空飛魚
知っている範囲のメモ程度で構わないと言われてはいるものの、借りた本を読んだら書くことがどんどん増えてしまった。
我ながらしっかり書きすぎたのではと思わなくもないレポート用紙6枚を束ね、レポート提出用の箱に入れる。入れようとした。
「あらぁ、しっかり書いたんですねぇ」
熱意があって何より。レポートの厚みに思わず嬉しくなってしまったらしいウィレミナに取り上げられる。
中身を確認するためかぱらぱらと読み、うん、と頷く。熱意があって何よりだ。
「ではでは着席してください。今日からちゃんと真面目に勉強しますからねぇ」
教科によってはまだ退屈なガイダンスが続くかもしれないが、神秘生物学の授業はもう本格的な内容に入る。
教科書はない。黒板に図示をしつつの口頭が基本だ。参考資料として論文のコピーは配布するかもしれないが。
なので聞き逃さないようにと重ねて言い、早速ウィレミナは黒板に文字を書きつける。チョークで学名を、それから大きく通称を書く。
Hsihyks。空魚。あるいは空飛魚。もしくはアネモス。
「空魚呼びが大半ですねぇ。なので授業内でも空魚で統一しますねぇ」
神秘生物学の実習実践第一回目は空魚だ。
空魚とは。ここからは口頭だ。生徒諸君は聞き逃さないように、そして必要ならばノートにメモを取るように。
前置きして、ウィレミナは空魚について諳んじ始めた。
「空魚とは、その字の通り空を泳ぐ魚です」
魚が水中を泳ぐように宙を漂い泳ぐ。水が空気になっただけだ。だから空魚という。
「通常、魚は水神の系列のものですが、空魚は風神の系列に組み込まれています」
魚は水中で生活するものだ。だから水の元素を帯びている。水の元素を帯びているということは水の属性の生き物ということになり、ひいては水神の系列に連なる。
わかりやすく言えば、水神の眷属の眷属の眷属の眷属の眷属の眷属の、と繰り返した末端だ。ただの魚一匹でさえ神秘生物学ではそのように解釈する。
そのただの魚が魔力に適応して進化したものこそ神秘生物学で扱うものだ。魔力を帯びた魚は立派に水神の眷属だ。とはいえやはり末端に変わりはないが。
そうして水神の眷属の末端に連なる魔魚の中で、水神から風神に乗り換えたものが空魚だ。
水の属性を捨てて風の属性を得たことで空中を自由に遊泳することができる。
「見た目は……これは喋るより絵を見たほうが早いですねぇ」
ということでこれが空魚だ。精密なスケッチを大きく引き伸ばして印刷した紙を黒板に掲示する。
ひらひらとヒレの長い魚だ。見た目の上では金魚の琉金と変わりない。鯉や金魚によくある赤と黒の斑点が濃淡の緑色に変化しているくらいだ。
「簡単に言うと、空飛ぶ大きな琉金です」
そして非常におとなしい。なので授業の第一回目として抜擢されたわけだが。
空魚は草も肉も食わず、ぱくぱくと口を開閉させて大気を食する。空魚にとって宙を漂うことは運動でもあり食事でもあるというわけだ。
おとなしい上に餌要らずで飼育が楽なので神秘生物の飼育の面でも初心者にもってこいだ。空魚を死なせてしまう程度の腕ではとうてい神秘生物を飼うには値しない。
「空魚は空気を食べる。長い間そう信じられてきたわけですが……」
なんと違ったのだ。
「空魚の嗅覚が発達しているのは餌に適する清浄な空気を嗅ぎ分けるため……ではなかったんです」
空気ならば何でも食べるというわけではない。空気が汚れていればやはり病気にもなる。
体内に取り込んでいい空気かどうかを判別するために嗅覚が発達しているのだ。
長い間そう信じられていたし、ウィレミナ自身そうだろうと思いこんでいた。
だが研究が続けられていくうち、新しい事実が発見された。
「なんとこの子、食べているのは空気じゃなかったんですよ。何だと思います?」
長話も飽きたろうから形式を変えてみよう。はいそこ、と指を指して生徒を当てる。
当てられた生徒は小さく跳ね、えぇと、と言いよどむ。
「うーんわからないですかねぇ、減点ですよぅ。ではそっち」
「えっ」
当てられ、ぱちくりとカンナは目を瞬かせる。
ウィレミナの視線には、あれだけしっかりとしたレポートを書いてくるくらいの熱意があるなら、という期待が込められている。当たっていようが外れていようが、何かしら答えねば失望させてしまうだろう。
当たっているかは些事だ。肝心なのは自分なりの推測を答える意欲だ。さっきの生徒はそれができなかったから減点された。
「えぇと…………空気中の魔力を食べている?」
空気中には微量ながら魔力が含まれている。酸素や二酸化炭素と呼称を揃えて魔素と呼ばれる。
空魚が空気そのものを食べていないとするなら、食べているのはそれくらいだろう。魔力を帯びている魚ならば魔素を食べてもおかしくない。
答えたカンナに、残念、とウィレミナは小さく首を竦める。
外れたのは惜しいが自分なりの推測を回答しようという意気は良し。うんうんと頷きながら正解を告げる。
「正解はですねぇ、なんと匂いなんですよ」
匂いを嗅ぎ分けて清浄な空気を判別していたと思われていた。発達した嗅覚も、匂いにつられる習性もそのせいだと。
だが実はそれは逆。空気中の匂いそのものが餌だった。匂いにつられているように見えたのは、頭から順番に食べているだけだった。
「だから嗅覚が発達しているわけなんですよね」
人間の味覚が発達しているのと同じ理屈だ。空魚にとって嗅覚が味覚なのだ。
「では、ここまでの内容をレポートにまとめてきてくださいね」
試験の前の小テストだ。きちんと話を聞いていたか、自分の中で噛み砕けているかをチェックする。
こうでもしないと実際に神秘生物と触れ合う時に危険だ。生態をちゃんと理解していても下手すれば死にかねないのだから。
レポートを提出し、それが合格ラインに達していたら実習に参加させる。できていなければ参加させない。レポートの提出期限は実習日である次回の前日。
今回は相手が空魚ということもあり生態の説明は1コマと短いが、本来は何コマも渡るほどに説明が長くなるだろう。あくまでこれは座学と実習の一連の流れをやってみるためのものだ。
「それでは今日はここまで。……あ、カンナ・フォールンエンデさん」
「はい」
「ちょっと残ってもらえます?」
「……え」




