過去の負債
「過去の負債と云う物が在る」
歴史の授業。開口一番にイノーニがそう言った。
「今の此の信仰の時代は歴史上最も神に祝福された時代で在り、同時に最も神に忌まれている時代でも在る」
なぜか。それは魔女が生きているからだ。神々と人間の絆が分かたれた"大崩壊"を引き起こした"灰色の魔女"はこの時代までまだ生きている。今この瞬間にも息をしているし鼓動は脈打っている。どこかで笑っているかもしれない。
「此の過去の負債は片付けなければならない。其れが人間の使命で義務で、終わらせるべき瑕疵だ」
当たり前のことを今更言うべきではないが、それが今の時代に生きる人間の義務だ。
今この時代に生きる人間が全員それを目指さなければならないほど差し迫った使命ではないが、いずれ誰かが果たさねばならない義務である。
「其れを片付けて漸く人間は堂々と顔を上げる事が出来る。晴れやかな気持ちでな」
それまでは俯き、魔女を殺す義務を果たせない不甲斐なさを神に詫びねばならない。必ず果たしますのでどうか見放さないでくださいと慈悲を請わねばならない。
そうイノーニは主張する。さすが狂信派と呼ばれるだけはある。
高等魔法院には2つの派閥がある。どちらも神に尽くす信仰者であることは違いないのだが、手段が違う。
ひとつは研鑽派。その通り、魔法の研鑽を積み習熟することで魔法という存在を与えてくれた神への恩返しとする派閥だ。神秘生物学を担当するウィレミナがそうだ。彼女は神々の眷属である神秘生物を愛し知ることで神への返礼とする。
そしてもう一つが狂信派だ。人間の歴史の汚点である"灰色の魔女"を殺すことで神に報いようとする。その派閥の代表がイノーニであり、彼女は過激なほどに魔女殺害思想を抱えている。時に狂信的なことからイノーニと同意見の派閥をまとめて狂信派と呼ぶようになってしまった。
魔女は殺せ、忌々しい。そうイノーニは吐き捨てた。
「或れが居る所為で何もかもが善く為らない。我々の安寧の為には魔女の処刑が必要だ」
それで初めて救われるのだ。その処刑でもってやっと人間は神の期待に応えられるだろう。
神々が今まで与えてくれた恩恵に報いるには魔女の処刑が必要なのだ。与えられっぱなしではいけない。人間もまた神に報いなければならない。原初の時代のような神々と人間の蜜月を取り戻すために。
過去の負債を片付けなければ新しいことは始められない。
***
「今日もイノーニは過激なのね」
「いつものコトでしょ」
気にしないよと独特の片言で語る彼女に、そう、とリグラヴェーダは相槌を打って話題を終わらせた。
今話すべきは狂信派の過激な主張の是非ではない。
「生徒を加害する不届き者がいるんですって」
「おやまぁ。ソレは困るネェ……」
生徒は高等魔法院にとっての資産なのに。
未来ある若者たちが悪意や敵意によって害されてはならない。
ふむ、と彼女が唸る。心当たりになるような勢力はない。どんな目的に導くかはそれぞれだが、どの勢力も生徒を後押しして支援する手段を取るはず。今から育とうとする芽を潰すなどありえない。
研鑽派か狂信派のどちらかではない。院外の外部勢力の差し金でもなさそうだ。外部勢力から手が伸びるのなら最高責任者であるアスティルート院長が察知しているはず。
なら生徒同士の小競り合いと考えるのが妥当なところだが、それにしても階段から突き落として殺そうとするだなんて穏やかじゃない。喧嘩やいじめの領域を越えている。
「ねぇリグ。確認しておくケド」
「生徒を加害した場合、そこに正当性がなければ収監よ」
被害の反撃などの正当な理由なく生徒を加害した場合、懲罰房や監獄といった類の言葉で表現される空間に収監される。校則にもそう書いてある。
そこでどんな罰が行われるかはリグラヴェーダの知ったことではない。まぁ死にはしないだろう。
「それを知った上で排除したいほどの理由がある……ということかしらね」
あの生徒はそれほどの恨みを買うような性格ではなさそうなのだが。
もう少し調べたほうがいいだろうか。それとも本人が乗り越えるべき障害とみて様子を見るべきか。教え導く側はこういう匙加減が難しいのよねとリグラヴェーダが溜息を吐いた。大人が介入すれば子供の喧嘩は即座に解決できるが、それでは子供のためにならない。しかし子供に任せておくと取り返しのつかない事態になった時に困る。
「キミは最悪答えを聞けるジャナイ」
リグラヴェーダは真実を司る氷の神の信徒なのだから氷の神に真実を問えばいい。万象を網羅する氷神は答えを授けてくれるだろう。誰が何の意図で加害せしめたのかなんて一瞬でつまびらかにされる。
それを知って介入するかどうかは話が別だが、少なくとも今ここでしている答えのない議論は終わらせることができる。
そうだろう、と彼女が問えば、そうね、とリグラヴェーダが答えた。
「でも推理小説の巻末から読むなんてマナー違反でしょう?」
謎解きを楽しむのもまた一興。こうして推測を話し懸念を吐き出し根回しの手を打つことも悪くない。
そもそも、とリグラヴェーダが続ける。
「私達は読者ではなく盤上に置かれた駒の1つよ」
登場人物なのだ。読者ではなく。次元のスケールが1つ違う。
物事を俯瞰で眺める立場ではない。推理に右往左往する役割の端役だ。そこをわきまえないととんでもないことになる。
「私は大丈夫なんてうぬぼれちゃいけないわ」
自分はまともで、非難される謂れはなく、害される心当たりのない善良な人間だ。
そう主張する人間ほどろくなことはない。
その裏でどんな真実を捻じ曲げて潔白に見せているのやら。




