてくれるのかもしれない」

「そうする為には、ここから歩き始めるべきだ。この大陸は、間もなく消えてしまうから。全ては、星の教えの下に」

鳥は、僕の肩から空へ舞い上がり、旋回すると大きな姿となり、僕の前へと降り立つ。その姿は、人一人が乗れる大きさだった。僕は、驚いた。そして、何故かは解らないけれど、この鳥の正体が誰であるのか推測できた。でも、それは秘めたままにした。

「さあ、私の背に。君の魂の伴侶を探しに行こう」

僕は頷き、鳥の背に乗った。鳥は大きな翼を広げると、荒涼とした大地から、大空へと翔いていった。

「常春の大陸。星の海へと旅立った文明。それも、この星から歴史から消える。星の教えを継ぐ者達を見守りながら、君の魂の伴侶を探すとしよう」

鳥は、更に、天空高く舞い上がり、言う。

 今も憶えている、創まりの大陸。あれから何度も、人間は同じ過ちを繰り返してきた。

それでも、僕は、ハルカの転生体を探し続けた。あの祭りを想い出し、道化師・ピエロとなる事を決めたのは、何時の時代だろう。絶望と贖罪と後悔を抱きながら、人々に喜びをあたえる。つかの間の癒しと共に偽りの僕として。

そして、ようやく出逢えた。ハルカの転生体と。

それからが、本当の創まりだった。出逢っては別れ、それの繰り返しだった。

呪法の影響なのか、ハルカの転生体は、孤独な人生だったり、短命だったり、とても幸せとは言い難い人生だった。

そして、現在のハルカの転生体。同じ、『遥』という名前を持っていた。彼女もまた、孤独の中にいた。だけど、それが、前世、創まりの魂の記憶を蘇らせていた。完全に無いにしろ、今まで最も記憶を蘇らせていた。それが、現世の彼女を苦しめている事であったとしても。

―だから、僕は。






















   終章


 一人で歩き始めた遥を、カナタはずっと遠い場所から見つめていた。

「そういえば、君はあの時、呪術店の店主と何を話していたんだい?」

カナタは、肩に乗っている鳥に問う。

「それは、言えない。まぁ、彼も、星の教えを継ぐ末裔だし。その話と、君が早く、ハルカとの再会が出来るといいなと、話していたんだ。そうすれば、私も、そのサダメから解放されるから」

何処か遠い目で、何かを秘めた口調で鳥は、答えた。

「ま、いいけど。星の教えを継ぐ者には、また何時か、手を借りる事になるだろうし」

と、鳥が呟く。

カナタは、中心が闇色の珠を月明かりにかざす。鳥は、その色が変わり薄れて行く事を見逃さなかった。

「大丈夫さ、カナタ。遥は、君の事を想い出してくれたじゃないか。後は、彼女の心次第。それが、今生で叶うかどうかは別として。運が良ければ、再び今生での再会もありうるって事さ」

「ああ。でも、不安だったんだ。ハルカは、僕の存在を何もかも忘れ去ってしまっているかもしれないって。別の魂に惹かれてしまうのではないかと。僕の中には、取り残された喪失感と、孤独しかなかった。それは、恐怖のように僕を締め付けていた。だけど、あの日。幼い遥と出逢って、僕は確信出来た。ハルカの転生体で、僕を探しているコトに。諦めかけていた時だったから、僕はどんなに救われたか。幼い遥の無邪気な笑顔に。そして、偶然なのか必然なのか、おなじ名前だった」

カナタは、少し嬉しそうに、鳥に話す。

「そうかい。まあ、あの娘は、父親との確執によって、幼い日の想い出が前世の記憶を呼び覚ますきっかけとなった。現世の幼い日の想い出と前世の記憶が重なり合っていた。これも、私には解らなかった事だが、偶然なのか必然だったのか、前世に暮らしていた、あの古都へやって来た。だから、あの店に私が誘った。そして、あの店で、双心玉を見つけて、手にしたのは、亜麻見遥、彼女自身。そして、その時、彼女は、前世を確信したんだ」

