きれいなこころ。
週一投稿これからも続けます。
『今週末会えない?』
身に覚えのない電話番号に応答すると、放たれた言葉はそれだった。会社帰りで駅のホームだった為か人が多い。小声で悪態をつく。
「お前、何のつもりだ?」
私はこの女の声を知っている。
『話したい事があるの』
この女は、私と恋人でありながら浮気をした陽菜という女だった。
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「チッ……最悪の休日になった」
私は車を走らせていた。休日はドライブする事も少なくないが、今回ばかりは虫の居所が悪かった。陽菜が指定したカフェに向かうまで、片道15分はかかるとカーナビが言う。それがまた私を苛立たせる。
私がこうしているのは他でもない、陽菜に直接文句を言ってやろうという目論見があったからである。陽菜の浮気が発覚した時、陽菜は開き直って浮気を堂々と発表した。そして悪びれるどころか『愛情が足りない』『無機質』と私を叱責し、罵倒した。
その頃の私は自責と失意しか頭になかったが、時は進んで心傷は癒え、代わりに憤りが湧いていた。そうして今、その鬱憤を晴らす時が来たのである。
普段なら気分良く聞けるBGMを消して、車内を無音に保った。今はどんなBGMも雑音にしか思えない。だがおそらく、帰りは気分良く洋楽でも流せるだろう。この腹立たしさを解消できれば、いつもの休日のようなドライブを楽しめるだろう確信がある。
「陽菜、あいつ今更どうして…?」
しかし私は一つ疑問点があった。それはどうして会話の場を設けたのだろう、というものだった。通常浮気して破局した恋人には会わないだろう。絶縁当然の、遺恨だらけの相手なんて、何をされるか知れた事じゃない。
ここで私は一つの仮説を立てた。陽菜は生活に困窮して、頼れる人間がもはや自分しか居ないのではないか。
おそらく当たらずとも遠からずといった具合だろう。私としては陽菜がどうなろうと構わない。(むしろ不幸になればいいと願っていた)それでも私がカフェに赴いたのは、助けてくれと哀願された上で断りたかったからである。そうする事で報復を果たす、という思惑があった。
どうせあの女は私との浮気程度では懲りていない。人の性根はそうそう変化するものではない。その深い失望は、信頼や期待とも考えられる程に根づいていた。
何かお願いされたら、つっぱねてしまおう。そう考えているうちに、悩みの種である陽菜がいるカフェに到着した。
「いらっしゃいませー」
チリンチリンとドアベルが鳴り、店内に出迎えられた。ガラスで四方は囲まれており、小さな庭が覗ける店の設計だった。一番奥の、二人用の対面机で陽菜は座っていた。私と目が合うと平然として笑い、手招いていた。
「久しぶり。最近どう?」
軽々しく言葉をする姿に、怒りより呆れが勝る。この女にとって、浮気は気にならない事だったのか? つい半年前に諍いが生じたなんて、もう頭に無いのだろうか。
「……私は、お前と雑談する仲ではない」
「冷たいなぁ」
浮気した相手を暖かく扱うような甘い人間ではない。そして厳しいつもりもない。陽菜が傲慢で無責任すぎる人間なだけである。陽菜の自由人で勝手で適当な性格は、今も継続していた。
私は取り敢えず席に着き、腹が立つ思いのままに叫びたいのを抑えていた。無論、他の客の迷惑になるので、叫ぶなんて元々しないとは思うが。
「あ、アイスコーヒー2つお願いします」
陽菜が店員を呼びつけて注文した。しかし私は長居するつもりも無かったので「一つで構いません」と言い加えた。陽菜はお手拭きを三角に折ったり、丸めたりして遊んでいる。
腕を組んで椅子に背を預けた。見下ろした態度で(事実、私は陽菜を下に見ていました)口を開いた。
「で、話って何だ?」
