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第17話 越水城の戦いと平井宮内信正

『名門貴族に生まれたけれど、戦国大名目指します』の改稿版になります。

 ストーリーや登場人物、役割など旧作と変更されています。


 カクヨムで大幅に先行投稿しておりますので、先が気になる方は、そちらをお読みください。

永正17年(1520年)


 年が明けたが、昨年の秋から両細川の乱が激化している。細川澄元方は、京の都を奪わんと窺っている状況だ。

 年が明け、1月12日、細川澄元方に呼応し、山城国では土一揆が発生している。その際に、上京では大樹(足利将軍)の御所が放火されていた。

 両細川の乱のせいで、畿内の情勢は緊迫しており、特に京の都は細川高国方や公儀がピリピリしていて、治安が悪化している。

 そのため、両細川の乱の情勢が落ち着くまでは、近衞邸の外へ出ることを禁じられてしまったのだ。旧松殿家の屋敷を訪れたかったのだが。

 仕方無いので、外出出来る様になるまでは、手習いや儀礼などの教養の修練に励まざるを得なかったのである。


 暗雲立ち籠める畿内において、細川澄元方の三好之長が京の都を手中に収めんと窺い続けていた。

 昨年11月6日、細川澄元・三好之長らが摂津国兵庫に上陸し、11月21日には瓦林正頼の居城である越水城を包囲していた。包囲中の12月19日、京の都では、前日に合戦があり、三好之長父子が戦死したという噂が流れていた。細川高国方は大いに喜んだと伝え聞くが、結局は誤報であったそうだ。

 今年の1月には、細川高国方の内藤貞正と伊丹国扶による越水城の救援が送られたものの敗北している。「越水城の戦い」に敗れ、救援に失敗したため、2月3日には越水城を落城したのであった。

 同じく2月、細川高国は細川澄元の軍勢を迎え撃つべく、尼崎へ進軍している。しかし、時を同じくして、京の都では郷民が入京して騒ぎを起こし、徳政を叫びながら、略奪を行った。

 細川高国の軍勢は退却せざるを余儀なくされ。退却の途上でも西岡衆などの追撃を受けたため「落ちる者どもを殺し、あるいは具足をはぐ」という有様で、細川高国方は大敗を喫したであった。

 三好之長は、細川高国方の状況を見て、2月16日に尼崎方面に進出する。

 京都へ敗走した細川高国は、2月17日に足利義稙へ一緒に近江国へ逃亡するよう申し出たそうだ。しかし、足利義稙はその申し出を拒否している。そのため、翌18日に細川高国は近江国の坂本へ逃れることとなった。

 三好之長は、細川高国の敗走後、過去の苦い経験から直ぐに入京せず、20日に大山崎に着陣してから、待機し続けているそうだ。



 私は越水城の戦いからの両細川の乱の流れを目の前にいる人物から聞いていた。

 私の目の前にいる者の名は、平井信正と言う。宮内を自称しているため、平井宮内と呼ばれていた。


 平井宮内は、美濃国加治田の平井家の始祖となる人物だ。平井家の子孫が残した文書によると、軍術に長じており、高官として朝廷に仕えていたそうだ。20歳前後には、宮内卿として天皇に仕えていたらしい。

 その後、戦乱を避け、縁故である美濃国の斎藤道三の所へ寄寓した。斎藤道三が子の義龍と不仲であったため、度々諫めたものの、改められないので、道三の下を離れて、栗野郷に住んだ。

 天文16年(1547年)、斎藤道三が守護の土岐頼芸を攻めた際に、平井宮内は頼芸方について戦った。

弘治元年(1555年)、斎藤義龍による斎藤道三討伐では、道三の非道を憎んで、斎藤義龍方に加わっている。


 以上が、平井宮内の子孫が残した記録とのことであるが、宮内について、公家衆たちの記録に残った形跡は無い。

 そもそも、堂上家に平井家など存在しないため、20歳前後で宮内卿になれるとは思えない。

 平井宮内が実際に宮内卿であった可能性は低いだろう。

 また、縁故のある斎藤道三を頼ったのに、非道な道三と敵対する様になってしまう。それは、縁故があったのは、斎藤道三の父である長井新左衛門尉であれば、話が通りやすい様に感じる。

 松波家の子として京にいた長井新左衛門尉は平井宮内と縁があった。美濃国で立場を得た長井新左衛門尉を縁のある平井宮内は頼る。

 その後、長井新左衛門尉は亡くなると、息子である斎藤道三とは意見が対立する様になり、道三の下を離れて、敵対する様になったと考えれば、納得が行く気がする。

 兎も角、平井宮内とは謎の多い人物なのだ。


 私は「着袴の儀」を終え、好きな学問を学べる様になったことで、軍学について学びたいと思っていた。武士になり、軍勢を率いて勢力を拡大させるならば、以前から必要だと考えていたのだ。

 公家衆でも教養として『孫子』などに代表される兵法書を読んだり、教授されることもある。しかし、軍学者を名乗れるほどの者はいなかった。

 そして、京にいる軍学者を調べさせたところ、それなりに評判の良かった人物として、平井宮内と言う者が見つかって今に至る。

 平井宮内に話を聞けば、公家出身ではあるものの、地下家の出であるそうだ。実家にあった兵法書などを読み漁り、軍学の研究にのめり込んだらしい。

 上級武家であれば、軍学を教える家臣がいるのだろうが、軍学を学ぶ機会の無い武士は多い。

 平井宮内はそう言った武士や武士を目指す者などに軍学を教えて、生計を立てているそうだ。


「細川高国と細川澄元の争いについては、良く分かった。これからも、平井宮内には教授してもらいたい」


「何と!これからも、若様に教授させていただけると言うことでございますか?」


「如何にも。当家にも軍学を教える家僕はおるが、教養の域を出ぬ。世の動きと合わせて軍学を語れる者から教授を受けたいのだ」


 両細川の乱について、平井宮内から軍学者としての知見で話を聞いたが、家中の者たちが話す内容とは視点が違って有意義であった。

 家僕の中にも、軍学を教えられる者はいるものの教養の域を出ていないのが実状だ。

 私が平井宮内を招聘している理由もそこにある。家僕から教養として学ぶのでは無く、学者から実例を元に学びたいと祖父や父に主張したのだ。

 松殿顕家の死によって、松殿家継承と言う選択肢から、別の選択肢を祖父や父は模索している。私の武士への道がまだ残っていることは、平井宮内の招聘が許されたことからも分かるだろう。

 こうして、私は定期的に平井宮内を招いては、軍学を学ぶこととなったのであった。

今作では、旧作で飛ばされた斎藤正義の幼少期時代が大幅に追加されます。

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