95.サンチェスと盤上
ヴェンガンザの敗北は、ほぼ確実だった。
それも、アレキサンドラ社の壊滅のタイミングから、それは確定していたのだ。
気の遠くなるような話に、ヴェンガンザは唇を噛んで正気を保つ。
ここまで来て、全ての手札がずっと前から潰されていた、という種明かしをされて、正直もうどうしようもないのだ、という諦念がないわけではない。しかし、直接的に敗北したわけでもなしに敗北を認めてしまう、というのはこれまでに無駄に培ってきた復讐心に対する裏切りだ。
復讐心と執着だけで、ヴェンガンザは今日この日まで生きてきた。
今更だ。今更、諦めるなどという選択肢があるわけもない。
「投降しろ、お前は完全に包囲された―――!!」
トランキーロ長官の提言にも全く持って耳を貸さない。
敗北間際となった今、何に対してだって気を向けるつもりはなかった。
「まだだ……まだ手がある―――!!」
ヴェンガンザは叫ぶ。
その言葉に、警官たちは未だに手札が残っているのか、と一歩後ずさった。不発弾となったとはいえ、ヴェンガンザの腹に巻いた爆弾が本物であれば甚大なる被害は当然だった。それに相当するような手札がまだ残っているというのならば、警官隊に与える影響だってそれ相応であろう。
事実として、ヴェンガンザの手札は、全く残っていない。
ただ単なる時間稼ぎでしかない。しかし、そんな愚直な手段を取らざるを得ないほどに、ヴェンガンザは追い詰められていた。
「貴方は、まだ諦めないのですね」
「―――どういう意味だ、エネミーゴ」
さっさと諦めろ、と言われているように感じて、ヴェンガンザは酷くやつれた瞳を鋭くしてエネミーゴに向けた。しかし、エネミーゴはその瞳を受けて怯えるでもなんでもなく、微笑を湛えた。
「いえ、それでこそですとも。だから―――、私はここにいる」
瞬間、もうあり得ないだろうと思われていた、爆音が響いた。
「総員、退避―――!!!」
咄嗟にトランキーロ長官が指示を出す。しかし、これは完全な予想外だった。
想定という視界の外からの突然の来襲。トランキーロ長官の声も若干の焦りから掠れる。
「まだ爆弾があったのか―――!!?」
「今……ヴェンガンザじゃ、なかった……?!」
その通り。この時響いた爆音の原因は、ヴェンガンザではなかった。
その隣にただ立っていただけのエネミーゴが、突然動いたのだ。
「エネミーゴ……?」
「ええ―――私は、エネミーゴ・ミラモンテス・トマス、貴方を主人とし仕える侍従。ですから、未だ貴方に死んでいただくわけにはいかないのですよ」
それだけ言って、エネミーゴはヴェンガンザから視線を外した。
簒奪者たる、サンチェスに視線を向ける。エネミーゴには作戦などというものはなかった。ただ、人生の指針があるだけ。その人生の指針を、サンチェスに壊されかけているのだ。それ故に、エネミーゴは人生の指針を奪い壊そうとするサンチェスを排除する。
『エネミーゴ、お前は主人のもとで生きる人間だ』
エネミーゴは、そう言われて育ってきた。
計画的な犯罪によって生計を立てていた男女のもとに生まれた、エネミーゴ。彼は生まれ持った才覚を持っていた。類まれな知性を以て、犯罪の計画を立てる。そんな才覚を。
エネミーゴの両親はその才覚に目を付けた。まだ幼く、人生の指針など持たないエネミーゴを暗示にかけ、洗脳して自分たちの手駒とするのは簡単だった。元々、一夜の過ちが産んだ子だ。特に愛着もなく、だからと言って一人の命を奪うだけの覚悟もなく、惰性の儘に育ててきた。その子供が、利用価値を持ち始めたのだから、二人そろって躍起になり、エネミーゴを手駒とした。
「主人を持て、主人には従え、知性を高めろ、主人に尽くせ」
ただひたすらにそんな言葉を吐き、聞かせ続け、エネミーゴの色を染めていった。
何時しか、エネミーゴはそれを人生の指針と勘違いし、それだけのために動くようになっていた。
しかし、エネミーゴの両親は少しのミスで逮捕され、刑務所内で心中自殺を果たす。元々、人生に執着の無かった人なのだろう。
当時、残されたエネミーゴはその時もまだ幼く、まさか犯罪に加担するどころか、犯罪の計画者であったなどとは思われず、施設に預けられて保護された。しかし、『主人』を失ったエネミーゴは人生の指針を失ったまま、枯れ枝のようになって日々を過ごした。ただただ知性を高めながら、『主人』足りうる人間が現れるのを待った。
そんな日々の中で、見つけたのはアレキサンドラ社の崩壊の報せだ。
この人こそ、とエネミーゴは希望の光を見つけたかのように心を躍らせた。
投獄されていようが、全く問題ない。必ず、自分が脱獄を手助けする。そう決意を固め、アレキサンドラを脱獄させるための計画を立て始めた。しかし、その計画も水泡と帰す。アレキサンドラが脱獄したという報せによって、だ。エネミーゴはすぐに支度した。
そして、エネミーゴとヴェンガンザは相対する。
主人を求める永遠の子供と、執着に縋りつく老爺が、手を結ぶ。
「私が、この場を攪乱します。その間に―――」
エネミーゴが小声でヴェンガンザに囁く。
ヴェンガンザは、唯一差し出された助けの手を、ただ受け入れるしかない。
「まさか、まだ爆弾が残っていたとは―――ね」
「貴方が爆弾に細工をしたのがいつかは分かりませんが……この場所に設置した爆弾はそれ以前に用意したものです。貴方なら、この場所を選ぶことはほぼ確実だった」
滔々と、エネミーゴは推測だったものを語る。
これも全ては時間稼ぎでしかないこと。しかし、同時に全ての答え合わせでもある。
「爆弾は、未だ起爆していないものも含めてあと二十個ほど。どれも小型ですが、実際に起爆させればある程度の規模にはなる。これが何を意味するか、聡明な貴方方ならわかるでしょう」
それは、純粋な脅しだった。
この場所の、どこにその爆弾が設置されているかもわからない。そして、エネミーゴの言葉がすべて真実なのかもわからない。それが現状だ。もしも、全てがこの場凌ぎの嘘であり、爆弾など残っていない、というのなら問題はない。しかし、逆だったら。爆風の数を数えて二十になって、安心したところを爆破されたら。そんな想像が出来てしまう。
この場所にいるだけで、いつ自分たちが爆破に巻き込まれるか分からない。それだけの恐怖が、警官隊を襲った。
「貴方の計画は、緻密で精細だ。だからこそ、歪に弱いはず」
「そうだね―――、本当に、困ったよ」
―――勿論、嘘だけれど
サンチェスは、その心の声を押しとどめる。
すべては、サンチェスの盤の上の事。そもそもサンチェスは計画の歪に弱い、というわけでもないが、そもそもの話、これは歪にすらなりえないのだ。
何もかも、サンチェスは見通している。
サンチェスは、この場を盤上と見てチェスをしているだけなのだ。
しかも、勝つことが分かっているチェスを。
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