表に出る殺意
アルヴィナ先輩が、どうして。
翌朝。起きてからカンナの思考はそればかりだった。
あの不吉な花の差出人はアルヴィナ。真実はそこだけしか判明していない。もしかしたら殺害予告かもしれないし、警告かもしれない。意図も理由もまったくわからない。
中途半端に明らかにしてしまったせいで胸の中に鉛が落ちた気分だ。
「はぁ…………」
重い溜息を吐いてるなぁ、といつもなら茶々を入れてくるベルダーコーデックスは今はホルダーの中で沈黙している。喋る武具は珍しい。だからベルダーコーデックスとカンナが会話していると周囲に興味津々に、あるいは奇異の目で見られてしまうからだ。
単純に、日常の会話をするほど親しくしていたくないというベルダーコーデックスからの拒絶かもしれないが。人嫌いめ。
「ベルダー、あとでちょっと考えの整理に付き合ってくれる?」
沈黙。これは無視ではなく了承の沈黙だ。その差くらいはわかる。
付き合ってやるから時間が空いたら呼べという無言の了承に、ありがとう、と一言声をかけた。
考え事というものは人に話すことで整理できる。人嫌いのベルダーコーデックスなら容赦のない舌鋒で矛盾を突いてくれるはずだ。口と性格と性根は悪いが、悪いゆえに曲がらないので信頼できる。
今はこの容赦のない舌鋒が必要だ。辛辣な一言に腹が立つこともあるが、今はその苛つきも我慢しよう。
そう考えながら階段を降りる。踊り場から一歩踏み出し、刹那。
「え……?」
がくんと足元が崩れる。どん、と何かに背中を押された気がした。
待った。ここは階段。下り階段だ。そこから落下するということは。
「っ…………!!」
落ちる。この高さから落ちたら無事では済まない。
思考が生きるための手段を全力で模索する。体が死を回避しようと全霊で手繰る。視界に銀の棒が映る。手すり。
「は、ぁ…………!!」
手すりがあってよかった。心底そう思った。
階段を踏み外して落下するその瞬間、咄嗟に手すりを掴んで事なきを得た。段の角で膝を擦りむいて脛を打っただけだ。
「君、大丈夫か!?」
カンナが階段から落ちそうになった一部始終を目撃した生徒が駆け寄ってくる。大丈夫かと声をかけ、立ち上がるために手を貸してくれた。
差し伸べられた手を支えにどうにか立ち上がる。足の痛みよりも大怪我をせずに済んだ安堵で腰が抜けて立てない。
「怪我は、あぁ、ヒザ擦りむいてる」
「大丈夫? 医務室行こ。こっちこっち!」
「すみません……」
「いいよいいよ。気にしないで」
通りすがりの女生徒に支えてもらってよろよろと歩き出す。見世物じゃないわよと別の女生徒が手を払い、階段の踊り場で起きた小さな騒ぎは解散になった。
そのまま、女生徒に支えてもらいながら廊下を進む。起き上がる時に手を貸してくれた男子生徒が痛かったら抱えるからと申し出てくれたのを丁重に断りながら、医務室へと向かう。
ぶつけて血はにじんでいるが滴るほどではない。傷口を消毒して絆創膏でも貼れば数日で癒えるだろう。だが肉体の怪我よりも精神的なショックのほうが大きい。
咄嗟に手すりを掴んだからよかったものの、そうでなければ階段から落下していた。下手をすれば骨折、最悪打ちどころが悪くて死んでいたかもしれない。
それはまるで、昨晩送られたムルトルの花言葉が実現したようじゃないか。
「せーんせーいー!」
そうこうしているうちに医務室に到着する。怪我人だよ、と女生徒が魔法院専属の医師を呼びついで、カンナを診察用の椅子に座らせてくれた。
「じゃ、あとはジェリス先生に任せるね。お大事に」
「あ、は、はい! ありがとうございます!」
手を貸してくれた2人の生徒にお礼を。いいよ気にしないでと2人はゆるく首を振り、それからそれぞれ医務室から出ていった。
「怪我人と聞いて」
温和という言葉をそのまま形にしたような優しい雰囲気の男性が白衣の裾を翻して奥の部屋から駆けてきた。ほんの少し薬臭い。
毛先だけ赤い茶髪の癖っ毛の彼がこのヴァイス高等魔法院の医療を一手に担う医師なのだろう。ガイダンスで名前だけは聞いたことがある。さっきも女生徒が名前を言っていた。
「すみません。奥の部屋で薬の調合をしていたものですから。えぇと、どこを怪我したんです?」
「あの、階段から落ちそうになって、膝を……」
ここです、とカンナが擦りむいた右足を見せる。怪我を診やすいようにと用意してあった足置きに足を置き、ジェリスに見せる。
ここまで支えてもらって運ばれてきたが、怪我自体は浅い。大したことのない怪我だ。骨が折れているとか外から見えない内部的な損傷もない。
「痛々しい。今治しますからね」
なんて痛々しい。怪我に顔をしかめたジェリスが首から提げていたペンダントを外す。丸く薄い銀のペンダントトップが揺れる。
ペンダントトップは真円を半分に分割するように2つのパーツに分かれている。片方は白く、片方は黒ずんでいる。光と影の相反する2極を象徴するようなそれのうち、白い方をカンナへと渡した。
「これを握って」
「え? は、はい……?」
何をするのだろう。てっきり消毒をするのかと思ったら。出てきたのは消毒液に浸した脱脂綿ではなく銀のペンダントだ。
ペンダントはおそらく武具だろう。この流れなら間違いない。
だが待ってほしい。この世には、過去から現在まで、ひとつも怪我を治す武具はないのだ。
「"シナストリー"」
なに、とカンナが言う前にジェリスの持つ武具が起動する。白と薄緑の混ざった燐光が膝を包む。
ふっと光が消える頃には、カンナの膝は元通り無傷に戻っていた。