鳥が言った。

「遥が、この珠。双心玉を手にしてくれた。これと対になる珠を。そして、次は、何処の土地で、再び巡り逢う事が出来るのだろうか? 僕達の生まれた、創まりの大陸は、もう無い。だけど、もし叶うのであれば、その様な場所がいいな。この星の何処かに、よく似た場所があるのだろうか?」

カナタは言って、少し薄くなった闇色の珠を見つめる。

闇色の珠に、月が映っていた。

「なるほど。ハルカの魂も同じ事を考えているのであれば、きっとそうだな。だけど、破滅寸前の、この世界の何処にその様な場所残っているのだろうか? それとも……」

鳥は何か言いかけて、口を閉ざした。

『星の再生、その後になるかもしれない』

と、心の中で呟いた。

「まあ、いい。今すぐに滅んでしまう訳でも無い様だし。そろそろ、行くとするか」

鳥は白く輝き、大きく姿を変える。

「ああ」

カナタは、頷いて、その背に乗った。



  巡り往く


 波の音が聞こえている。モザイク模様のタイルが敷き詰められた歩道は、海岸へと続いていた。冬だというのに、花壇には色とりどりの花が植えられている。海からの風が、潮の匂いと花の香りを漂わせていた。

この辺りでは、一番大きな公園。広場を囲む様にして花壇がある。

そして、広場には、サーカス団の大きなテントが張ってある。テントというより、組み立て式の建物に近い。ここは、日本から遠く離れた異国の地。

 大学を卒業した遥は、世界を廻るサーカス団に入り、世界を巡っていた。こおは、公演で訪れている国。大きな公園は、昼間は人で賑わっていたけれど、今は静まり返っていて、波の音が幽かに聞こえて来ていた。

今日は、公演最終日。次の土地へ旅立つ、束の間の休息。他の団員達は、街へ出掛けていたり、すでに休んでいる人もいる。入団して一年余り。なんとか、通訳も上手くなり、話せる言葉も増えていった。始めは馴染めるか不安だったけれど、それも取り越し苦労だった。色んな国から集まった団員達と、日本人の団員、それなりに打ち解けていけた。

私は、最終日だけは、独りで過ごす事に決めていた。その時間を大切にしたかった。前世や、幼い頃の幻影は、今も夢に見るけれど、その夢を見た日は、出来るだけ独りの時間を作るようにしている。

公演の初日と最終日は、何時も、モノ想いに耽る。それは、カナタへの想い。

海岸沿いの遊歩道に立ち、海の彼方を見つめていた。

海外公演の先から、千早や留美、教授と兄の社長、バイト先でお世話になった、穂村さんと阿屋野さんに、葉書を出すのを習慣にしている。たまに気まぐれで、実母と父達にも出すけれど。蟠りも溝も、今も心にある。それも、何時か巡る時の中に埋もれてしまうのかもしれない。


 夜空を見上げる。澄んだ冬の空には、煌々と月が輝き、雲一つ無い夜空には、無数の星が瞬いていた。その月光に照らされる様にして、夜空を横切っていくものがあった。

「カナタ」

小さく呟く。それが、何故だか解らないけれど、カナタだと想えた。その光が見えなくなるまで見つめる。

「また、何処かで逢えるよね。その時には、きっと私」

双心玉の片割れを、月光にかざす。

「大丈夫。きっと逢えるから」

少しだけ春の気配を含んだ風が吹いて、長く伸びた遥の黒髪を揺らした。

テントの方から、呼ぶ声が聞えた。振り返り、答える。そして、もう一度、海の彼方を見つめて頷くと、仲間の待つテントへと駆けて行く。

遥の持っている珠には、小さな光がハッキリと浮かんでいて、更に月光を反射させて輝いていた。


 常春の楽園。星の海を夢見た 創まりの大陸。色とりどりの花が咲き乱れ 優しい風が吹くあの場所で、再び巡り逢う事を、互いに祈って。


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