94.終に始まるは新しい演目
◇
トランキーロは少しばかり、思い出す。
サンチェスという男について―――。
サンチェスという怪盗を自称した窃盗犯がいる、という話は聞いていた。
そして、今代のベテラン警部と目されていたエクトルが、その窃盗犯相手に苦戦している、という事実も、報告を通して知っていた。
アレキサンドラ社という巨大な犯罪組織の摘発の際にも、その名が上がってきて、同時に彼は重症を負って一時的に警察病院に運ばれたとも聞いた。その病院から脱走したことも全て、トランキーロ長官は把握している。
直接に関わることがなかっただけで、それらの情報を知らないわけではなかった。
だからこそ、その遠大な計画に、気づくことが出来た。
サンチェスの名が書かれた手紙が送られてきたと聞いて、トランキーロ長官は先ず悪戯を考えた。
それだけでなく、偶然も考えた。スペインにおいてサンチェスという名前は珍しいものではない。偶然なのだと思った。
しかし、手紙には〝死者より〟との文言が付けられ、もはや偶然の説は潰えた。
同時に、血判にも気づく。擦ってみれば血が掠れた。まだ乾ききっていない。まだ殆ど汚染されていない、新鮮な血液だ。他の血液との照合も容易い。
そこでふと、トランキーロ長官は思い出す。
サンチェスは、警察病院にいたことがあるのだと。そして、かなりの重症であったのだと。
命に別状があるほどではなかったらしいが、それでも輸血は必要になったのだとか。当然のごとく、サンチェスの採血はして保管されているに違いない。
その血液と照合できれば、本人であるかの確認が取れる。
鑑定に血液を調べさせ、当然のようにサンチェス本人であるとの判断が下った。
手紙の重要性が、これでもかというほどに高まる。
そこに書いてあった、要求。
本来なら受けるはずもない要求に、トランキーロは応じることを決めた。
『―――まさか、本当に来ていただけるとは』
『あの様な手紙……大胆不敵と言うにも度が過ぎるぞ』
『どうしても、これだけは成さねばなりませんので、ね。貴方が、一番適任だと、僭越ながら選ばせていただきました』
『怪盗殿に選出していただけるとは、なんとも光栄だな?』
『いえいえ、そんな……まぁ、本題に入りましょう。亡霊には時間がございません、閻魔が地獄で待っていますので』
軽い冗句を混ぜながら、目の前の男、サンチェスが席を勧めてくる。
ここは、人の滅多に訪れない喫茶店だった。老夫婦が道楽でやっているのだが、どうしても客足は伸びない。ただ、死にゆくまでの暇つぶしなのだと、その老夫婦はそう言って笑う。
『閻魔殿を待たせるのもよくない、話に入ってくれ』
『ええ、そうしましょう。今回、わざわざ来ていただいたのはほかでも有りません、次に国家警察に届く〝死者からの手紙〟―――その手紙を信用していただきたい』
『……その手紙の内容は?』
『まだお教えできません。と言うより、まだ決まっていないのです。ですが、その手紙は極めて重要です、ですから、なんとしても信用していただきたい……!!』
『余程、何かに執着しているように見える』
『……そうですね、強いて言うなら、貧しかったあの頃に、ですかね』
サンチェスの瞳を、改めて見てみる。
その瞳に、偽りの色はない。窃盗犯を信用する、ということの愚かさはトランキーロ長官だって当然、知っている。
それでも、サンチェスは信じられると思った。それが、絶対的な洞察元の持ち主である、トランキーロ長官の判断だ。
『今、この場で……君を逮捕することも出来る』
『そうですね、でも貴方は警察官を連れてきたわけではない』
『せめてもの礼儀だ。それに―――、君一人なら私一人で十分相手できる』
『―――? ふむ……ほんとですね』
トランキーロ長官は、すでに現役の刑事として職務にあたっているわけではない。だからか、少しばかり油断している節があった。
