氷割れて、おかえりなさい
ふと、頬を冷たい風が撫でた。
「え?」
暑くもなく寒くもなく、心地いい気温の空間にそれはやけに冷たく感じた。
ふわりと雪が舞う。花畑に似つかわしくない冷気はたちまち猛吹雪となり、カンナが寒さに震える前に凍結する。吐く息が一呼吸だけ真っ白になった次の瞬間。
ぱりん、と世界が割れた。
「きゃ……!?」
驚きのあまり目を閉じる。誰かが肩を抱いてそばにしゃがむ気配がした。
強く吹き付けた猛吹雪が一呼吸で終わり、凪ぐ。カンナが目を開けると静かだった花畑は元の公園に戻っていた。
「え……?」
「よぉ、ノロマ」
「ベルダー!?」
膝の上に何かが乗っていると思ったらベルダーコーデックスじゃないか。慣れた重みと見慣れた本と聞き慣れた嘲笑は間違いない。
顔を上げれば横にはレコがいる。庇うように肩を抱いていたのはレコの手だ。
「無事?」
「う、うん」
「ほんと迂闊なんだから」
心配するこっちの身にもなれ。説教したいが後だ。今はこちらだ。
前を見据えるレコに倣い、カンナも視線をそちらへ向ける。きらきらと光をまとう小さな精霊と、それを阻むように立つリグラヴェーダがいた。
「ナニヨォ!」
「あら。怒る筋合いはないでしょう?」
遊び相手を奪われてご立腹のようだが。
高等魔法院の生徒は何人たりとも危害を加えてはいけない。このルールは高等魔法院に属する生徒や教師、あるいは校外の第三者だけでなく、神や精霊にすら適用される。
カンナを攫った精霊の所業はそれに抵触する。もしカンナが精霊郷に長くとどまりヒトならざるものになった時は当然、そうなる可能性のあるこの状況もだ。
「ナニヨ、話ガ違ウジャナイ!」
もう、と精霊が頬を膨らませる。
話が違うと怒った精霊はそのままくるりと一回転してから空高く飛び上がる。
「次コソハ遊ンデモラウンダカラ!」
諦めないからねと負け犬の遠吠えのように一言言い残し、そうして光が辺り一帯を照らす。
転移魔法特有の光だ。眩しさに閉じてしまった目を開けると、そこは元通り、校下町の一角、閑散とした空き地だった。
どうやら精霊郷は脱出できたらしい。実感がようやく現状理解に追いついた。自分はリグラヴェーダとレコにより救出されたのだ。
「とりあえず……落ち着ける場所に移動しましょうか」
色々とお互いに言いたいことや聞きたいことはあるだろうが。まずは落ち着ける場所に移動してからだ。
ちょっとごめんなさいねとリグラヴェーダが両手を叩く。ぱん、と拍手を一回。それでまた転移魔法に飲み込まれる。転移魔法特有の足元が消失する感覚と浮遊感、それから眩しい光。落下するような感覚に身構え、そして、気がつけばリグラヴェーダが管理する薬草の温室の一角だった。
休憩用にテーブルと椅子がしつらえてある。カンナとレコにそこに座るよう促し、自身も椅子に座ったところで、さて、とリグラヴェーダが口を開く。
「まずは現状の確認からね」
時系列の整理や何やら。どうしてリグラヴェーダがあの場にいたのか、助けに来たってどうやって、そんな疑問をまとめて解決するために。
精霊祭に沸く校下町を歩いていたカンナを精霊が誘拐。ベルダーコーデックスを置き去りにして精霊郷へと連れ去った。
その一方でレコのもとにメッセージが届いた。鳥が窓にぶつかったような音がして、窓を見てみたらそこに一枚のメッセージカードが置いてあったのだ。メッセージカードには一言、精霊がカンナを攫った、と。
嘘か本当か、本当だった場合早くしないととんでもないことになると真偽を確かめるためにレコは精霊の守護者たるリグラヴェーダの元へ。
「同時に、私のところにも精霊が知らせてくれたのよ」
懇意にしている氷の精霊がリグラヴェーダへ、文字通り飛んで教えに来てくれた。樹の子がヒトの子を精霊郷に招いた、と。
「子?」
「精霊はね、自分たちを子と呼ぶの。神から生まれたものだから……」
神々によって生み出されたことから、精霊は自分たちのことを神々の子と自称する。氷の精霊ならば氷の子と呼ぶ。つまり樹の子とは、樹の精霊を指す。
真実を司る氷の神に仕える氷の精霊が嘘を言うはずがない。『そう』と言うなら『そう』だ。精霊が生徒に手を出したのならそれは守護者たる自分の出番だ。高等魔法院の生徒に手を出してはいけないというルールに抵触する精霊の手を払いのけなければ。
「それで、そこにレコが来たというわけ」
こんなメッセージカードが届いたんです、もし本当なら助けてください、守護者でしょう、と。
そうしてリグラヴェーダとレコが合流して、カンナを探して以下略。今に至るというわけだ。
「まったく、とんだ子もいたものだわ」
それにしても、だ。気になることがひとつある。
精霊がこうして人間を精霊郷に誘拐することはたまにある。だが、高等魔法院の生徒を連れ去るなんていうのは前代未聞だ。手を出してはいけないか、そうでないかくらい精霊だって区別がつく。
それなのに、それを無視して高等魔法院の生徒を連れ去るだなんて。
「誰かの差し金かしら」
神の意図ということはないだろう。見るからに平凡な生徒に神が何かしらの運命を仕組むはずがない。
だとすれば、と推理を走らせるリグラヴェーダに、あの、とカンナが割り込んだ。
「あの、もしかしたら……魔女の仕業かもしれません」
「魔女?」
「はい」
ここまできたら話さないわけにはいかないだろう。ハルヴァートには魔女のことを話す相手は慎重に見極めろと言われたが、助けてもらった相手だ。
ハルヴァートに無許可で話を広げてしまうことに若干の罪悪感を覚えつつ、あの、と言葉を紡ぎ始めた。
「魔女っていうのは……」




