第6話 シャムモシリ遠征
3年経った。
(やってやりましたとも。
妹のオペリはすくすくと健康に育ったよ。
無事にオムツも取れて、オマルでできるよ。
お尻拭き用の紙も開発した。
使い物にならない樹皮の繊維を細かくして木灰液で煮てグズグズにして海藻をすりつぶして煮た糊を入れて、簾ですいて乾かした。
力を入れすぎなきゃ破れないし。
岩のりをすいて海苔も作ったけど。
狸の毛を束ねて木の樹脂で固めた歯ブラシとか、骨灰の歯磨き粉とかも。
最初はジト目で見られるけど結局は使ってくれる。
消毒アルコールは飲み物じゃ無いぞ、イクルイめ!
レンガとか前世で言い慣れてた英語?がついでてしまいいろいろやらかしてる。
アイヌ語に無い言葉は日本語、逆もありでごまかしてる。
生水飲まないのも、お湯で体を拭くのも習慣になった。
ニセコの温泉に浸かるのも、みんな好きになった。
オタ・オル・ナイはチセも15棟に増え人口60人強のコタンだ。
船5隻でも交易が順調で忙しい)
「水夫の訓練もできたし、そろそろ目的を果たすか」
「高嶋屋伝右衛門はんは先代を引き継いでっから生きておりますやろね」
「あんひとならうまくやっとるわ、8年もかかったか」
「樽は仰山持って帰らなくてはやね」
「道具もだ、全然足りん。まあ、高嶋屋も大きな船ぐらいこさえてるやろ」
「坊も連れて行くんか?」
「ああ、絶対行くってきかんやろ」
「「そやろな~」」
遠征は傳二郎と貴丸、弥助、三吉、猪之助、他、和言葉も話せるアイヌの屈強な若者8人、合計13人に決まった。
用意したのは、塩鮭、筋子、数の子、干し貝柱に干しナマコ、干し昆布などは近所のコタン謹製、シャボンは自家製、蝦夷錦や塩硝は大陸からの交易品だ。
この3年で周辺の硫黄鉱山を開拓、大陸間貿易も活発になって、西隣のヨイチコタンともよしみを通じている。
石炭鉱山と鉄鉱山については専門知識を持った山師と鍛冶師を数名連れてこれるか検討すると決まった。
製鉄技術は大陸の方が発達しているので、そちらでも探すことをホンジと王寧には話していた。
(元亀2年2月に武田信玄が倒れたんだよね。
死期を悟って来年は焦って三河を攻めるのかな)
大陸産の天然磁石で鉄指針を磁化した羅針盤で進路を、簡易六分儀で緯度を計測しながら航海。
海図は貴丸がおおよその記憶で書き記したものだ。
大事なのは帆の形、ヨットの三角帆は風さえあればタッキングで進める。
帆は樹皮繊維にタールをしみこませたものを糸にして編んでいる。
帆柱との間は縄の輪を通し、先端の滑車で太縄を引っ張り上げ下げ、帆柱と帆桁の可動接合部は鉄で補強してある。
化学繊維ほど帆も縄も丈夫ではないので大きくできないが十分速い。
訓練はかなり時間を掛けた。
見送りを受けて出航、テキアンノに抱かれたオペリが一生懸命手を振る。
傳二郎が泣いていた。
「ミチ・・・」
「あああ、あんなに小さくなっちゃって、もう少しゆっくりでいいのに」
「・・・だめだこりゃ」
あっさりと5日の航海だった。
陸に近づき、形で位置を確かめ、敦賀湾内へ、帆を下ろし櫂をこいで高嶋屋の船着き場に到着、おそらく3月中頃の昼だ。