ここで、サンチェスはトランキーロ長官に対する印象を改める。ここで戦うなり、逃走するなりしても、戦いは完全な五分だ。
まさか現役の頃はそれ以上だった、などと想像したくもない。
『……安心すれば良い、私は少なくとも今は、君を逮捕するつもりがない』
『それは良かった。大丈夫ですよ、ことが全て済んだら、私は自首しましょう』
『そう……か、分かった。その約束を対価に、次の手紙を信用しよう』
本来ならば、窃盗犯の言葉など信用に値するわけもない。
目の前で語る男の瞳に真実の色しかない? だから何だ、と普段のトランキーロ長官であればはねつけていたはずだ。それなのに、今回ばかりは信用する気になった。
その理由を述べよ、と言われてもトランキーロ長官本人は何も言えないだろう。それほどに、直感的で本能的な判断だった。
『では、私は早めにお暇致します』
そう言って、サンチェスは「すみませんが、これだけお願いしますね」と自分が飲んだ紅茶の分だけ硬貨を机に置いて、姿を消した。その時の仕草が、まさか逃げるようには見えなくて、トランキーロ長官は目の前に先程までいたはずの男の底の見えなさに恐ろしさすら感じる。
それから少しして、エクトル警部に手紙が届いた、という報せを聞いて、やっとその時が来たのか、とトランキーロ長官も考える。
そして、その内容を聞いて、まさかそんなことが、とは思ったものの、既に交わした約束だ、と諦念交じりにその手紙を信用する許可を出す。同時に、自らの名を用いて警官隊を動かす決断もした。それが、自らの本能的な判断に対する責任だった。まさか、エクトル警部やセフェリノ警部に責任を押し付ける気などない。責任なら、自分が担う。
今更、国家警察長官などという立場に、拘りはなかった。
『どこまで、想定通りだ? 怪盗殿』
『そうですね―――全部、と言えば……信用していただけますか?』
『まさか―――ここまで来て信用しないなどあるわけあるまい』
『それはありがたい。ええ、全てです。それこそ、アレキサンドラ社壊滅の頃から―――』
『改めて聞くと、本当に恐ろしい頭脳だな。あのタイミングから、アレキサンドラの脱獄まで予測し、わざと血液採取が必要になるレベルでの怪我を負ったと?』
『いやぁ、あれは失策でしたよ。少しばかり計算を間違えて本当に大怪我になってしまいました』
そう言って、サンチェスは笑う。
しかし、トランキーロ長官はその表情すら強者の笑みにしか見えずに苦笑を漏らす。
目の前の男は、予言を授かったかのような判断をしていたのだ。警察の懐へと落ちることすら、全てを計画のうちに入れて。
『まぁ、他にもいくつか保険を用意していましたね。予告状は一つ残らず私の直筆です。筆跡鑑定にかければ一瞬で分かる。警察病院に入った時点でいくつかの証拠は残せましたし―――と言っても、貴方の判断力の前ではそれらの保険も不必要でしたね』
これまでにサンチェスがしてきたことのほとんどが、この日のための策だった。
そんなことを目の前で暴露されて、トランキーロ長官はさらにひきつった笑みになる。目の前の男は、どれだけ未来を見てきたのか。何もかものすべてを利用して、この日のために伏兵を用意していたのだ。
『すべて、お見通し。恐ろしいな、君は』
『お褒めにあずかり光栄ですよ―――まあ、全てはこの日のためです。この日、今から―――』
そこで、サンチェスは言葉を切り、その身を翻す。
トランキーロ長官の真正面に立って、その瞳と自らの視線を合わせた。丁度、背中にはヴェンガンザと対峙するエクトル警部、セフェリノ警部、レオパルド、そして彼らが率する警官隊がいる。
その場を、自らの舞台として。
『そうです、今から―――新しい演目を始めましょう!!』
声を抑えながらも、それでいて声高に。
サンチェスは宣した。
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