簡潔に単刀直入に聞く。前述の通り長居はするつもりはないし、どうせ金か何かに困っているだろうに、余裕ぶろうとする態度が気に食わなかった。
「あー、話ね。そうだね」
お手拭きで遊ぶのをやめて、真剣な表情で私を見据える。どんな事を頼まれるのだろうと期待し、拒否してやろうとしていた。以前と変わらない腐った性根が見られるだろうと、高を括っていた。しかしその予想は大きく外れる事になる。
「私ね、今日は謝りたくて来てもらったの」
…………は? と言いたくなるのを抑える。
「あの時、私が浮気したっていうのに開き直って、悪い事ばっかり言ってごめん」
いや、え、どうして。困惑、驚愕の声も出ない。
「反省して、改心して、ちゃんとけじめをつけたかったの」
頭が真っ白になる、とはこの事だろう。まさか陽菜が浮気を悪びれているとは、夢にも思わなかったのである。
あまりの衝撃に言葉を失っていた。そして私の怒りはまるで元々無かったかのように霧散していた。あまりの想定外に憤ることを忘れる。とんでもない肩透かしをされた。憤怒の矛先を見失い、ただ呆然とあっけらかんとした。
「ごめんね本当に。私が悪いのにあんな事言って」
陽菜は目に涙を滲ませていた。まさか、陽菜は改心したのだろうか。あの陽菜が? 私は別人ような女を前に驚きを隠せないでいた。
「あ、あぁ、そうだな。あの時は……」
私の口から漏れたのは、会話を繋ぐためだけの、その場しのぎでしかない言葉だった。情けない話、もうほとんど頭が回っていなかった。反省して謝罪されたなら許さなければいけない。陽菜にこれだけの態度をとらせておいて、過去の行いを咎め、ましてや報復するなんて出来るはずがなかった。
「いや、もう気にしていない。陽菜の言った通り、恋人でありながら言葉足らずの私も悪かった」
逆に私が謝るはめになってしまった。いや、それも仕方ない。私が憤るべきは利己的な陽菜であって、改心して謝罪の場を設けるような陽菜ではない。変わり身でもされたか、狐につままれたような奇妙な錯覚と不燃焼の怒りが、私の心には渦巻いていた。
「ありがとう。ごめんね、時間とらせて」
改心した陽菜。どうせ何かされるに決まっていると決めつけた私。これでは私のほうが心が汚れているではないか。被害者である事を盾にして、高潔な自分でいようとした。それが裏目に出てしまったせいで、私は高潔を失うばかりか、心が汚れている証明さえされてしまった。
私は、期待していたのか? 陽菜が悪どい人間であって欲しいと。そう信頼していたのか?
目に見えない敗北感と共に、自身の失望と性根を恨んだ。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーです」
店員が陽菜にアイスコーヒーを手渡す。それを「あぁ、頼んでおけばよかった」と後悔して眺める。今日は最悪の休日だ。こんな結末は予想外だ。やっと燻っていた苛立ちを解消できると、意気揚々としていたのに。私は自責と失意しか頭になかった。
「いや、それでさ、頼みたい事があるんだよね」
緊張した面持ちで語る陽菜の言葉に、うつむきながら耳を傾けた。
「あの、ちょっとだけお金貸してくれない?」
…………は? と言いたくなるのを抑える。
「何か、彼氏がパチンコにハマっちゃってさ」
いや、え、どうして? 困惑、驚愕の声も出ない。
「ごめん、何か謝ってばかりだね」
今度は怒りは湧いてこなかった。呆然とあっけらかんもしなかった。正直に言おう。苛立つどころか、私は嬉しかった。この女が改心していないことに。腐った性根に期待し、信頼していた。それを一度は裏切られた。
歓喜に震えるとは、この事だろう。あぁ良かった。やはり私は高潔であった。これで人の目を気にせず、毅然として生きていけるわけだ。
この女は所詮どうしようもない女で、心底安堵した。