番の海竜
残るようにと言われ、素直に着席したまま他の生徒がいなくなるのを待つ。
何かやらかしてしまっただろうか。不正解が気に入らなかったとか。知っている範囲で構わないと言ったのにきちんとしたレポートを仕上げてしまった熱意をやりすぎと咎めるためか。
こうして居残りさせられるほどのことをした心当たりはそんなにない。背中に嫌な汗がにじむのを感じた。
そんなカンナを安心させるように微笑みかけたウィレミナは一冊の文献とカンナが提出したレポートを持って対面に座る。
カンナの正面にきちんと座ったウィレミナは説教じゃないので大丈夫ですよと切り出し、それから本題に入った。
「レポート読ませてもらいましたけど」
「え」
読んだのか、あの短時間で。ぱらぱらとめくる程度の一瞬で。
驚くカンナに構わずウィレミナは続ける。居残りさせた理由はこのレポートだ。ただし、しっかり仕上げてしまった熱意をやりすぎだと咎めるためではない。
「ナルド・リヴァイアについて、とてもよくまとめられています。文献の引用も素晴らしい。花丸あげたいくらいですよ」
で、それはいいのだが。居残るように言ったのはカンナの体験談の部分だ。
子供の頃、海で溺れかけてナルド・リヴァイアに命を救われたという話。
「ナルド・リヴァイアと書いてありますが、たぶんこれはレヴィアのほうでしょうね」
「レヴィアって……ナルド・レヴィアです?」
「えぇ」
聞いたことがある。ナルド・リヴァイアには番がいると。ナルド・リヴァイアが荒ぶる大波の具現ならばナルド・レヴィアは凪いだ穏やかな海の具現だと言われている。
しかしナルド・レヴィアは"大崩壊"により重傷、不信の時代、再信の時代を経て今でも傷を癒やすため深海で隠れ休んでいるという。
その存在はナルド・リヴァイアに親しみのある都市ミーニンガルドでも伝承と噂しかない。いると言われているが誰も本物を見たことがないのだ。もしかしたら誰にも悟られず息を引き取っているのではないかと囁かれるほど。
「それが、まさか私を助けるために?」
「じゃないと説明がつかないんですよねぇ。リヴァイアは居るだけで荒波を起こしますから」
ナルド・リヴァイアの不揃いな鱗はそこにいるだけで複雑な海流を発生させる。荒波の具現というだけはある。
だからカンナを助けようと思って寄り添っても、その鱗が生み出す海流が逆効果になってしまう。
そもそもナルド・リヴァイアは気性も荒い。人間を助けることはまずない。貢物を捧げて祈って乞うてどうにか聞き入れてくれるかどうかだ。
それが無償で、何の力も権力も地位もない小さな子供を助けるなんて考えられない。
だからそれをやるならナルド・レヴィアしかいないのだ。番とは対照的に穏やかで優しい気質の海竜は、かつて原初の時代では人間と親しく交流していたという。子供が畑からもいできた果実を海に投げて贈ってくれた礼に魚を咥えてきた逸話が残されている。
子供を助けるなんてことをするのは、ナルド・レヴィアだけ。しかもそれは普段は深海にいて滅多に姿を現さない。そんなレヴィアに会えたなんて貴重な体験だ。
「ものすごい幸運の出会いですよ。一生自慢できるくらい」
個人的に、ナルド・レヴィアの研究のためもっと詳しく体験談を聞き出したいくらい。それくらい価値がある。
それを伝えるために呼んだのだ。
「うん話はそれだけです。では空魚のレポートも頑張ってくださいね!」
「ぅ…………」
***
男女の寮の中間、そして自習室や購買がある建物。だからセンターというらしい。
施設の概要としてはコミュニティセンターなのだが、略してそう呼ばれる。
自習室の一席を借りて神秘生物学のレポートをまとめる。話についていけるように速度を優先したせいでノートはかなり殴り書きだ。
一度ノートをまとめ直してからレポートに取り掛かった方がいいんじゃねぇのと正論をベルダーコーデックスに言われ、口の悪い助言に従ってノートを書き直す。
清書用のノートに書き写し終わり、さてレポートに、と休憩のつもりで伸びをした時、ふと視界が陰った。背後に誰かいると気付いて振り返った。
「あ、ハル先輩!」
「やぁカンナちゃん」
人当たりよく微笑むハルヴァートがそこにいた。
隣いいかな、と隣の席に座ったハルヴァートはゆるく頬杖をつく。その姿も様になっている。かっこいいなぁと心底思う。入学初日に恋人の存在が判明して失恋したこの恋心だが、やはりまだ憧れも好意も変わらない。
アルヴィナに成り代わって恋人の地位におさまりたいという欲求が出ないあたり、この恋心は恋愛よりも憧憬が強いのかもしれない。
「自習? 何の?」
「神秘生物学です。空魚のレポートを書けって言われて」
「へぇ」
神秘生物学は取ってないなぁ、とハルヴァートが呟く。あれはこまめにレポートを提出しないといけないので、その分野に強い熱意がなく、単位稼ぎで履修するのはやめておこうと思ったので。
なのにレポートだらけの神秘生物学を取るなんて随分熱意があるんだなぁ、とカンナを褒めて締めくくる。
「先輩はどんな授業取ってるんです?」
「必修以外は……薬学と語学だね」
「薬学ってことは、リグラヴェーダ先生の?」
「そうそう」
そこでアルヴィナと出会い、一緒に学んでいくうちに親しくなって、という流れだ。
薬学にあまり興味はなかったのだが、まぁ覚えて損はない分野だということで消去法で。薬や毒の話は覚えておけば何かと役に立つ。
「語学は砂語をね」
「クレイラの?」
「そう」
世界の南西の端にクレイラという島がある。雷神の信徒が集まって形成された成り立ちを持つ島は、岩が雷に砕かれ細かくなった砂が舞う砂漠の島だ。季節によってはずっと砂嵐が吹き荒れることもある。
そんな環境下で会話しようものなら口を開いた瞬間に砂が口に入ってしまう。なのでできるだけ口を開かないよう喋り方を工夫した結果言葉が訛り、訛りはやがて別の言語になってしまった。それが砂語だ。
その難解な言語は古語としてクレイラ島に残っている。
「推理小説の暗号とかでたまに使われるからさ。覚えておくと解説部分が読み飛ばせるだろ?」
「なるほど……」
そう、と頷く。実のところ、ハルヴァートは何か目標や目的があって高等魔法院に進学したわけではない。"灰色の魔女"を殺すためでも魔法の習熟や武具の製作技術を学ぶためでもない。ただ見聞を広めたかったというのが入学の理由だ。
だから貪欲に色々知ろうと決めて行動している。薬学も語学もそのためだ。
「あ、でもレポートが多いのは勘弁かなぁ」
「あはは!」




